物語の始まりを探しに行く — 英国旅日記

雪沢 凛

旅のはじまり

 《—辞表からロンドンの街角まで、あとは飛行機一枚だけ…》



 昔から、なんとなく思っていたことがある。

 もし仕事が一段落したら、いつかイギリスへ行こう、と。

 すでに何人かの友人がイギリスに移住していて、彼らを訪ねながら、二十日以上の長旅ができたらいいな。小説のインスピレーションも得られるし、ヨーロッパの空気と歴史を目で、肌で感じられるかもしれない。


 そしてその「いつか」は、突然やってきた。

 会社をクビになったのだ。


 冗談ではない。

 前からなんとなく予感していたけれど、いざその通知が来ると、なぜか妙に清々しい気持ちだった。


 だって、あのゲームは売れなかったし、会社ももうアップデートに投資する気はなかった。

 つまり私は、ちょっとだけ早く「解放」されただけだった。


 でも不思議なことに、その瞬間、落ち込むどころか頭に浮かんだのは一つだけだった。


「イギリス、行けるかも?」


 すぐにマンチェスターに住んでいる友人・W子に連絡した。事情を話しつつ、図々しくも泊まれるか探りを入れてみた。

 すると、思っていた以上にあっさり快諾してくれた。


「おいでよ! 六月はずっと家にいるし、全行程ついていけるよ。英語も苦手なんでしょ? 一人で旅するのは大変だし!」


 天の助けとはこのことだった。

 こうして、失業という始まりの旅が、意外な形で動き出した。


 当初は、6月17日に帰国する予定だった。

 W子がその日に日本へ出発するから、それに合わせようと思っていた。


 ところが、行き先を色々調べていたとき、ある衝撃的な事実を知ってしまう。


「英国王室主催ロイヤル・アスコット競馬」が、6月17〜21日に開催される!


 騎士と競馬が大好きな歴女兼小説オタクとして、これは見逃すわけにいかない。

 しかも、すぐに在宅でできる新しい仕事も見つかった。6月から開始予定で、ありがたいことに、ボスは私がイギリスにいることを気にしていなかった。


 ならば――


「19日に帰れば、18日のレースを見てからでも間に合う!」

 何もかもが出来すぎていて、逆に現実感がなかった。


 私は昔からヨーロッパの中世的な風景に惹かれていた。

 ゴシック様式の教会、石畳の路地、灰色の城壁、鉄道駅……

 そんなものすべてが、私にとっては小説の舞台そのものだった。


 現在執筆中の2作も、まさにそんな背景から生まれている。


『異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる』:15世紀のイギリスが着想源

 > 小説家になろう


『錬の名のもとに ―吸血鬼の復讐譚―』:現代ロンドンと吸血鬼の地下社会を舞台に

 > https://kakuyomu.jp/works/16818622175386327339


 今回の旅で、私は小説の魂をそのまま抱いて英倫の大地に降り立つ。

 建築を見て、鉄道に乗って、騎士の面影を追い、馬の疾走に心を打たれる。


 次に筆を取るとき、私の空想の王国には、ほんの少しだけ「本物の風」と「本物の石畳」が混じっているかもしれない。



イギリス行きを決めた後、すぐに航空券を調べた。

覚悟していたはずだった——が、思いがけず安い!!?


以前はどのサイトで見ても最低1万香港ドル(約20万円)以上していたのに、

今回はなんと 約12万円。

コロナ後に東京へ行ったときより安いなんて、誰が信じるだろうか。


W子は「そのままマンチェスター直行の便を使ったほうが楽だよ」と言ってくれたが、

それだと 約14万円。

私は迷わず、心の中で叫んだ。


「イギリスに行くのに、ロンドンを飛ばすなんてありえないでしょ?!」


そこで図々しくも頼んだ。

「ねぇ……ロンドンで待っててくれない? 2、3日遊んでから、一緒にマンチェスター行こうよ……!」


……すると彼女は、あっさり「いいよー」と言ってくれた。

その瞬間、彼女に港式ミルクティー機内食をおごろうと本気で思った。


五時間もバスで移動するのはちょっと心配だったけど、2万円の差とロンドンの街並みを見られることを思えば、余裕で我慢できる(と、自分に言い聞かせた)。


でも、航空券を買ったその瞬間、私の頭はもう次の悩みに支配された。

「……25日以上分の小説更新、全部準備しなきゃ……!」


そう、真のラスボスは旅ではなく原稿だったのだ。

旅先で更新が止まったら大変。

私は即座に「執筆モード」に入り、旅の計画どころではなくなってしまった。


そのおかげで、行程のほとんどはW子任せになった。

彼女は二日おきくらいにLINEでこう言ってきた:


「せっかくヨーロッパ来るなら、ドイツも行かない?」


「……ドイツの知識ゼロだけど? 鉄道?」


「じゃあミュンヘンがいいかも! ちょっと“中古”な雰囲気あるし」

(※彼女は“中世”を“中古”って言う)


——そして、決定。

なんというフットワークの軽さ。まるで行き先ガチャだ。


イギリス国内の他の予定も、基本的に全部彼女が組み立て、私はそのたびに「いいね!」「それ行きたい」「助かる〜」と返信するだけの役割だった。


そんな感じで出発数日前、私はふと思いつきで、

「ドイツから帰ったらW子とは別れて、ブリストルにいるE氏に会いに行こう」と決めた。


そして、今回の旅のハイライトである「ロイヤル・アスコット競馬」には、G氏と一緒に行くことにした。


……ただし、その後のロンドン3日間は、宿も行き先も、何ひとつ決まっていなかった。


そして、気づけば、出発の日がやって来たのだった。

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