第2話 黒衣の男

真珠は波の音に耳を澄ませながら、ゆっくりと瞼を閉じた。足元に広がるのは、果てしない南国の青。浮き輪に身を預けて、彼女はまるで世界から切り離されたような浮遊感に包まれていた。陽射しは柔らかく、海水は穏やかで、空には一片の曇りもない。ここは楽園。――誰がそう言ったか知らないが、たしかに景色は美しかった。


だが、真珠の心には波風ひとつ立たなかった。浮かれてはしゃぐような年齢でもなければ、そうした気質でもない。浮き輪に揺られながら空を仰ぎ、彼女は淡々と思う。


(ああ……暇)


今回のハワイ旅行は、会社の社内コンペで最優秀賞を取った副賞だった。外資系の広告代理店で働く真珠にとっては、「評価された」という事実こそが報酬で、旅はむしろおまけに過ぎない。しかしその“おまけ”が、予想以上に豪華すぎた。到着したのは、世界的セレブや王族しか泊まらないという超高級ホテル。全面ガラス張りのロビーには、一流シェフが手がけるレストラン。スイートルームには執事までついているのだという。


そして、今真珠が浮かんでいるのは、そのホテルに付属する完全プライベートの白砂のビーチだった。観光客の姿もなく、波の音と鳥のさえずりだけが聞こえる静寂の空間。日常とはかけ離れた場所にいるはずなのに、彼女の中には、どこか薄い膜のような孤独があった。


(こんな非現実、正直……長くは持たないわ)


誰とも会話せず、仕事からも解放された時間。他人に振り回されず、何かに縛られることもない。本来なら「自由」と呼ばれるはずのこの状態が、真珠にはどこか、虚しいだけの空白に思えていた。

……そろそろ上がろうか。そう思い、浮き輪を揺らしながら身体を起こした瞬間だった。彼女の視界に、異物が差し込んだ。


白い砂浜に、場違いなほど黒い影がひとつ、立っていた。まるで幻のように、そこに在る。だがはっきりと見える。陽射しの下に、くっきりと。全身を黒い布で覆い、顔も黒いヴェールで隠されている。唯一見えるのは、細く鋭い眼光だけ。ローブのような長衣の裾が、風に揺れていた。ビーチに現れるにはあまりにも異様な格好で、まるで別の世界からそのまま迷い込んできたような、男だった。


(…誰?)


真珠は急に胸の奥に緊張を覚えた。このビーチは基本的に、宿泊者以外立ち入れない。だからこそ、安心して一人で海に浮かんでいられたのに。


彼は一歩、ゆっくりと真珠のほうへ足を進める。その動きは静かで、砂を踏む音すらほとんどしなかった。そして真珠が水際に近づくのとほぼ同時に、男は、何かを異国の言葉で話しかけてきた。


「……」


低く、響くような声。けれど何を言っているのかはわからなかった。真珠は眉を寄せ、少し距離をとって首を振った。


「I don’t understand.」

(わからないわ)


英語で返すと、男の動きが一瞬止まる。そして、ハワイ沖のような、紺碧の瞳を細め――流れるような、完璧な発音で答えた。


「Ah, forgive me. Allow me to speak in English.This beach is quiet… too quiet for someone to be alone, don’t you think?」

(あぁ、失礼しました。英語で話しますね。このビーチは静かですね、一人でいるには静かすぎると思いませんか?)


その声はどこか、音楽のようなリズムを持っていた。優雅で、そして不思議な残響を帯びている。一瞬意識が飛びかけるが、ハッとする。こんな目しか出てない真っ黒な姿の人なんて、怪しすぎる。真珠はTHEアジア人の外見で、身長も160cm未満しかない。アジア人は狙われやすいと聞くため、より警戒してしまうのは仕方のないことだ。


真珠は瞬時にその親しげな問いかけを遮るように、はっきりと返す。


「I’m fine alone.」

(私は一人で大丈夫です)


男は微かに笑った気がした。その仕草は穏やかでさえあるのに、なぜか、背筋を撫でるような薄い恐怖を覚えた。やがて男は、それ以上なにも言わずに踵を返し、白い砂浜を、黒い影のまま遠ざかっていった。


――それが、彼との“最初の出会い”だった。

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