第5話
「失礼。自分の隊はどこでありますか?」
「はい?」
歩を進めていると、左手からハキハキとした声が聞こえ、有田は咄嗟に目をやった。
背丈は有田と同じくらい、坊主頭の小柄な青年が、丸い銀縁の眼鏡から凛とした目を覗かせていた。
有田は、何度も瞬きをするなど、多少の動揺を隠せずにいた。何故なら、間国で他のものから声をかけられたのは、これが初めてだったからだ。且つこの世界で、こんなにも感情の乗った声と眼差しに触れたことはなかった。
「申し遅れました。自分は相田孝三、陸軍一等兵であります」
「……自衛隊の方ですか?」
「自衛隊とは?」
相田は、雄々しい表情と声色を変えることなく、淡々と言葉を返す。
有田は、そんな相田と会話を交わすうちに、衝撃的な事実を知ることとなった。
「一九三七年から……」
「はい。中華民国の攻撃で、盧溝橋で演習を行なっていた日本兵が負傷したという報告を受け、現地の日本軍の安全を確保するために、自分は派兵されました。そして、気がついたらここにおりました」
「あの、歳はいくつですか?」
「十八です」
相田は、一九三七年の戦時下で命を落とし、ここにやってきたようだが、そうなると八十年以上も間国にいるということになる。
間国から天国や地獄へ行くことは稀なことであるという案内役の話からすると、相田のような存在というのは珍しいことではないのだろう。しかし、祖父よりも歴史の深いものに会ったことがない有田は、そんなものと会話をしているこの状況が異様に思えた。
それに、間国にいるものは皆、能面のような顔立ちをしているが、相田は何とも凛々しい表情をしており、まるで人間のようであった。
有田は、田中、吉野と関わる中で、気がついたことがあった。それは、間国では記憶を取り戻していくことで、感情を取り戻していくのだと。田中も吉野も、被っていた能面をかち割るように、喜びや恐怖といった、感情ある、人間としての表情で間国を去った。
相田も恐らく、長い年月をかけて徐々に記憶を取り戻しているのだと、有田はその表情から想像した。
「相田さんは、ここがどこか分かりますか?」
「中華民国ではないのですか?」
「いえ、ここは間国です」
「間国……そんな地域がありましたか。豊台の近くですか?」
「中国ではないんです。相田さんもわたしも、死んだからここにいるんです」
「死んでいる? 自分は死んだんですか? ですが、ずっとここにおります」
相田の発言は、支離滅裂だった。だがやはり、生前の記憶はいくらかはっきりとしているようで、気がついたら亡くなっていたからだろうが、ここを生者の世界であると勘違いしているようだった。
有田は、声をかけられた以上、放っておくわけにもいかないという親切心が芽生え、少し考えてから言った。
「座って話しませんか?」
「一刻を争いますが、隊と合流できないのなら致し方ない。そうしましょう」
そう言って相田は、空を切るかのような機敏な動きでその場にさっと座った。腰を伸ばし、胡座をかき、地平線を勇猛な目つきで見つめていた。
有田はゆっくりと相田の隣に座ると、思い出しながら呟き始めた。
「一九三七年、盧溝橋という言葉が出てくるってことは、日中戦争あたり……」
「日中戦争? 戦いは昼夜を問いません。御国のためなら、いつ何時でも戦う所存です」
「あ、いえ、そうではなくて。相田さんの時代の戦争、日本と中国の戦いということで、日中戦争と呼ばれています」
「そうですか。それは総理がお決めに? 総理は今どちらに?」
「……ですから、わたしたちは死んでいるんです」
有田は、少し声を張った。
相田は正面を向いたまま、目だけを有田の方へと向けた。
「何故、死んでいると分かるのですか?」
「格好を見てください。相田さんは軍服を着ていませんでしたか? それに水の球体、案内役から説明されませんでした?」
「水の球体……案内役……?」
本当に説明されていないのか、八十年以上を間国で過ごしているが故に忘れてしまっているのか定かではないが、相田は本当に知らないというような、純粋な疑問を持った子どものような表情を浮かべていた。
