10ー3

 いやというほど大きく響いていたのに、廊下を走る音はあっという間に消え去っていった。残されたのは真冬みたいな空気だけ。

 そっと、立ち上がる。

 俯いてしまった蝶の顔には影が落ちていた。シャツを握りしめたままの手はやっぱり震えていて……それが全てだ。それが全部じゃんか、蝶がどう思ってるかとか何が起こったのかとか、それで全部わかっちゃうんだよ。


「……なんで」


 思わず漏れた声に蝶の肩が大きく震える。

 ゆっくりと、その顔が私へと向けられた。えへへ、なんて力無い作り笑いがこぼされる。笑みを作った唇は震えていた。瞳は必死に溢れそうな涙をつかんでいた。

 なんで、なんで──。


「なんで、あんなこと言ったの。せっかく上手く隠してたのに、黙ってればこれまで通りでいられたのに、なんで二人に言っちゃったの!?」


 勢いそのままに蝶の肩に掴み掛かる。一瞬だけ漆黒の瞳が歪む。笑顔が崩れそうになる。それでも蝶は作り笑いを続けた。

 胸の中を掻きむしりたくなる。気持ち悪いのか気に入らないのか、怒っているのか憎んでいるのか、なんにもわからなくなってしまう。


「やめてよ、笑わないでよ、笑えないでしょこんなの。ねえ、明日からどうすんの、どうなるかわかってるの? あいつらが他の人に言うかもしれない。言わなくてもあいつらがこれまで通りでいてくれるかなんてわかんないんだよ? 陰で何か言われるかもしれない。そしたら蝶まで浮いちゃうじゃん、蝶まで私みたいになるじゃんか──!」

「……なんで鈴がそんなこと気にするの」

「そんなの、友達だと思ってるからに決まってるでしょ!?」


 目の前が歪む。まともに見えない景色の中、蝶の瞳が大きく揺れ動いたのがわかった。作り物の笑顔が崩れて、その後に本物の笑顔が浮かべられたのも。


「そ、っか。うん。そうだね、友達なんだ、私たち」

「っ、そうだよ、そうなんだよ──」


 蝶の肩を掴む手に力が籠る。指が食い込んで痛いだろうに、蝶は少しも痛がるそぶりを見せない。

 痛いでしょ、絶対。その肩も、その心だって、痛いに決まってるじゃんか。


「……だから言ったんだよ」


 痛いはずなのに、それでも蝶は笑った。泣き出しそうな顔をしているくせに、それでもその瞳から輝きは失われていなかった。


「鈴のことを友達だと思ってるから言ったんだよ。女の人が好きなのは私もなんだって、鈴だけじゃないんだって。だってそうしなかったらさ、鈴はずっと一人じゃん。一緒にいたってひとりぼっちでしょ、そんなの。それで鈴だけ仲間はずれみたいな顔して私だけなあなあで生きるのとか、ずるいじゃんか。したくないよ、そんなこと」

「……もう死んでるのに?」

「関係ない。関係ないよ、そんなの。たとえもう鈴が死んでるんだとしても、それでも鈴はまだここに居る。だったらさ、ダメでしょ。友達だと思ってるのにひとりぼっちにするなんて」


 なにそれ、と返す言葉は鼻声だ。蝶は小さく笑みをこぼす。光を持つその漆黒の瞳が伏せられる。光が見えなくなって、それは静かな夜のよう。誰もいなくなった真夜中みたいな瞳だった。


「私はさ、あの二人と過ごすのは嫌いじゃないよ。楽しい時間の方が多い。……でも、時々辛くなる。誰が好きだとか誰がかっこいいとか、そういう話題になると私、ついていけないんだよ。話に混ざれないの。勝手に自分だけ仲間はずれにされてるみたいな気持ちになって、ああやっぱり自分は違うんだ、って。この子たちのことなんて理解できないし、この子たちも私のことなんてわからないんだ、って。ちゃんと、話そうともしてなかったのにね。それでもやっぱり思うんだ。みんなが普通で、私が異常なんだって。みんなとは違う私は間違ってるのかなって」


