#18 保健室に眠るサキュバス【後編】

 ヒヅル君を、新しい宿主にできなかった黒板の怪物。

 窮地に陥り、目的を見失った彼等は、とうとう自棄ヤケを起こしました。



『こうなったら、宿主あすかを全部喰らおう。取っておいた美味しいものを食べてやる』



 そう、ざわめいていました。



 黒雲が空を覆い、辺りは薄暗く時間の感覚が分かりません。強い風が、激しく木々を揺らします。

 窓枠がガタガタと揺れて、今にも壊れそうに軋む校舎。私は薄暗い廊下を、ヒヅル君の手を引いて歩きます。


 黒板の怪物は、暗い影の中で私達を見ながら、悔しそうにキーキーと鳴いています。私に向かって瓦礫を投げる者までいました。



 怪物から助かったものの、体のいたる所が黒く浸食されたヒヅル君。まるで体に宇宙を宿しているみたい。


 虚ろな目をした彼の小さな手。それは、ひんやりと冷たかったです。

 彼女の元にだどり着くまで、彼の手は絶対に離さない。私の手に力が籠もります。



 そして、とうとう目的の部屋の前まで来ました。ヒヅル君が扉を見上げて、ぽつりと零します。


「保健室……あすかがこんな所に?」


「はい。ヒヅル君とあすかが出会ったのは保健室でしょう? ここは、彼女にとって一番特別な場所なのです」


 ヒヅル君は目を伏せると、小さく頷きました。


「ヒヅル君が、あすかとの思い出を求めて此処ここに来たように、彼女もヒヅル君との思い出にすがっていました。……あすか、ここを開けてください」


 保健室の扉に張り付く、あすかの黒い茨。私が扉に触れると、茨がギュッと力を込めて、開かれるのを拒みます。仕方ありません、こちらも力ずくです。


「あすか、怖がらないでください。……勇気を出してください。こんな近くにヒヅル君が居るのにっ……真の願いを叶えずに彼を見送っていいのですかっ? 彼に会わないで怪物と一緒に消えるなんて、許しません」


 白と黒が絡みあい、バリバリと互いに千切れてゆく茨。それでも黒い茨あすかは抵抗して細い茨を懸命に伸ばしています。


「あすか? 空っぽだった私は……この学校に居過ぎて変わってしまったようです。アルファの誇りと意地……嫉妬と不安……個々が抱える正義と赦しも……頑張る事も、頑張りすぎないことも……そして、欲張りになりました! なので、私はあなたもこの世界から連れて行くことにしました!!」


「アルファ……」


 力を込めると、目の前に青い光が散りました。クラクラしますが、ここで加減したら、引っ込み思案のあすかは、ずっとこの保健室で泣いているでしょう。

 


 ――ブチンッ!!



