異世界にて、佐藤俊夫は砂糖と塩とを武器にする

氷上慧一

第00話 佐藤俊夫と塩のなれそめ

 あたりには、しばらく前に入れ替えた畳の匂いが漂っていた。


 厳密にはイ草の匂いと言うべきか。


 畳の新しさとは反対に、柱は長年丁寧に磨かれ独特の艶を帯びている。


 部屋の中心には大きな座卓。


 太いけやきの木から削り出した、一枚板の品らしい。


 奥の床の間にはいかにも高価そうな掛け軸や壺が飾られている。


(……自分の家ながら、ち~っとも落ち着かないな)


 滅多に足を運ばない和室で、佐藤俊夫さとうとしおは他人事のような感想を抱きながら正座を続けていた。


 俊夫は今、高校三年生。


 世間一般の一八歳と比べると比較的正座にも慣れている方だと思っていたが、それでも長い時間になってくるとやはり辛くなってくる。


 なぜそんなに正座が長引いているかというと、座卓を挟んで険しい顔をした男二人と向かい合っていたからだ。


 どこかよく似た雰囲気を持つ、一人は四〇代、もう一人は六〇代の親子で、付け加えると俊夫の父と祖父であった。


「進学するとはどういうことだ?」


 父親が腹の底から絞り出すような声でそう言った。


 経験からすると、かなり怒っている。


「どうって、大学に行って、勉強するってことだよ。ごく普通だろ?」


「馬鹿を言うな! 高校を卒業したら、そのまま修行に入る約束だろうが!」


 俊夫はしばらく考えて、


「……別に、学費を出してくれとか言わないよ。奨学金も出ると思うし、うちに負担は――」


「そんなことは言っとらん!」


 父親の怒声が和室中に響き渡る。


 その声量に、思わず顔をしかめたが、本当におっかないのは父親の斜め後ろに控え、目を瞑ったまま腕組みをして無言を守っている祖父の存在だった。


 ザ・職人という気むずかしそうな風貌で、口を開いた瞬間どんな言葉が飛び出すか戦々恐々としていた。


「どうせあのお遊びが続けたくて進学なんて言い出したんだろう。ふらふらするのもいい加減にしろ!」


 これまで何度かあったやり取りである。


「俺だってちゃんと考えて――」


「金を出してもらって生活している身で、偉そうなことを言うな! 我が家の江戸時代から続く伝統を、お前のお遊びで途切れさせてしまうつもりか!」


 俊夫としては真剣に考えて進学を選んだのだが、この二人にはまるで通じない。


 お金を出してもらっているという立場が弱いのは理解しているが、だとしても実際に生きていくのは自分なのだ。


(頭ごなしに、伝統だなんだって――)