 そんなわけないのに。

 そう否定する蝶の声は弱々しい。自分で自分を認められない、支えられない、聞き覚えのある、誰かと全く同じ声。


「家とか学校に大きな問題があるわけじゃない。何も問題なんてない。それでも、どこに居てもそこは自分が居てもいい場所だなんて思えないの。どの場所にも馴染めなくて、この世界に私が私で居られる場所は、私が私で居てもいい場所はないんじゃないかって思っちゃう。……そんなの誰にもないのかもしれないけど、それでも、世界そのものから拒絶されてるような気がしちゃう。ドラマもアニメも漫画も小説も、友達の話だって、全部とは言わないけど、けど男と女ばっかりじゃん。いくら需要と供給の問題だ、って言われたって限度ってもんがあるじゃん」

「……まあ、確かに」

「でしょ。そんな世界のどこで息ができるって言うの? どこに居場所があるの? 誰も味方なんていないじゃんか、私だけ仲間はずれじゃんか──って、ずっと、そう思ってた。そう思いながら、苦しいまんまで生きてきた。だけど、違ったんだよね」


 その瞳が真っ直ぐに私を見た。夜の闇と星の光が溶け合っているけれど、あと少しでその光が負けてしまいそうな瞳が。


「みんなの当たり前に馴染めないのは、嫌な思いをしてたのは、この世界で上手く息ができないのは、私だけじゃなかった。私だけじゃないんだって、鈴と出会ってやっとわかった。みんなと違うことで浮いてて、まるで気にしてないみたいな顔をした鈴がいつも保健室に居て……最初はそれが羨ましかった。だって鈴はみんなと違っても平気なんだろうって思ってたから。でもそうじゃなかった。同盟を組んでほしいって、話し相手になってほしいって言われて気がついたの。ああ、この子だって一人は嫌なんだって。自分を曲げなくて隠さなくたって、堂々と生きてるように見えたって、それでも平気で居られるわけじゃないんだって」

「……うん」

「嬉しかった。ひとりぼっちで苦しんでいたのは私だけじゃないってわかったことが。自分と同じ誰かに手を伸ばしてもらえたことが。もちろん、綺施池先生と合法的に毎日会えるのもだけど」


 なにそれと思わず笑みがこぼれる。蝶もそれに合わせて小さく笑みをこぼした。

 その目はまた、暗闇に。


「嬉しくて、でも、私は結局変わらないままだった。鈴が何を言われても、私は何もしなかった。言い返すこともろくにしなくて。仲間だって思ってるのに、友達だと思ってるのに。私はずっと鈴のことを一人にしてた。ひとりぼっちのままにしてた。……でも、それももう終わり」


 ず、と鼻を啜ったのはどちらだったのだろう。きっと、二人ともだったのかもしれない。


「これで明日から私もひとりぼっちの仲間入り、ってわけ。ま、ちょっとだけしんどいけどさ」

「蝶」

「だってさ、二人とももう私とは話したくないでしょ。二人の顔見たでしょ、鈴も。他人にあんな目で見られたの初めて。友達を見る目じゃなかった。私は、私はまだ、二人のこと友達だと思ってるけど」


 顔を俯かせた蝶にかける言葉は見つからない。彼女の肩を強く握り締め続けることしかできなかった。


「どうすればよかったのかな。どうすればいいのかな、明日から。気にしないふりして普通に振る舞うのが正しいのかな。昨日のは冗談、なんて嘘つけばいいのかな、嫌だけど。私明日から、どうやって生きてけばいいんだろ」

「……ごめん」

「や、鈴が謝ることじゃないでしょ。でも、ほんと、難しいね。はは、私さ、鈴がいなくなっちゃったら本当にひとりぼっちになるかも。だからさ、鈴、やっぱりまだ成仏なんてしないでよ──」


 何も言えなかった。

 頷くこともできなかった。

 受け止められなかった蝶の言葉は虚しく空気に溶けていく。

 こうなった責任は誰にあるんだろう。こうなってしまったのは誰が悪いんだろう。

 知っている。もう、わかってる。誰も悪くないし、誰にも責任なんてない。

 それでも、と。それでもこのままにはしちゃいけないんだって、このまま蝶をひとりぼっちになんてさせたくないって、そう思うんだ。

 なら、どうするべきなんだろう。その答えは、今はまだ見つけられそうになかった。

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