 扉を覆っていた茨は取り除かれました。白い扉に赤い樹液をまき散らして。腕を伸ばして保健室の引き戸を開けました。


 肩で息をしながらも呼吸を整えます。ヒヅル君を見て頷くと、私達は保健室の中に踏み込みました。



 目覚めた時と真逆で、じっとりと暗い空間が続いています。私が寝ていた隣のベッド、カーテンの下から黒い茨が生えていました。



「あなたは、始めから隣に居たのですね?」



 この言葉に、繋がれた手がピクリと動きました。冷たかった手に熱が戻り始めます。


 コツコツと足音を立てながらベッドに近づくと、茨はベッドへと逃げるように引いて行きます。

 ベッドを覆うカーテンを開けようとすると、黒い茨はカーテンを掴み「やめて」と抵抗しました。



往生際おうじょうぎわが悪いですよ?」



 私は一気にカーテンを開けました。


 真っ白なベッドに横たわるのは、黒いセーラー服と茨を纏った少女でした。胸の上で白い手を組み、目より上を茨の仮面で覆われた黒い私の生き写し。


 茨と同化してしまい、人間らしい部分が減ってしまった彼女。茨の魔女と形容するに相応ふさわしい姿です。


 壁から伸びた黒板の怪物と、あすかの黒い茨が溶けあい始めていました。

 保健室の隅からは、彼女を奪う事を抵抗するように黒板の怪物がぎゃぁぎゃぁと泣きわめきます。



「再会の時なので、邪魔しないで下さい」



 私は脚から床に茨を這わせて、怪物たちを追い払いました。


「ヒヅル君、紹介します。彼女がこの学校の主『月白あすか』です。ここに残っているのは、あすかの魂のわずかな欠片かけらと記憶だけですが……」


 ヒヅル君の眼から、完全にだいだいの光が消え、本来の輝きが戻ります。浸食されていた彼の体から、黒がふわりと消えました。



「あすか……あすかっ!!」



 手を離したヒヅル君は、あすかの元に駆け寄ります。


 私を通り越した彼の姿は揺らぎ、あすかと同じ時間を過ごした、高校生のヒヅル君へと戻りました。身長、あっけなく抜かされてしまいましたね。


「あすかは、ヒヅル君をこのはざまの世界に呼び寄せてしまった事を、酷く悔やんでいます。それに、生前ヒヅル君を避けてしまった事も」


「そんな……あすか、悔やむ事なんて何もないよ。僕こそ間違い続けてごめん……ずっと会いたかった……」


 彼の言葉と、手の温かさを感じ取ったあすかの目から涙が零れます。私は持っていた腕章をヒヅル君の左袖に付けました。


 あすか、安心してください。ヒヅル君はあなたの姿が変わったくらいでは、引いてくれませんよ? さあ、あともう少しです。



 私は両手をポンと手を打って、ヒヅル君に明るく話しかけます。



「さて、私『あすかも連れて帰ると』啖呵たんかを切ってしまいました。でも、それは私一人ではできません。ヒヅル君、ひとつお願いしてもいいですか?」


「僕に、出来る事なら。何をするんだ?」


「あすかを、この学校から切り離して欲しいのです」


「切り離す?」


「はい、あすかとヒヅル君の恋は、あの日から止まっています。動かない過去の恋が怪物たち栄養となっているなら、動き出した恋は彼らにとっては毒。たちまち離れていくでしょう」


 ヒヅル君は要領を得ない顔をしています。私だって、はっきり言うのが恥ずかしいのです。心情は察してください。


「んー……つまりですね。あすかという眠り姫を起して欲しいのです。起し方、知っていますか?」

「……ああ、知ってる。けど……」



 彼は一瞬驚きますが、気遣う様にあすかを見ました。

 君のそう言う所が、あすかは好きなんですよ? 私もですが。



「……コホン。問題ありません。それは彼女の望みでもあります。――それでは頼みました。私の役目はここまでです」



 私は制服のリボンをしゅるりと解いて、あすかの胸元で白い蝶のように結びました。



「アルファ……どういう事? まるで、消えるみたいじゃないか」


「正解です。私はあすかの中に戻って、彼女から分けて貰った魂を返します」

「分けられた魂……やっぱり、君はもう一人のあすかでも有ったんだね?」


「ええ。私は此処ここからヒヅル君を連れて帰る役割でした。けど、予定を変更して、その役をあすか本人にやってもらいます」


 からは大きく外れますが、は達成できるでしょう。私も、あすかの白い頬を撫でました。


「そうだ、忘れるところでした。あすか? あなたの問いに対する答えです。『なぜ大抵の願いが叶わないのか?』――それは『願いの目的を見失うから』どうか、あなたも願いの目的は見失わないで」


