8ー3

 キーボードを叩く音が鳴り始めたところで、少し騒がしい二つの足音が重なってきた。楽しげな話し声と共に。

 がらりと扉が開けられて、保健室に姿を現したのは見覚えのある二人組。一瞬引き攣った喉の音は床を踏むスリッパの音に潰されてくれたはず。だから彼女たちは今日もこの前とちっとも変わらないままで。


「失礼しまーす、っと、居た居た」

「やっほ、蝶。それと、極寂さんも」


 蝶の友人たちは軽く挨拶をして私たちの方へと歩み寄ってくる。止まった音に視線を動かせば、手を止めたくーちゃんが無表情のまま彼女たちを見つめていた。


「……どうしたの二人とも、何か用事でもあった?」

「いや、さー」


 蝶の問いかけに、何か言いたげな声で二人は顔を見合わせる。しばらくの間そうしていたけれど、二人は突然私に向き直った。


「その、極寂さん、この前はごめん!」


 ごめん、と二人揃って頭を下げる。その勢いに気押されて黙っていると、二人の顔がゆっくりと上げられた。

 ちっとも、変わっていない。そのはずなのに、焦茶色の瞳はその謝罪が本心からのものであると物語っていた。


「あれからちょっと考えてさ、その、この前は多分、極寂さんに嫌な思いさせちゃったんだろうなって」

「……え、っと。それ、は」

「ごめん、ほんと。あたしたち、無神経だった、よね? でもその、さ、仲良くしたいのは本当なんだよ。ずっと気になってたし。ただこの前はやっぱり絡み方が良くなかったなって思って」


 心臓の音がやけに煩い。空調の効いた部屋は決して暑くはないはずなのに、そもそもこの夏は少しも暑くなんてないのに、背中を汗が伝い落ちている。

 焦茶色の瞳たちが許しを乞うように私に向けられている。どうしてだろう。そこに私を傷つける意図なんてない。そんなの少しもないはずなのに、この二人が怖いと思ってしまうのはなんでなんだろう。

 何も悟られたくなくて彼女たちから目を逸らす。ううん、と。首を横に振った。それが私にできる精一杯だった。耳に届いたのは安堵のため息。

 怒ってない。私は別に、怒ってはなかった。


「大丈夫だから、その、気にしないで」


 よかった、なんて安心しきった声が聞こえた。本当に、怒ってはないんだ。でも。


「よかった、ほんと。あ、でさ、あたしたちやっぱり極寂さんと仲良くしたくて。ほら、この前の講演会。あの人の話聞いてから色々気になることがあってさ」

「そうそう。極寂さんならわかることとか知ってることがたくさんあるんじゃない? って二人で話してたんだよね。ほら、えるじーびーてぃー、だっけ。極寂さんはレズなんでしょ?」

「────」


 その一言で私の頭は動かなくなってしまった。まるで意識がピンで固定されたみたい。レズ。事実だ。私は、確かにそれに分類される人間だと思う。ならこれはただ適切なラベルを貼られただけ。だっていうのに、まるで崖っぷちに立たされたような気分になるのはどうして。


「え、っと」


 言葉を返したかった。なのに意味のある言葉なんて何一つ出てこない。寒くない。寒くなんてない。じゃあなんで手が震えてるんだ。瞳だって震えてる。そのせいで二人の顔が良く見えない。揺れ動く視界の中、くーちゃんが立ちあがろうとしているのが見えたような気がした。


「極寂さんはさ、好きな人とかって居た? てかずっと女の人が好きだったの? なんかさ、男の人を全く好きになったことがないってのが不思議な感じなんだよね」

「いや、極寂さんからしたらあたしらのが不思議なんじゃないの? まあ言いたいことはわかるけどさ。あ、あたしも気になることあるんだよね。女の人が好きで大変だったこととかさ、知りたくて」


 ──押しつぶされそう、もう。

 二人の声が身体の上に重なっていく。彼女たちが言葉を発するたびにそれが私の身体に、心にどんどんのしかかってくる。身動きなんてとれない。何も考えられない。揺れ動く瞳が焦点を合わせたのは何もない床。逃げるようにそこに着地したけど、だけど逃げ場なんてどこにもない。わかってる、そんなこと。

 ちょっと、なんて焦ったような蝶の声が聞こえた。とても頼りなくって、その声が二人を止めることなんてできるわけなかった。

 膝の上にはさっきの感想シートたち。それを握る手に力が入る。ああ、喉の奥がひどく痛む。暴れ回るそれが今にも口から飛び出してしまいそう。

 もうだめ。もう無理。唇が開かれる。私は何を言うんだろう。理解できないまま言葉が出そうになったところで──ぱちん、と。手を合わせる音が、私を止めてくれた。


「はいはい、お喋りはそこまで! 二人とも、今日も賑やかなのは結構だけれど……そんなに元気なら早く帰りなさい」

「えー、蝶と極寂さんはいいのに?」

「そりゃあ二人は理由があってここにいますから。保健委員の仕事もしてくれてるしね」

「じゃああたしたちも手伝うからさぁ」


 だーめ、という声に椅子が軋む音が重なる。足音がこちらに近づいていた。


「ほら、今日はもう帰りなさい。わたしだっえいつでも二人を歓迎したいのよ? でも、元気な時はなるべく保健室に来るのは遠慮して欲しいかな。不健康な姿を見たいわけじゃないけれど、ここはやっぱり元気いっぱいな子が入り浸るところじゃあない。元気になれない子が少しでも休める場所であってほしい……って、わたしは思ってるんだけど、二人はどうかしら」

「む、それを言われると、確かにそうかも」

「あら、意見が同じで嬉しいわ。そういう風に思ってくれてるんだったら、先生に協力してくれる? ここに来るのは心でも身体でも元気がない時、もしくは怪我をした時、あとは困ってることがある時とかにするってね。……そうじゃないなら元気に教室とかで過ごしなさいな。はい、先生が言ってることをわかってくれたなら今日はもう帰った帰った! ほら、せっかくの青春がもったいないわよ?」


 まあそうか、なんて空気が蝶の友人たちの間に流れているのが見えずともわかった。


「なんか、邪魔しちゃったみたいでごめんね。あたしらは今日はもう帰るけど、ね、極寂さん、また話してくれたら嬉しいな」

「じゃね、二人とも。それと、蝶、たまにはあたしたちとも遊んでよねー」


 そう残して二人は保健室から立ち去る。

 ……彼女たちは、悪くない。声をかけてくれたのは親切心からだとわかっているし、私に投げかけた質問たちも純粋な疑問から口にしたものだとわかっている。

 だから、悪いのは私の方なんだ。それは傷ついたとか、その言い方は嫌だなとか、彼女たちにきちんと伝えればいいだけなのに。

 そんな簡単なはずのことすらしない私一人だけが、ずっと悪いままなんだろう。

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