 やりたいことを無理矢理押し殺して前に進んでも、いつか絶対に後悔する。


 ただ、自分なりの理由や目的をうまく言葉にして父親や祖父を納得させることができない。


「なんだその目は!」


「別に、何も言ってないだろ!」


 結局、もどかしい思いをしただけで、話し合いは――まともに話し合いの形にすらならなかったそれは、物別れに終わってしまったのである。


◆◇◆


 話し合いは平行線のまま終わり、俊夫は逃げるように自室へと帰ってきた。


「ったく! 頭の中、化石で出来てんのか!?」


 ブツブツと文句は言いながら、乱暴にドアを閉めてベッドに身を投げ出した。


 佐藤家は一〇〇年以上昔に建てられた古い屋敷でもちろん完全な和風建築だが、あちらこちらに手が入っており俊夫の私室などはフローリングにリフォームされていた。


 ベッドと勉強机、鍵がかかる整理戸棚。


 本棚にはマンガと、いくつかの専門書がある普通の男子高校生の部屋であった。


 この部屋の中だけが俊夫の安息の地である。


 一歩外に出ると、まるで家屋の古さまでもが伝統という圧力をかけてくるように見えるからだ。


「あ~、非生産的だ……」


 家族なのに、理解されない。


 他人であれば距離を取ればいいだけの話だが、それが親となれば毎日顔を合わせなければならない。


 しかも生活費は向こう持ち。


 養われている立場のもどかしさに頭をがしがしとかきむしっていた。


「よし、こういうときには秘密のコレクションを見てスッキリするしかない!」


 俊夫は立ち上がり、鍵付きの戸棚に手をかけた。


 木製の、中が見えない扉付きで、中には俊夫秘蔵のコレクションが納められていた。


「俺の楽園が、ここにあるっ!」


 親にも見つからないように、ベッドの下にしまい込んだ鍵を取り出し、戸棚の鍵穴に入れる。


 ガチャリ、と軽い感触と共に解錠された扉に手をかけたところで――、


「あ、お兄ちゃん、エロ本見るの!?」


 俊夫が戸棚の扉を開けるとほぼ同時というとんでもないタイミングで、ノックも断りもなく部屋のドアを勝手に開けて入ってくる女の子がいた。


 小柄で、くりくりとした好奇心旺盛な目が印象的な少女である。Tシャツにホットパンツという露出の多い格好だが、本人の雰囲気もあって健康的な印象の方が強かった。


「ば、ばばば、馬鹿言うな! こんな時にエロ本なんか読むか!」


「えぇ? 嘘でしょ? お兄ちゃんぐらいの年頃の男の子がエロ本の一つもたしなまないなんて――あらら?」


 勝手なことをのたまわりながら、勝手に部屋に入ってきたことを謝ることすらなくさらに踏み込んでくる唯我独尊系妹の香奈美かなみに、俊夫は深々と溜息をついた。


「石ころ?」


 鍵付きの戸棚にはエッチなアイテムが山盛りだと思い込んでいた香奈美は目を丸くしていた。


 何故なら戸棚には、透明なプラスチックのケースに収納された物体が所狭しと陳列されていたからだ。


 ぱっと見は香奈美が口にした通り、半透明の石ころに見えるだろう。


 薄く青やピンクといった色つきのもの。


 表面が滑らかなもの、逆にがさがさしたもの。


 表情は豊かである。


 しかしそれらはただの石ころではなく、俊夫の大切なコレクションだった。


「が・ん・え・ん・だ!」


「がんえん? 岩の塩って書く、あの岩塩? ……ってことは、塩?」


「お前も俺の趣味のことは知ってるだろうが」


「知ってたけど、高校男子が塩を見てニヤニヤしているのって、エロ本読むより不健全じゃない?」


「うるさいな! 俺は塩が好きなの」


 もっとも、エッチな本はベッドの下にあるので香奈美の観察眼もまったくでたらめではないのだが……。


(岩塩で気晴らしすることにしてよかった、マジで……)


 そっと胸をなで下ろす。


 中学生という多感なはずの年頃のくせに、妙に達観しているこの妹は、エロ本の一つや二つ出てきたところで動じないような気がしないでもない。


 それでも兄としての尊厳を守るために、物的証拠が見つからないのは大切なのだ。


「今日は派手にやってたねぇ」


 勝手にコレクションを眺めながら、ぽつりと漏らした。


「うるさかっただろ?」


「二階まで筒抜けだね。外まで聞こえてたかも」


「恥ずかしいなぁ。ったく、オヤジも少しは考えろって言うんだよな」


「とはいえ、江戸時代からの伝統だからねぇ」


 香奈美はちょっと意地の悪い笑みを浮かべていた。


「しかも和菓子屋の跡取り息子が塩の研究がしたいとか言い出したもんだから、お父さんも大変だわ」


「そんなこと言われたって、好きなモノは好きなんだから、しようがないだろ?」


 佐藤家は江戸時代から続く和菓子の店だ。


 本当か嘘かは分からないが、かつては徳川家に菓子を献上したことがあるとかなんとか。


 少なくとも祖父も父も自分の家に誇りを持っており、一人息子の俊夫にも子供の頃から厳しく和菓子のことを教え込んでいた。


 立派な跡取り息子になってくれると期待していたのだろうが、俊夫の場合は二人がかりのスパルタ教育が災いして、逆に塩に興味を持ってしまったから皮肉なものである。


「最初はよかったけどさ、毎日毎日、甘味甘味甘味甘味のオンパレードなんだぜ」


 もちろん食事は普通だが、それ以外はとにかく甘い物を食べ続ける――父親いわく、舌を鍛えるためらしい。


 他の、和菓子の老舗と言われる家の家風がどうなっているかはわからない。普通に和菓子の中にも塩を使ったものがある。


 なのに塩味を認めないというのは、佐藤家はかなり極端で思想の火加減は強火だ。


 そんなある日、運命の出会いが訪れる。


 まさに運命と表現するしかない出来事であった。


 クラスメイトの一人がポテトチップスを手渡してくれたのである。面白半分か、同情なのかはわからない。


 ただ生まれて初めて口にした、塩の利いたスナック菓子の味は、大げさではなく脳天に電流が駆け抜けたかと錯覚するほどの衝撃だったのだ。


 衝撃的すぎて、目の前でチカチカと火花が散ったほどである。


「にひひ、大変だねぇ」


 ちなみに、俊夫はファストフードもスナック菓子も厳禁だが、香奈美にその縛りはない。


 兄妹間の格差も、跡継ぎだからなどという前時代的な理由で素通りしてしまうのだから、俊夫の感性的にフラストレーションがたまりまくった。


 たまりまくった結果、塩味が利いたお菓子を食べたい欲求が、塩自体への興味にまで行き着いてしまったのだ。


「ったく、他人事だと思って――」


「お兄ちゃんが出ていったら、あたしが遠慮なく身代しんだい乗っ取っちゃうからね」


 香奈美はえらく男前な笑顔を浮かべて言った。


「だから、お兄ちゃんは遠慮せずに大学行っちゃいなよ。まあ、学費は自分でなんとかしなきゃだろうけど」


 男兄弟の部屋に勝手に入ってエロ本じゃないかと言い放つがさつな妹だが、


(……正直、俺には出来すぎた妹だよな)


 などと胸の中だけで褒めておいた。


「とりあえず、もうちょっと粘って説得してみるよ。ダメかも知れないけど」


「やる前からダメかもとか言ってるところがダメだよね」


「うるさいな。明日だよ、明日。いつかおおっぴらにポテチを食えるようになってやる!」


 香奈美はいつでも食べられるからわからないだろうが、もう数ヶ月は口にしていないポテチは、俊夫にとってはどんな高級料理よりも価値があるのである。


「そのこころざし、微妙に低くない?」


「うっさい」


 佐藤俊夫はそんな、進路で親と大げんかをするような、特に珍しくもない環境に生まれた当たり前の少年だった。


 ――ただ一点だけ、父親と祖父を説得しようとした次の日に、呆気なく交通事故でこの世を去ってしまうという点を除けば、だが。

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