第2話 恋心

「桜羽先生!」


 入って来たのは保健の先生ではなく美術部顧問の桜羽だった。予想外の人物に驚くいろは。慌てて水を止めた。


「どうしたんですか」

「資料まとめていたら指切っちゃってさ。小鳥遊さんはどうしたの?」

「体育の授業がバレーだったんですけど突き指しちゃって」

「えっ大丈夫?」

「あっでも、そんなにひどくはないです。ほら、ちゃんと動きます」


 いろはは持っていたタオルで指の水滴を拭き取ると、突き指した薬指を軽く曲げて見せた。その様子に少しだけ安堵する桜羽。


「それならよかった。卒業制作は順調?」

「はい。順調です。夏休みまでには仕上がると思います」


 開いた窓から初夏の軽風が吹き込んでくる。窓際の花壇は園芸部が蒔いた種が新芽を見せる頃だった。 桜羽は引き出しから絆創膏を取り出し、慣れた手つきで指に巻き付けていく。


「保健の田中先生、職員室にいたけど呼んでこようか?」

「大丈夫です。後は湿布貼るだけですから」


 先ほど棚から出しておいた湿布を手に取った。もう一度、軽く指を動かしてみるが痛みはわずかしかない。赤くなっている右手の薬指に湿布を巻こうとした。しかし利き手の指に巻き付けるのは意外と難しい。思うように指に巻き付いてくれない。葛藤していると粘着部分が折れ曲がり張り付いてしまった。


「あれ、えっと・・・こういうのって利き手の方だと意外と難しいですね」


剥がそうとするとも上手く離れない。不器用な自分の姿を桜羽が見ていることに気付き、いろはの体温が一気に上昇していく。羞恥すると更に手元が上手く動かせなくなる。クスリと笑った声が聞こえたかと思うと、桜羽の手が伸びて来た。


「貸してごらん」

「先生?」


 桜羽はいろはから湿布を取ると赤く腫れあがった薬指に簡単に巻き付けていく。苦戦していたのにそれはあっという間だった。桜羽が微かに触れた指先に、いろはの指先が軽く動いた。


「ごめん、痛かった?」

「いえ、大丈夫です」

「小鳥遊さんって時々、不器用なところあるよね」

「そうですか?」

「そうそう。大概は上手くやれる子だけど」


 桜羽の眼鏡のレンズが窓から入ってくる太陽の光で反射している。その向こう側にある温かな微笑みにいろはは咄嗟に視線を指に戻した。胸から沸き上がりそうな感情を抑え込むよう静かに息を吸い込んだ。


「そういう先生こそ紙で指を切るなんて美術部顧問らしくないです」

「ははは、痛いところつかれちゃったな。はい。できたよ」

「ありがとうございます」


 いろはは湿布が巻かれた薬指を見つめた。自然と口元が緩んでいく。いつもは疎ましく思う湿布薬の匂いも今日だけは違う。


「さっ授業戻って」

「はい」

「今度はボール、気を付けてね」


 桜羽はいろはと保健室から出るとドアを閉めた。体育館へ向かう右側と職員室へ向かう左側に分かれて歩いていく。静かな廊下に二人の足音が交互に響いていく中でいろはの感情が吐露する。

 そして離れていく桜羽の方を気づかれないようにそっと振り返った。来たときと同じように誰もいない静かな廊下。


「・・・」


 薄いグレーの背広を着た桜羽の後姿。今、この時間は自分だけが見ている。窓からそよぐ風を感じながら眼鏡をかけ直したところで、桜羽は後ろにいるいろはの足が止まっていることに気づき振り返った。

 遠くで視線が重なった。それと同時にいろはの胸の鼓動が内側から叩くように振動した。ふわりと零れた桜羽のやわらかな笑みに、いろはの胸は高鳴っていく。先ほど触れた指先の感触が蘇ってくる。桜羽はいろはに向かい、軽く手を振ると職員室に続く角を曲がって行った。


「好き」


 誰にも聞こえないように、いろはは抑えきれなくなった胸の内の思いを零した。


□□□


「いろはちゃん、指大丈夫?」

「うん。すぐ湿布貼ったし痛みはほとんどないから」

「よかった~」


 体育の授業を終え教室へ戻る三人。湿布を貼った指を曲げて見せると、赤みに対してそれほどの痛みを感じなかった。その赤みも今は湿布で隠れている。先ほどのことを思い出すと口元が緩む。そんないろはに美鈴が顔を寄せると痛々しく見える指を見た。ふんわりと香ってきたのは、先ほど更衣室でつけていた香水の香りだった。美鈴が以前付き合っていた男の子にプレゼントされたものだ。ピンク色のハートのボトルに甘いバニラとフローラルの香りが気に入っていると当時も喜んでいた。


「よく利き手の方にそんなキレイに貼れるわね。私なら絶対ムリ」

「いろはちゃん美術部だもんね。手先起用なの」

「あ、これは桜羽先生に貼ってもらったの」

「桜羽先生?なんで?」


 首を傾ける美鈴。その後ろで、世那も同じような顔をしている。


「保健の先生いなかったの。それでたまたま桜羽先生がいたから貼ってくれたの。私も上手く貼れないよ」

「えーいいなぁ!私も桜羽先生に介抱してもらいたい」

「ふふふ美鈴ちゃんったらまた。でも桜羽先生人気だよね」

「それはそうでしょ!その辺の頭の固い親父教師やギャーギャーうるさいサル男子共と全然違うし。イケメンで優しいもん!大人の男って感じ?その上まだ独身だし狙ってる女子も多いんじゃないの~」

「去年の卒業式でも告白した女の子が何人かいたらしいよ」


 その会話に小さな棘のような物がいろはの胸に刺さった。鈍いけれど確かに覚えのある感覚。

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