「では、もし死んでいるというのなら、この戦いの顛末を教えていただきたい」
有田は口を噤んだ。そうせざるを得なかったのだ。有田は社会科の教師、教科書レベルのことであれば、もちろん説明することできる。できるが故に、したくないと思ってしまったのだ。
一九四五年、戦争終結までの経緯を、現役の兵士に語って良いのものだろうかと考えていた。
相田は、国のため命をかけて戦うことに、今でも尽力する覚悟でいる。そんな相手に、敗戦した歴史を語ることは、これまでの行いを愚弄することになるのではないか。
有田は、この世界にいるにも関わらず、運悪く授業内容を思い出せてしまっている自分を少し恨んだ。
「どうしました?」
丸眼鏡から覗かせる目は、依然として力強かった。
相田のその目は、有田の背中を押した。どんな結果を突きつけられたとしても受け入れる、そんな覚悟を感じたからだ。敵兵から三八式歩兵銃を眉間に突きつけられても、潔く殺してくれと訴える、そんな目に見えたのだ。
「日中戦争は泥沼化し、第二次世界大戦へと発展しました」
この一文から始め、有田は授業のように淡々と説明をした。
「何ということだ……。更に戦いは激化したのか……」
「はい。確か、日本、ドイツ、イタリアの同盟国と、中国、イギリス、アメリカ、フランス、ソビエトの連合国の戦いです。そして何より恐ろしいのが、日本はその戦いで、ある兵器を生み出しました」
「兵器、銃か何かの類ですか?」
「いえ。神風特攻隊という兵器です」
有田は、知り得る情報全てを相田に話した。
相田は足元の砂をじっと見つめたまま、動かない。血の通わない間国では、血走ることはないものの、相田の見開いた目は、しっかりと憤怒を表しているように見えた。
「片道の燃料と爆弾を積んだ戦闘機で突っ込むだと……。何だそれは……まるで人間兵器じゃないか……」
相田と有田は、目を閉じ、しばらく沈黙した。兵士たちを弔うかのように。
「それで、戦いは終わったのですか?」
「一九四五年、日本は敗戦し、無条件降伏をのむことで終戦を迎えました」
「そうですか……負けたのですね」
相田の表情が緩むことはなかったが、地平線の方へと視線を上げていた。
どこか悲しげな表情を浮かべた相田の横顔をちらっと見て、有田は足元の砂に視線を落としたのだった。
「平和は、訪れたのでしょうか」
「訪れました」
「……何故そう言い切れるので?」
相田はそう言って、力強く有田の横顔を睨みつけた。怒りではない、好奇心の強さが目と声に表れていた。
「わたしは、二〇二四年の日本にいましたから」
相田は、有田のその言葉を聞くや否や、立ち上がった。
「そうなんですか!? そんな未来の人が何故ここに!?」
「ですから、わたしたちは死んでいるんですと何度も言ってるじゃないですか」
有田が呆れた声色でそう言うと、相田はゆっくりと腰を落とした。
「なるほど。終戦までを詳細に語られたことからも、嘘ではないのでしょう。そうか、自分は死んだのか。もとより死ぬ覚悟ではおりましたが、死んだことに気づかないなんて、滑稽ですね。しかし、八十年先まで日本が続いているとは、思いもしませんでした。平和が訪れたのか……。良かったです」
相田は眼鏡を外し、たたんで砂の上に置いた。憂いと安堵を混ぜたような複雑な表情だったが、どこか穏やかだった。
有田は、相田の胸中を察したが故に、実際に戦争の最中にいた軍人にどのような声をかけたら良いか分からず、他の話題を探していた。
「その眼鏡は、ここで拾ったのですか?」
「いえ、いつしか襟元に掛かってたんです。初めは自分のものかどうか分からなかったのですが、これは徴兵前に母から貰ったものだと思い出したんです。戦場は砂埃が吹き荒れているだろうから、目を守ってくれるようにって」
「他にご家族は?」
「はい、父が。ですが、父は徴兵より少し前に病気で亡くなりました」
有田は、申し訳なさそうに口を閉じた。
「母は無事なのだろうか……。いやしかし、そんなに時が経っているということは、すでに亡くなっているのでしょうな。終戦後の平和な生活を、少しでも過ごせていたと信じたいです」
