第17話
「本当に申し訳ない……」
ひれ伏した三木は、苦渋の声を絞り出した。
「三木さん? 突然どうしたんですか?」
「俺の不注意で、君たちのような他人のために動ける人間の命を奪ってしまったことが、本当に申し訳なくて……」
「いや、そんなこと……」
「俺の上司だった横山さんは、俺を庇って会社を辞めたんだ。俺の所為で……」
三木は、有田と宇野の話を聞き、やはり二人の命と一人の人生を奪ってしまった罪悪感が湧き上がり、押し潰されるように砂に身を落としてしまった。
「もう謝って済むことじゃないってことは分かってる。でも、こうしないと俺の気が保てそうにない」
両膝、両手、そして額を砂に埋めたまま不動を保つ三木を、有田は困惑した表情で、宇野はすました表情で見つめていた。
「俺は、いじめられたこともなければ、仕事で悩んだこともない。人生で苦労なんてしたことがなかった。そんなモブみたいな奴が、ある日突然、もがき苦しみながら状況を変えようとしてる人間の命を奪ったんだ。それに加え、上司の人生をも狂わした」
三木は、胸に詰まった空気を何とか押し出すような、無駄に力のこもった声を出した。
「宇野くん、俺は天国へ行くのか……?」
「……うん」
宇野は、何かを確認するように数秒宙を眺め、再び三木に目をやり答えた。
「本当にいいのか? その審判は本当に正しいのか!?」
「三木さん……」
徐々に声を荒げる三木に、有田は同情の眼差しを向ける。
「すでに決まってることだから。それに、屋上に鍵が掛かっていたとしても、ぼくは他の方法で死ぬことを選んでたよ。だから三木さんの所為じゃない」
宇野はそう言った後、顎に手を当て、何かを考えている素振りを見せた。
「上司の横山さん……。横山さんって横山康弘って人のこと?」
宇野の言葉を聞き、三木は顔をがばっと勢いよく上げ、目を見開いて宇野を見た。
「どうして、その名前……」
「ちょっと前に天国へ行った時、その人に声をかけられたんだよ。『ミキって奴を探してる』って。天国のことは分からないって言って戻ってきちゃったけど。もしかして、三木さんのことじゃない? てっきり娘さんのことかと……」
三木の黒目が、動揺で左右を行ったり来たりしている。
「横山さん……亡くなったのか……」
「現世とこっちは時間の流れが違うから。三十年以上経っててもおかしくはないよ。多分、老衰だと思う。おじいさんって感じだったから」
三木は、安堵と感傷の、長いため息を吐いた。
宇野は、また少し考えるような素振りをしてから口を開いた。
「そうだ。もし見かけたらって言伝を預かってる。『久しぶりにメシでも誘おうかと思ったら、東京はおろかこの世にすらいないなんて、一体何を考えているんだ? 自分もとうとうこっちに来たから、何があったか話聞かせろ』ってさ」
三木は丸めていた背中を伸ばし、膝立ちになった。
「まったく。俺の親父じゃないんだからよぉ。あぁ、怒鳴られんだろうな……」
三木は、ふっと軽く笑った。
その息に乗り、心に閊えていた重石が外へと飛び出したように感じた。
「ズザアアァァ……」
「うおっ!」
天国への扉が目の前に現れ、三木は驚いて尻餅をついた。
目をぱちくりさせ、しばらく扉を見つめていた三木に、有田は背後から声をかけた。
「三木さん、わたしも宇野くんと同じ気持ちです。死んだこと、三木さんの所為だなんて思ってません」
三木はゆっくりと立ち上がり、有田に微笑んだ。
「そうか。ありがとう」
「こちらこそ……」
有田は深々と頭を下げた。
三木も有田に軽く頭を下げ、光輝に満ちた扉の奥を見据えながら歩きだした。
しかし、途中でぴたりと足を止めた。三木は、目を閉じ下唇を噛み、静止していた。
「三木さん?」
有田は不思議そうに声をかけると、三木はゆっくりと振り返った。
その表情は、何かを抑え込んでいるような、愁いているような、有田にはそう見えた。
「やっぱ、不条理だよな……」
三木はそう呟き、有田に背を向けた。そして、のしのしと光輝の中を進んでいったのだった。
有田は首を傾げ、振り返り宇野に目をやった。
宇野は小さくなる三木の背中をじっと見つめていた。行間を読んだかのような、全てを察したような迷いのない目をした宇野を見た有田は、少しばかり胸騒ぎがしたような気がした。
「さ、話を戻そう。それで、先生には、ここにいてもらいたいと思ってるんだ」
「え……?」
抑揚なく滑らかに話す宇野の態度も相まって、有田は言葉の意味をすぐに理解することができなかった。
おろおろと口ごもる有田に、宇野は被せるように続けた。
「先生。ここの案内役、ぼくと代わって」
少し悲しげな表情を浮かべながら、宇野は言う。
有田は何とか宇野の言葉を整理し、消化しようとするが、意図の読めない言葉というのは、異国のもののように全く入ってこなかった。
「それってどういう……」
「そのままの意味だよ。先生がここの案内役をするってこと」
「そうしたら宇野くんはどうなるの……?」
「……うん。地獄へ行く」
宇野は一瞬、言葉に詰まった。
やっと理解できた。しかし、あまりに受け入れ難い申し入れに、有田は声を荒げた。
「そんなの、受け入れられるわけない!!」
「ぼくは塚田を殺してる。地獄へ行くことは運命なんだ」
「なら、ここにいればいいじゃない!!」
「そのつもりだった。だったけど、もうそれはできない」
「どうして……?」
