蝉時雨の残像
舞夢宜人
第1話 都会のざわめき、蝉時雨の誘い
六月の終わり。都会のざわめきは、アスファルトの照り返しから立ち上る熱気と混じり合い、春樹の肌にまとわりつく。灼けるような日差しがアスファルトの匂いを濃くし、アスファルトの道からは熱波が立ち上っていた。高校三年生の夏休みは、全国大会という目標を失った柔道部の引退と共に、ぽっかりと大きな空虚感を残して始まった。汗ばむ背中には、もう柔道着の重みも、汗に濡れた畳の乾いた匂いもない。積み重ねてきた日々が突然終わりを告げたかのような、拍子抜けする静けさが、春樹の心を支配していた。同級生たちは、来たるべき受験戦争に向けて参考書を広げるか、あるいは恋人や友人との夏の思い出作りに浮かれ騒いでいるが、春樹にはそのどちらも遠い世界のように思えた。彼の内面では、将来への漠然とした不安が渦を巻き、一方で、異性に対するまだ輪郭のぼやけた好奇心が、胸の奥で静かにうずいているのを自覚していた。それは、今まで柔道一筋で打ち消してきた、本能的な渇きにも似た感覚だった。
そんな春樹に、母から告げられた一言が、彼の長く退屈な夏休みに、突如として新しい光を投げかけた。
「今年の夏休みは、おばあちゃんの家に行ってらっしゃい。たまには、田舎の空気でも吸ってきなさい。あなたのそういう顔を見ていると、心配で仕方がないわ」
母の実家は、静岡県富士市からさらに奥深く、山間の小さな集落にあるという。過疎化が進み、静けさに包まれたその場所は、春樹にとって、幼い頃に数度訪れただけの、もはや記憶の中だけの存在だった。都会の刺激に慣れきった今、そんな場所で何をすればいいのか、想像もつかなかった。だが、特に他にすることも見つからず、この空虚な日々から逃れたいという思いが募っていた春樹は、半ば投げやりにその提案を受け入れた。彼の心には、新しい何かが始まるかもしれないという、微かな期待の萌芽と、未知の場所への戸惑いが入り混じっていた。
上野駅から特急列車に乗り込む。都会の風景は、猛烈な速さで車窓を後方へと流れていく。無機質なコンクリートの塊や、規則正しく並んだ住宅街が遠ざかるにつれて、代わりに現れるのは、青々とした生命力に満ちた山々、そして清らかな水がとうとうと流れる川のきらめきだった。列車が山間深くまで入り込むと、車内の冷房が効いていても、窓の外のむせ返るような緑の匂いと、蝉の鳴き声が、わずかに春樹の鼻腔をくすぐった。それは、都会の排気ガスの匂いや、人工的な香料とは全く異なる、土と水と生命が織りなす、濃密で、しかしどこか懐かしい匂いだった。その匂いは、彼の幼い頃の記憶の扉を、そっと開くような感覚を呼び起こした。
目的の駅は、想像していたよりもさらに小さな、無人駅だった。ホームに降り立つと、容赦ない日差しが容赦なく春樹の肌を焼き付け、じりじりと汗が噴き出す。そして、まるで春樹の全身を覆い尽くすかのように、ツクツクボウシ、ヒグラシ、アブラゼミ、ニイニイゼミ……。様々な種類の蝉の声が、降り注ぐ豪雨のように春樹の耳を包み込んだ。その音は、都会の耳障りな喧騒とは全く異なる、自然の生命のざわめきであり、生と死が隣り合う、この土地の真髄を語っているかのようだった。空気は都会よりも幾分か清涼に感じられたが、肌にまとわりつく湿気と、草木の濃密な香りが、いかにも「夏」を主張し、春樹の五感を圧倒する。
駅前には、祖父が待っていた。陽に焼けた顔には深く皺が刻まれているが、その目元には温かい笑みが浮かんでいる。
「ハルキ、よく来たな。大きゅうなったもんだ。電話じゃ痩せたって聞いたもんだが、なかなかどうして、柔道で鍛えられた体は健在のようじゃな」
祖父の訛りの混じった言葉が、春樹の心にじんわりと染み渡る。車の窓から見える風景は、春樹の幼い記憶とほとんど変わっていなかった。狭い山道を縫うように進むと、点在する古民家と、その周囲に広がる豊かな田畑。所々に、最近の豪雨によるものか、土砂が流れ出た痕跡が見られたが、それでも土地の生命力は圧倒的だった。懐かしさと、同時に、時間が止まったかのような不思議な感覚が押し寄せた。祖父の軽トラックの窓は開け放たれており、風と共に蝉の声が直接春樹の耳に飛び込んでくる。
祖父母の家に到着すると、祖母が縁側で優しい笑顔で出迎えてくれた。
「ハルキ坊、遠いところよく来たねぇ。お疲れ様だったね。ささ、涼しいところで上がんなさい」
座敷に通されると、ひんやりとした畳の感触が足裏から伝わってきた。用意してくれた冷たい麦茶が、乾いた喉を通り、身体の隅々まで染み渡る。畳のい草の匂い、古い木材の匂い、そして台所から漂う素朴な煮物の匂い。都会では決して感じることのなかった、五感が刺激される新しい感覚が、春樹の全身に広がる。祖父母の温かいもてなしに、張り詰めていた春樹の心は、少しずつ、しかし確実に解きほぐされていくのを感じた。
夕暮れ時。庭には、昼間とは異なる種類の蝉が鳴き始めていた。ニイニイゼミの忙しない鳴き声が遠ざかり、代わりに、ヒグラシのカナカナという、どこか寂しげで郷愁を誘う声が、遠く、山々に響き渡る。春樹は、縁側に座り、変わりゆく空の色を眺めていた。茜色に染まっていた空が、深い群青色へと移ろい、やがて星々が瞬き始める。都会での空虚感は、まだ完全に消え去ってはいない。だが、この土地の生命力と、祖父母の温かさに触れ、彼の心の奥底に、何か新しい感情が芽生え始めているのを感じていた。それは、これから始まる夏への、漠然とした予感だった。これまで知らなかった感情の扉が、ゆっくりと開かれようとしているような、そんな予感だった。彼の柔道で鍛え上げられた身体は、この地の静けさの中で、新たな刺激を求めているかのようだった。
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