第5話
雷雨は去った。
メリクはぬかるんだ森道をのんびりと歩いていた。
街に戻る頃には丁度遅い朝陽も差しそうな感じだ。
次はどの国へ行くか……ゆっくり朝食でも食べながら決めようか。
ふと、森の向こうに明かりが見えた。
人工的な明かりだ。すぐに分かる。
メリクは空を見る。
もう夜というほどでもないのにあんなに煌煌と明かりをつけている。
まるで見つけてくださいと言わんばかりの光は、良くも悪くも不自然だった。
これは勘だ。
通り過ぎるつもりで歩いて行くと思いがけず向こうの方から声をかけられた。
「あの、そこの旅の方……、」
若い娘が馬車から顔を覗かせている。
「……供の者が怪我を負ってしまって……、困っていますの……、街はまだ遠いのでしょうか?」
「ここからもう三十分ほど行けば街がありますよ」
メリクはその場で足を止め、事実を答える。
「そうなのですか、ここの土地には不慣れで……、本当はサンアゼールの水神祭にとやって来たのですけれど。もう終わってしまったのでしょうね」
「傷が酷いのですか?」
娘が瞳を潤ませて首を振る。
「血が止まらなくて……、獣にやられたのですが、悪い毒を受けたのかもしれません」
メリクは宮廷魔術師時代、薬学も学んだ。
毒のことも一通りは分かる。
だが知識はひけらかさない方がいい。
知識は財産だ。
下手にそれを豊かに持っていると知ると、利用しようとする人間達の目に留まったりする。
別にひけらかさずとも本当に必要な時は、必要な時だけ使えばいいのだから。
メリクは魔術師である。
隠れた刃を持つ魔術師である限り一人旅では馬鹿な人間を装っていた方が、どちらかというと役に立つ。
例え自分を騙そうとしている人間が近づいて来たとして、馬鹿だと思われていれば逃げるにしても戦うにしてもこちらが主導権は握れるからである。
「傷の手当なら出来ますが、毒のことは詳しくなくて」
「見ていただけますか……?」
断るのも面倒だったのでメリクは歩いて行った。
馬車の中に女が三人。
一人は腕に傷を負い、二人は不安げに抱き合っている。
「……これはひどい出血だ。すぐに手当てしなくては」
包帯を染める血を見てメリクは言った。
「どうしましょう。雷に怯えた馬が逃げてしまって、馬車が動かないのです」
「では医者を呼んできましょう。この傷では動かす方が危ないでしょうし」
メリクはフードを被ったまま女の包帯を見た。
そして抱き合って怯えている二人の娘。
表情はなかなか緊迫感があったが、着ている長いスカートを見ると、逼迫した状況にはいささか違和感を感じる。
同意も得ずそうしようとメリクは思った。
ただし街から連れて来るのは医者である必要は無いかもしれない。
普通、仲間が傷を負って死にかけているなら包帯をこんな血塗れにしておく必要も無い。
あの長いスカートでも必死に割いて腕に巻いてでも止血しようとするものだ。
メリクは最初から大して親身に心配もしていなかったが、この妙な女の一座に関わる気を少々からゼロに切り替えた。
まだこの辺りにはお祭り気分の輩がうろついているらしい。
しばらく熱が冷めるまでエデン西部からは離れるか……、メリクがそこまで考えつつふと馬車を一度見回した時。
馬車の奥、荷物を入れた木箱の裏に見覚えのある剣の柄が見えた。
こんな細腕揃えたような女達が到底持つことも出来ないような大剣だ。
メリクは馬車から下りた。
外にいた女が何かのお手伝いに……と躊躇いがちについて来ようとした。
彼はそれには及ばない、と振り返って微笑む。
「ここの道は一本道ですから迷うことはありませんし、もう朝になる。医者は貴方が呼びに行ってください」
「え? でも……」
怖いわ……というような媚びた表情に、メリクはフードを下ろさずそのまま女の髪を優しく撫でた。
それはまるで子供をあやすような仕草だった。
女はそんなことをされたのは初めてだったかのように呆気に取られた顔をした。
以前訳あって娼館で寝泊まりしていたことがあったのだが、そこでよく世話をしてもらった娼婦の女に、旅先で良くない女に引っかかりそうな時は頭を撫でてみればいいと言われたことがあった。
反応は人それぞれだが、娼婦は十中八九呆気に取られた顔をすると教えてもらったのだ。
体中触られ慣れてる女達の、それは盲点らしい。
人並みの幸せの中で育って来た女は、頭を撫でられる仕草がちゃんと幸せと結びついているのだ、とも彼女は言っていた。
何気なく思い出してやってみた動作だったが、いささか虚を突かれすぎたような、驚いたというよりぎょっとしたような顔を見せた目の前の女に、メリクはひどく優しい声で言った。
例えまともな女でも今日会ったばかりの男に突然頭を撫でられたらギョッとはするだろう。
だがそれなら普通、知らない男から身を守ろうとする怯えが入る。
目の前の女は怯えは全く無かった。
ただひたすら、自分たちがやりたいことをやっている最中なのに思いがけない邪魔をされたような。そんな顔だ。
「大丈夫だよ。
馬でも逃げ出すような昨夜の雷雨に、
仲間が瀕死の傷を負っても逃げも助けも呼ばず、