 余計なお世話プラス・アルファも私の役割でしょう。悲しそうに私を見つめるヒヅル君……そんな目で見ないで下さい。私まで悲しくなります。


「ヒヅル君、あすかに伝えたかった言葉、伝えてくださいね。生徒会活動楽しかったです。副会長、お疲れ様でした!」

「アルファ……お疲れ……ありがとう」


 言いたいことは全部言えました。この体ともお別れです。

 彼の頬に触れると、私は光の粒となって弾けました。


 ◆


 王子様のキスは、眠り姫の凍った心を解かして、黒い茨を消し去ります。


 止まっていたあすかと陽弦君の恋は、あの世とこの世のはざまで動き出しました。


 黒板の怪物たちは苦しみ、あすかから離れて行きます。彼女を覆っていた黒い茨は霧が晴れるかのように消えて行きました。


 保健室のベッドの上に横たわる、月白つきしろあすかは、ゆっくりと瞼を開きます。墨色の瞳が、彼女を優しく見つめるヒヅル君の視線と合いました。


陽弦ひづる君……」

「あすか……おはよう。やっと会えた」


 思わず涙が零れた陽弦君、あすかは優しく彼の頬に触れました。


「私も会いたかった……助けてくれてありがとう」


 ふたりの感動の再会を邪魔するように、建物がドンと大きく震えました。


 窓の外ではプールに大きな亀裂が入りました。コンクリートが悲鳴を上げて砕けると、その破片は黒く染まり、ボロボロと千切れながら虚無に飲み込まれていきます。


 宿主を失った学校の崩壊が始まったのです。校舎は苦しみ、のた打ち回るように軋み、崩れる音が響いてきます。


 崩れゆく世界を目の当たりにして、思考が止まってしまったふたり。

 仕方ないですね。私のお節介はもう少し必要みたいです。


 私はあすかの胸に結った白いリボンの端で、ツンツンと屋上を指し示しました。


「「アルファ!」」


 校舎の中に居ては、過去の残骸に押しつぶされてしまいます。屋上へ避難してください。


 私の意志が通じたのか、通じなかったのか。二人はやっと動き出しました。



「陽弦君。私、学校の屋上から景色を見てみたい。付き合ってくれる?」

「ああ、もちろん」



 陽弦君はあすかの手を握り、崩れゆく校舎の中を屋上へ向かってエスコートします。


 二人が出会った保健室。話しながら歩いた廊下。互いに気になって、通りすがりに見ていた教室。二人で一緒に勉強した図書室。そして、二人で初めて足を踏み入れた北校舎の屋上。


 錆びた鉄扉てっぴを開けると、漆黒の空と海が見えました。屋上にたどり着くと同時に、南校舎が崩れ始めました。

 二人は手を取って身を寄せ合うと、思い出を見送ります。


「あすか、体は大丈夫?」

「うん、大丈夫。いまは体が軽いの」


 あすかと黒板の怪物が作り出したはざまの世界はじわじわと崩れ、虚無へと呑まれていきました。体育館も崩壊して無へと還っていきます。


 あすかが、ある事に気付いて陽弦君に話しかけました。


「きっと私が死んで、かなり時間が経ったよね? 陽弦君も大人になった?」

「なったよ。あすかが死んでから10年経った。大人の世界も子供の世界と変わらず、理不尽だらけだったよ」


 顔を暗くした陽弦君の姿がざざっと揺らぎます。本来の27歳の姿に戻った陽弦君。あすかは彼の骨ばった手を優しく撫でました。


「大人の陽弦君にも逢えてうれしい。よく頑張ったね。近くで応援できなくて、ごめんね」

「うんん、最期にあすかに会えたから。もう満足だよ……」


「最期? だめ、まだ満足して欲しくない。陽弦君には元の世界に帰って欲しいの」

「僕は向こうに帰れないよ……だって……」


 崩壊は、北校舎にも始まりました。校舎の西側が崩れ、大きなひび割れが二人の足元にも忍び寄って来ます。


 ヒヅル君の曇った顔を晴らすように、あすかは微笑みました。


「ここは生と死の狭間でもあるの。黒板の怪物は未来が有るモノには弱いわ。だから、陽弦君に寄生するのを手間取って失敗してしまった。大丈夫、まだみんなと同じで帰れるよ」

「じゃあ、あすかはどうなるの? ここでお別れなんて僕は嫌だ!」

「大丈夫、私も一緒だよ……」

「え……」



 そして、とうとう二人の足元も崩れてしまいました。



 離れないように、抱きしめあった二人。思い出の瓦礫と共に奈落へと吸い込まれます。どうか、間に合って……。



「あすか……」



 頭から落ち行く最中さなか、2人の願いは成就じょうじゅされました。



 ふたりは光の粒となり、この学校から消え去ります。

 こうしてまた一つ、はざまの世界が幕を降ろしました。

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