相田はそう言うと、眼鏡を拾い上げ、ぎゅっと握った。
「戦いが終わったのなら、母と父に会いたいですね」
相田は、すっと立ち上がり、地平線を見つめた。
「ズザアアァァ……」
例の如く、相田の目の前に扉が現れた。相田は冷静に、その扉を見上げていた。
そして案内役が有田の背後からひょっこりと現れ、相田の目の前で浮遊していた。
「相田孝三……地獄からお迎えがまいりました」
案内役の言葉を聞いた有田は、すうっと立ち上がった。
「……地獄? 何かの間違いでは……?」
「いいえ、間違いはございません」
「国のために戦った人間ですよ? そんなわけないじゃないですか。何で相田さんが地獄に?」
相田は、真っ直ぐ案内役を見つめていた。
「それは分かりません。私はただの案内役ですから」
「ちょっと待ってください!」
有田は、案内役に詰め寄ろうとした。
すると相田は、左腕を真横に出して有田を制した。
「自分は人を、何人も殺していますから」
「でもそれは、国のために命令されたからで……」
「結果は同じですよ。ここでは自国も何もないのでしょう。等しく殺人は殺人なのだと思います。あ、そうだ。もしあなたが天国へ行くのなら、母と父に伝えてください。孝三は、元気だったと……」
そう言って相田は、有田に笑顔を向けてから、扉に向けて歩き出した。
「ありがとうございました」
背後から聞こえた声で、相田は振り返った。そこには深々とお辞儀をする有田の姿があった。
「相田さんたちが命を懸けてくれたおかげで、わたしたちは平和に生きられています。相田さんのような正義感の強い人たちがいたから、日本は平和になりました」
有田は砂を見つめながら、自分は一体何をしているのだろうと思っていた。こんなことをするような人間だったのかと疑う自分が、徐に顔を出してきたのだ。
相田は有田の前に立ち、敬礼をした。そして何も言わず、地獄へと足を踏み入れ、扉は厳かに閉じた。
静かになった。周囲に何もいない、ぽつんと有田だけが、そこに存在していた。
「わたし……前に相田さんに会ったことある……いや……相田さんにそっくりな人……?」
有田は、ぐわんぐわんという、脳が鼓動するような刺激を感じていた。
目の前に、背中を向け、両手を広げて立ちはだかる、眼鏡を掛けた少年の姿。何かから守ってくれているかのような勇ましい背中だった。
彼は、相田にそっくりな銀縁の丸眼鏡を掛け、ネクタイをしっかりと締め、襟元に青と白のストライプ柄の綺麗な逆三角形をこしらえていた。
「そっか……。学級委員の木下くんだ……」
次に見えた映像は、教室左後ろの席から見た、席についた生徒たちと教壇に立つ先生の姿。しかし、一席空席ができている。木下がいない。
「確か、いじめが原因で木下くんが不登校になって、生徒たちを問い詰めたんだっけ。いじめてた子たちって、見つかったのかな? 思い出せない……。それに、体育館裏でいじめに遭ってた子、あの子たちを刺したこととも何か関係が……」
体育館裏の子、そして木下。有田の記憶に二人のいじめられっ子が映る。これが意味することというのは、有田の怠慢の結果なのだろう。あの時、体育館裏でのいじめを止めていれば、あの生徒を殺人者にすることも、木下がいじめられることも不登校になることもなかったのかもしれない。
有田は、相田と出会った直後だからであろうが、余計に自分が惨めに思えた。相田に対し、善人を気取って頭を下げたのは、罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。
意識していたわけではなかったが、この記憶を取り戻す前兆として、本能的にそうしたのかもしれない。なんて卑しいのだろう。
間国は、天国でも地獄でもない。
しかし、愚行をはたらいた記憶を徐々に取り戻していく有田にとって、間国は罪の意識に永遠に苛まれ続けるという地獄のように思える場所となりつつあった。
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