興奮する有田、冷静な宇野。対照的な二人だったが、類する沈黙を生み出した。
躊躇い口を噤む宇野と、はねつけようと心づもりしつつ答えを待つ有田は、ただ向かい合っていた。
そんな二人の間を、黒豹が素通りした。
「先生に地獄へ行ってほしくないから……」
宇野がぽつりと呟く。
有田は、思いもよらない宇野からの配慮を思わせる言葉と、思った通り地獄へ行くのだという事実の両方を一遍に受け、言葉を失っていた。
宇野は、再び生まれる沈黙を予見して、それを防ぐように続けた。
「先生は、ぼくを殺したんだ。あれは事故だけど、ぼくが先生の下敷きになったから、殺人だと認定されてしまった……」
「……なら一緒に……」
地獄行きの理由には驚いたものの、もとより覚悟していた有田は口を挟んだ。
「だめだ! 先生みたいな人が、ここには必要なんだ!」
宇野は声を張って有田を制した。
有田は圧倒されるように、ぐっと口を閉じた。
「先生とここの人たちのやりとりを見てて思ったんだ。やっぱり天国でも地獄でもない狭間の国で、当て所なく彷徨い続けるって可哀想だなってさ。ここにいるのは、本来行くべき場所に行けなかった人たち。そういう人たちには、誰かが必要なんだ。一歩踏み出させてくれる誰かが。そう、木下みたいな奴が。踏み出せば、良くも悪くも世界は変わるから」
宇野は、拳を強く握り込んだ。
「ぼくは、何でこんな奴が天国に、逆に何でこんな苦労してる人が地獄にって、こんな公正じゃない忌々しい行為は続けたくないって途中でやめちゃったけど、記憶とここでの振る舞いを見て、有田先生なら上手くやってくれそうだと思ったんだ」
そう言って宇野は、有田を指差した。
有田は、複雑な心境でいた。宇野が自分を庇おうとしていること、地獄行きを阻止しようとしていることに、多少の解放感というのだろうか、罪の意識が希釈されるような、ヘドロでどす黒く染まった心が、一滴の純水で、水面を伝うように透明感を取り戻していくような、そんな清々しさを感じていた。
そう感じつつ、とはいえ宇野を救えなかった事実、面倒事に首を突っ込みたくないと思い、いじめを無視した事実が消えるわけではないと、自分自身で心をどす黒く染めようとしていた。
「下敷きにしてしまったからじゃない。それ以前に、わたしは面倒だからってあなたを見捨てたの。だからあなたは死んだのよ。わたしが殺したの。そんな人間が、ここにいる人たちを導く立場にいていいはずがない……」
有田は、ごちゃごちゃになった感情を抑え、冷静に言葉を並べていく。
「宇野くんがたとえ許してくれても、わたしの中で罪の意識は一生消えない」
「そう思うなら、ここにいてよ」
宇野は、有田の言葉に、間髪入れずそう言った。
「ぼくに対して、何かしらの償いをしなきゃと思ってるなら、ぼくのお願いを聞いて」
宇野は、ため息にも似た深呼吸をした。
「いじめをする奴らも、見て見ぬふりした奴らも、みんな数年後にはそんなこと忘れて、のうのうと生きてるんだよ。きっと今もそうさ。結婚して子どもを産んで、自分の過ちを棚にあげて、我が子が悪いことをしたら叱ったりなんかしてね。先生みたいに、罪の意識を背負ったままの人なんて、存在しないに等しい」
有田は、真っ直ぐ宇野の目を見ていた。
「きっとここの案内役には、その意識が必要なんだと思う……。その意識があるから、他人の死に向き合える。そして、他人の罪と、不条理な結果に向き合えると思うんだ」
「ズザアアァァ……」
宇野の背後に地獄の扉が現れた。巨大な扉は、まるで断末魔によって押し開けられるかのように、不気味に開いた。宇野がその扉を背に、有田を見つめ立っている。
「そんな……待って宇野くん……。こんなの絶対におかしいって! 宇野くんが地獄へ行くなら、わたしも一緒に……」
有田は宇野に駆け寄り、両肩をがっしりと掴んだ。宇野の背後の扉から漏れ出る悍ましい空気に慄き、その腕には、より力が入っていた。
「先生、ぼくね、フェンスから身を乗り出したところまでは覚えてたんだけど、死ぬ直前の景色がどうも思い出せなかったんだ。でも、やっと思い出した」
宇野は屈託のない笑顔を見せた。
「先生の涙。最後に見た景色は、涙だった。飛び出してきた先生の目を見ながら、ぼくは死んだんだ」
その時、有田は両目から大粒の涙を流していることに気がついた。この世界に水分などないはず、そんな思考ができるほどの冷静さはなかった。
間国での別れは、今生の別れか終の別れか。そのどちらでもないのかもしれない。とにかく宇野との別れを受け入れられず足掻いた。しかし、その場から動けない。夢の中のような、自分ではないように感じるほど身体が重くなり、自由が失われてしまっていた。
視界は涙の所為か歪んで見える。歪んだ宇野が手を振り、背を向け小さくなっていく。
有田は何かを叫んでいた。しかし、何を叫んでいるのかは自分でもよく分からなかった。
扉が閉まり、沈んでいく。ぼんやりとした視界には、再び白と黒の世界が広がっていた。
視界の歪みは、徐々に激しさを増し、天変地異の如く世界が変わり、自分の嗚咽だか怒声だか喚声だか分からない奇声は、清流の爽やかな音のようなものに掻き消されていった。
そして有田は、沈むように溶けていくように、その場から姿を消したのだった。
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