5ー1
「こんにちは」
凛とした声が放課後の保健室に響く。六月のじめじめした雰囲気と窓の外に聞こえる雨音を弾くような声。くーちゃんはいらっしゃいと、その声をいつものように優しく受け止めていた。
蝶の挨拶が失礼しますからこんにちはに変わったのはいつだっただろうか。同盟締結から約一ヶ月。過ぎた時間はたったそれだけ。でもたったそれだけの時間は、私にとってはそれだけなんてものじゃなくって。
「……蝶、ここに来て大丈夫なの?」
「む、なにその言い方。鈴だって毎日来てるでしょ」
「いやまあそうだけど、そういうことじゃなくて……ほら、蝶は中間考査の結果がさ。だから早く帰ってちゃんと勉強した方が良いんじゃないかなって」
うっと短く呻きながらも蝶は私が座るソファの方へとやって来る。どうやら帰るつもりは全くないようだ。別に帰って欲しいわけじゃないけど。
「なーに? 丹吉瀬さん、勉強苦手なの?」
と、デスクの方からくーちゃんが声をかけてきた。突然のご褒美に蝶は喜びを隠せないご様子。そ、そんな、なんて今にも満面の笑みを浮かべそうだった。笑顔になる話題じゃないのに。
ソファへと腰を下ろした蝶はそわそわと手を動かす。
「り、鈴の言うことなんて信じないでください。別に苦手とか、そういうんじゃないですから!」
「いや苦手じゃん。何すぐバレる嘘ついてんの。くーちゃん教師なんだからバレるよその嘘」
「う、うるさいなぁ! っていうか鈴がおかしいんだよ? ずっと保健室に入り浸ってるはずなのに全教科九十点以上とか、絶対おかしいでしょ!」
「え? いや、授業は受けてるよ、私」
そんな私の返答に、蝶はぽかんと口を開ける。
「え、サボってない、の?」
「当たり前でしょ。なに、蝶は私が授業中も保健室に居ると思ってたんだ」
うんと蝶は素直に頷く。まあ、そう勘違いされるのも無理はないけどさ。
「残念ながらサボってませんー。勉強したくて高校に進学してるんだからサボるわけないでしょ。まあ、総合とかの時はここに居ることもあるけどさ」
「総合もサボらないでほしいんだけどねぇ」
責めるでもなく咎めるでもないくーちゃんの声に顔を向ける。くーちゃんは片手に持ったプリントをひらひらと揺らしていた。
「総合の時間だって身になることがあるでしょ。今月末にも講演会があるし」
「講演会があるんですか?」
「そうそう、って、行事予定表に書いてあったでしょ? まったく、丹吉瀬さんって意外と不真面目なのね。ま、そのくらい抜けてる方が可愛いとは思うけど」
「か、っ──」
ぼふんと音が聞こえたのは気のせいか。隣に座る蝶の顔は林檎のように真っ赤だった。そんなんじゃバレるぞーなんて視線を向けたけど気がつきもしない。
「ま、期末テストが近くにあるものね。そっちの方が気になるのも当然か。はい、これ」
揺らしていたプリントを持ってくーちゃんがこちらにやって来る。蝶はまだ正気を取り戻していない。仕方なく、くーちゃんが差し出したプリントを受け取った。
「…………」
「か、かわ、ど、鈴! ……って、どうしたの?」
「どうかしてたのは蝶の方でしょ。別に。私はいいや、これ」
はいと蝶にそのプリントを押し付ける。ちょっと、なんてくーちゃんの声が聞こえたけど無視。だってどうでもいいもん、そんなの。
「えるじーびーてぃー、で、いいんですか?」
プリントに目を通し始めたらしい蝶が訊ねる。そ、と頷いたくーちゃんは詳しい説明を始めた。
「性的少数者、ってやつ。レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字をとってLGBT」
「トランスジェンダーだけ前の三つとはちょっと違うけどねー。あれは好きになる性別のことじゃなくて自分のことをどう思ってるかとか、そういうことでしょ」
「ざっくりした説明ね、極寂。もうちょっと丁寧な言葉でやんないとさ……っていうかわたしより極寂の方が詳しいでしょ、これ。色々説明してあげたら? ほら、今言った四つ以外にもあるんでしょ」
「養護教諭のくせに丸投げしないでよね」
睨みつけてみたけどくーちゃんは悪びれる様子もない。ほら早くと急かすばかりである。仕方なく、主観混じりの説明を行うことにした。
「LGBTってのは、さっきくーちゃんが言ってた通りのこと。レズビアン、女性のことが好きな女の人。ゲイ、男性のことが好きな男の人。バイセクシャル、女性でも男性でも好きになれる人。んで、トランスジェンダーは誰かを好きになるとかそういう話じゃなくて、自分の性別に違和感を覚える人……らしいよ。それで、他には誰かに対して性的欲求を持たない人とか、恋愛感情を抱かない人とか……まあ、色々。それ以外にも色々あるはずだけど、ごめん、私が覚えてるのはこのくらいかな。すっごくざっくり言えば、異性愛者じゃない人たち、多数派じゃない人たちのことを性的少数者って呼ぶんだと思う」
違ってたらごめん、という言葉で締めて説明を終える。蝶はなるほどと興味ありげに頷いていた。
「で、講演会って何するの?」
くーちゃんに話題を返してやる。浮かべたのは微妙な表情。返されたボールの扱いに困ってるみたいな顔だった。
「そ、れは、そうねぇ」
「……もしかしてく、ーちゃんもちゃんと知らないの?」
「うっ、詳しい内容は当日にって話だったから仕方ないでしょ! 一応ざっくりとはわかってるわよ。わかってます、頼んだのはこっちなんだから」
もう、とくーちゃんは腰に手を当てる。本当にわかっているんだろうか。……まあ、でも別に。
「ふぅん、ま、どうでもいいけど」
「……極寂、どうでもいいってことはないでしょう」
なんか、その声は苦しそうに聞こえた。だからそんなの気がついてないふりをして、蝶が座っているのとは反対方向に身体を倒す。
「だってそうでしょ。みんなにとってはどうでもいい話じゃん、他人事なんだからさ」
目を瞑る。そうでしょと投げかけたくせに、その答えを拒むように。くーちゃんが出したのは、もう、なんて呆れた、でも優しさが滲んだ声だった。
「そう思うならそれでもいいけどさ、でもサボるのは駄目だからね。寝てもいいけど、ちゃんと出席はしなさい。……話は聞かなくたっていいからさ」
「はいはい……ちなみに、さ」
んー? と、少し離れたところで声がした。目を開ければくーちゃんはデスクに戻ろうとしているところだった。振り返ったくーちゃんは不思議そうに私を見つめている。訊くのが怖かった。でも訊いてしまう。だって、自分のことだから。
「これ、いつから決まってたの?」
「昨年度の間には決まってました。こういうのってすぐすぐ予定入れられないんだから。だから別に、極寂が気にすることは何もないわよ」
そうと頷け、ばくーちゃんもまた、そうよと頷く。それで話は終わり。くーちゃんは自分のデスクに戻るとパソコンと睨めっこを始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます