6ー4
一日の授業を終えた教室を出ようとする。逃げるようにして。そんな私の背に、極寂さん、と。投げられたのは私を呼ぶ声。振り返るのを躊躇う。でも、顔を向けた。鈍色の瞳と目が合う。硬い笑顔の伊好先生が立っていた。
「ごめんなさいね、少しいいかしら」
「……はい」
彼女に声をかけられたのは久しぶりだった。心臓が別の生き物のように蠢いている。担任だから毎日顔を合わせてはいた。なら、その顔を見て胸がおかしくなるのはどうして。あの日以来会話をしていないから? だから、私は。
「教室だと話しにくいから、ちょっとこっち来てもらえる?」
そう言って、伊好先生は歩き出す。気がつけば、私の両手は肩にかけた通学鞄の持ち手を強く握りしめていた。まるで縋るみたいに。
たどり着いたのは廊下の隅。人通りはあるけど、誰も私たちに顔を向けることはない。
「その、この前のことなんだけどね」
この前のこと。
その一言で心臓が暴れ始めた。蛇のようにうねって内側から胸を叩きつけてきている。気持ち悪い。痛い。叫びたかった。叫んでると思った。でも現実の私は、はい、なんて頷くだけで。
「えっと、男の人がとか恋愛がって話はその、やっぱり単に時間の問題じゃないかなって思ったの。だから具体的に何か、こうしたらってものが見つかったわけじゃなくて、ごめんなさいね」
「……いえ」
別にそんなこと望んでいない。喚きそうな心を必死になって押さえつける。その抵抗は外からじゃわからなかったんだろう。だからこそ伊好先生は、言葉を続けてしまったんだと思う。
「けどその、子供のことに関しては協力できるんじゃないかと思って。苦手だって言ってたけれど、それは極寂さんが子供と接する機会が少なかったからじゃないかしら。だからね、提案なんだけど……わたしの子供に会ってみない、かしら」
そんな、意味のわからない言葉を。
「────」
この人は今、何を言ったんだろう。頭が理解することを拒絶してる。血液が脳から失われていく。身体にうまく力が入らない。鞄の持ち手を握りしめる手は凍りついたように動かない。瞳だって動かせない。私を見ない伊好先生の姿から、目を逸らせない。
「わたしね、毎日じゃないけど、放課後に子供を連れてくることがあるの。幼稚園の時間の都合とかで。だからその時に、極寂さんさえ良ければ──」
「い、いい、です」
口から出たその声は自分が思っていたよりも大きなものだった。もうだめだった。彼女の足元を見つめたままで、私は首を横に振る。
「い、その、遠慮しておきます、ごめんなさい」
「……そっか」
頭上に乗せられたのはあからさまに落胆した声。その声は私の身体を地面に沈めようと重圧をかけてくる。
逃げ出したかった。苦しいから。痛いから。無意識に足が動き出そうとして、それを必死に引き止める。
目の前がぐるぐる回っているせいだ。胃の中身が口から飛び出してしまいそうだった。
「そうよね。急にごめんなさい。でも、もし気が変わったらいつでも言って。待ってるから」
それじゃあまた明日と残して、黒い内履きが離れていく。それをまともに見る暇もなく私の身体は勝手に動き出した。彼女とは反対方向に。
歩く速度は次第に上がっていく。呼吸の感覚が短い。半袖から覗く腕には鳥肌。おかしいな。暑くない。寒くもない。ずっと過ごしやすい気温が続いてる。なのに身体が震えてる。歯がぶつかる音が耳の奥で響いている。痛い。さっきからずっと胸が痛い。呻き声が口から漏れてしまいそうになって唇を強く噛み締めた。腹の底で暴れているのは何だろうか。正体のわからないそれが喉を駆け上がる。
「っ、くそ、くそくそくそ、なんで、なんで──」
意味もない言葉が口から漏れて止まらない。なんで。なんでの先に続く言葉に手が届きそうになったところで保健室にたどり着いた。
「っ、くーちゃん」
発した声には怯えが含まれているような気がした。自分のことだ。でも他人事みたい。パソコンから顔を上げたくーちゃんが私を見た。一瞬だけその表情が曇って、でもすぐにいつも通りの笑みが浮かべられる。おかえりって、投げかけられた声だって、普段通りの優しいものだ。変わらない、何も。変わってない、何も。変わらなくていい、何も。
胸の痛みがようやく落ち着きを見せる。それでも心臓は未だ騒がしい。こっちを見ろとでも言いたげなその音を無視してソファへと腰を下ろした。
汗が頬を伝い落ちる。意識的に息を深く吸って、吐いて。繰り返すうちに心臓が静かになっていく。指先が小さく震えているのが目に入った。誤魔化すようにスカートを握りしめる。気を抜けば叫び出してしまいそうだった。関係のない誰かに自分の感情をぶつけてしまいそうだった。そこに正当性なんて、一つも無いのに。
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