第13話『削除された恋、残った何か』


朝の教室が、いつもと違って見えた。


窓から差し込む光も、机の配置も、黒板の文字も、何も変わっていないはずなのに。凛花は自分の席に座りながら、視線を入口に向けた。


ガラガラと扉が開く。


暁斗が入ってきた。いつもと同じ時間、同じ足取りで。でも──


「おはよう」


隣の席の美咲が挨拶をすると、暁斗は軽く会釈を返した。そして凛花の前を通り過ぎる。視線が一瞬交わったが、そこにあったのは他人を見る目だった。


知らない人を見る、ただの日常的な視線。


凛花の胸が、ぎゅっと締め付けられる。


(そっか。本当に、忘れちゃったんだ)


昨日まで、あんなに優しく名前を呼んでくれていたのに。手を繋いで、キスをして、「君のことが好きだ」って言ってくれたのに。


全部、なかったことになってしまった。


暁斗は自分の席について、いつものように窓の外を眺め始めた。その横顔は、初めて会った頃と同じ。人を寄せ付けない、静かな壁を作っている。


でも凛花には分かる。彼のその仕草が、何かから自分を守るためのものだということが。


「桃瀬さん、大丈夫?」


前の席の由香が心配そうに振り返った。制度のことを知っている数少ない仲間の一人だ。


「うん、平気」


凛花は無理やり笑顔を作る。泣いたって、暁斗の記憶は戻らない。それは昨夜、散々泣いて分かったことだった。


一時間目の授業が始まる。数学の時間。黒板に書かれる数式を、凛花はノートに写していく。でも頭には全然入ってこない。


ちらりと暁斗の方を見る。


彼は真面目にノートを取っていた。きれいな字で、丁寧に。そういえば、彼の字を褒めたことがあった。照れくさそうに「別に普通だろ」って言いながら、耳を赤くしていた。


今はもう、そんなことも覚えていない。


休み時間になって、凛花は屋上に上がった。ここは二人でよく過ごした場所。手すりにもたれて空を見上げる。


雲がゆっくりと流れていく。昨日と同じ空なのに、隣に誰もいないだけで、こんなに違って見える。


「あ……」


階段の扉が開いて、暁斗が出てきた。


一瞬、目が合う。凛花の心臓が跳ね上がった。もしかして、思い出してくれた?


でも暁斗は、少し困ったような顔をしただけだった。


「悪い、邪魔したか」


そう言って、戻ろうとする。


「待って」


思わず声をかけてしまった。暁斗が振り返る。


「なに?」


その声は、優しくも冷たくもない。本当にただの、クラスメイトに対する声だった。


「ううん、なんでもない」


凛花は首を振る。何を言えばいいんだろう。「私のこと覚えてない?」なんて聞いても、変な子だと思われるだけだ。


暁斗は少し首を傾げたが、そのまま階段を降りていった。


一人になった屋上で、凛花は膝を抱えて座り込む。


風が吹いて、髪が揺れた。春の終わりの、少し暖かい風。この風の中で、二人で笑い合ったこともあった。


「忘れないでって、言ったのに」


つぶやいた言葉は、風に流されて消えていく。


午後の授業中、暁斗の様子がおかしいことに凛花は気づいた。


何度も額に手を当てて、眉間にしわを寄せている。保健の先生が心配して声をかけたが、「大丈夫です」と答えるだけ。


放課後、暁斗は一人で帰っていった。凛花は少し距離を置いて、後をついていく。ストーカーみたいで嫌だけど、心配だった。


商店街を抜けて、公園の前を通る。


ここも、二人で来た場所だった。ベンチに座って、たわいない話をして。夕日がきれいで、時間を忘れて見とれていた。


暁斗が急に立ち止まった。


公園の入り口で、じっとベンチを見つめている。そして、ゆっくりと額に手を当てた。


「なんだろう、この感じ……」


独り言が、風に乗って凛花の耳に届く。


暁斗は首を振って、また歩き始めた。でも数歩進んでは立ち止まり、振り返ってはまた歩く。まるで、何かを探しているみたいに。


角を曲がったところで、凛花は追うのをやめた。


これ以上は、彼を困らせるだけだ。記憶がないのに、場所だけが何かを訴えかけてくる。それがどんなに苦しいか、想像できた。


家に帰って、凛花は机の引き出しを開ける。


そこには、この90日間の思い出が詰まっていた。一緒に撮った写真、暁斗がくれたメモ、デートの半券。


制度の記録は削除されても、物理的なものは残っている。でも、これを見せたところで、暁斗は思い出さないだろう。記憶がないんだから。


「あ、これ……」


一枚の紙切れを見つける。暁斗が書いた短い手紙だった。


『凛花へ。俺は言葉が下手だから、うまく言えないけど。君といる時間が、一番楽しい』


涙が、ぽたりと紙に落ちた。


この気持ちも、この言葉も、全部暁斗の中から消えてしまった。私だけが覚えていて、私だけが苦しい。


でも──


凛花は窓の外を見る。夕焼けが、街を赤く染めていた。


今日の屋上で、公園で、暁斗は何かを感じていた。記憶はなくても、心のどこかに、かすかに何かが残っているのかもしれない。


「桜の香りがすると、切なくなるって」


つぶやいてみる。凛花の好きな香水は、桜の香り。それを暁斗は「いい匂い」だと言ってくれた。


もしかしたら。


ほんの少しの可能性だけど。


凛花は手紙を大切にしまって、明日の準備を始める。諦めるのは、まだ早い。暁斗の心のどこかに、自分の痕跡が残っているなら。


それを信じて、明日も学校に行こう。


普通に接して、普通に過ごして。でも、いつか──


「もう一度、好きになってもらえるかな」


独り言は、誰にも聞こえない。


でも凛花は、小さく微笑んだ。泣いてばかりじゃ、前に進めない。暁斗が教えてくれたことだ。


明日は、もっと笑顔でいよう。


それが今の自分にできる、精一杯のことだから。









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