辛抱強く身を寄せ合って震え続けた女なら、出来ないことじゃない」
女が突然、顔色を変えた。
対するメリクは一切表情を変えない。
「それに俺は少し用事が出来てしまった。
全く面倒臭い用事なんだけど、まぁ見て見ぬフリは夢見が悪いというのもある。
か弱い君達には到底持ち歩けなさそうな、そこの大剣を忘れて行った持ち主を探さないと行けなくなったから」
メリクの背にローブ越しだがナイフの切っ先が突きつけられた。
「立ち去りなさいよ。何も言わずにね」
馬車から二人の女が短剣と弓を構えて出て来る。
(嘘がバレたらすぐそれか。もう手口は立派な山賊だね。
……あの坊やが引っかかるのも無理無いか)
「あんた吟遊詩人ね。ふん、楽器も大したものじゃない。身ぐるみ剥がしがいのない」
身ぐるみ剥がしがいってなにさ。
「身の程知らずが正義感でしゃしゃり出て来るとこういうことになんのよ」
(正義感か……。最近よくそういう言葉を投げつけられるなぁ)
メリクは思った。
サンゴールにいた頃は、襟を正してただ黙って座っていたって、胡散臭い何か企んでいるに違いないなどと疑われたものなのに、全く不思議である。
少なくとも今の自分よりは、サンゴールにいた自分の方が人に対して誠実だったと彼は思っている。
別に嬉しくもないことだが、自分の本質を思えば得体の知れないヤツと思われる方がまだ相手に見る目はあるのだろう。
こんな自分に正義感があると見えている方がおかしいのだ。
「『フシアナ』」
「……は?」
メリクが呟いた奇妙な一言に、ナイフを突きつけた女が怪訝に聞き返した途端、突然女の体が後方に吹き飛んだ。
樹に叩き付けられて地面に落ちる。
ぬかるんだ泥が跳ね上がる。
「! こいつ!」
「――畜生! 魔術師だッ!」
途端に投げつけられた短剣と矢がメリクの体の前で止まった。
見えない壁に阻まれるように。
女二人が馬車から出て来る。
そして最後に残っていた、瀕死だったはずの女が手を広げて馬車の中で立ち上がっていた。
咄嗟に宙に切られた
乱雑な魔印は精霊の目には映らない。
だが何故かこういったならず者の魔術師が一番最初に鍛錬を省くのがこの魔印なのだった。
描く図形さえ合っていればとりあえず魔法が使えると思い込んでいるからなのだろう。
これは旅のうちで知った。
しかし魔術はそうではない。
確かに表面上、おおよそが合ってれば魔法は発動する。
だが
中身が空虚な、魔法のような形が生まれるだけだ。
そういう人間はただ魔法を使っているだけで、
探求や鍛錬をしていない。
そうすれば魔術の力はたちまち失われて行く。
国に属さず、恐ろしい力を持つ魔術師などというのはなかなか存在し得ない理由がそれだ。
サンゴールなら魔術学院の新入生でさえこの女以上の魔印を描くだろう。
「――魔術師がこんな頭の悪いことしか出来ないのか?」
メリクは氷の矢を構えた女術師を見遣る。
「俺は君達には干渉しない。
どうせこんなやり方が続くわけが無いしね……。
本当の正義の使者がいつか勝手に君達を止めてくれるだろうから、
この後のことに俺はさして興味が無い。
だからその腕を下げるなら俺も下げよう」
メリクの言葉は女術師には臆したように映ったようだった。
それもまた、真実を見抜く目から見放されている。
「私の魔法は屈強な戦士さえ仕留めるわよ」
「屈強な魔術師を仕留めたら勲章にするといい。」
女の表情が怒りに燃えた。
「女は人を殺せないとでも思った⁉」
思ってないよ。
思うわけが無い。
魔術師は魔法を会得した瞬間から、いつでも人を殺せる。
女が氷の矢を放つ。
詠唱の無い魔法だ。
それは熟練の術師の証。
だがやはり女のそれは違った。
ただの怠惰だと一目でメリクは見抜いた。
子供の術師が上手く詠唱を唱えられないものと同じなのだ。
だから魔法は弱まる方向へと動く。
精霊を導く詠唱を原歌から習得しているメリクは、はっきりと女の呪文が精霊から見放されていることを感じた。
メリクの前で止まっていた二本の短剣と一本の矢がボッ! と燃え上がる。
激しい炎の一閃とそしてそれがそのまま女の術師の方へ打ち返された。
――――ドオン!
馬車を炎が突き抜ける。
メリクは自分の望むだけの物を燃やすことが出来る。
優れた術師は爪先一つほども違わず魔法を緻密に繰るべき者だと。
それも厳格な師の教えだった。
女の体は燃やさず、後ろの森も余計には燃やさず、馬車は木片残らず燃やしてやった。
中にあった大剣が宙に浮き、メリクの前に飛んで来る。
まるで呼ばれたように、静かにメリクの前に横になった。
燃え盛る炎の中、相手が何故か張った光の壁に守られながらも、これまで一度も相対したことの無い力の術師を前に、女術師は悲鳴を上げた。
彼女は魔術師が手を汚さず相手を殺められることだけは知っている。
他の動けるはずの女二人も、目の前に吹き上がる凄まじい火柱に腰を抜かして地面に座り込んでいた。
「……この剣の持ち主をどうした?」
翡翠の瞳をした魔術師が静かに問う。
「お、落とした……、崖から……」
「どこのだ?」
「そこを行った所……」
女が震えて指を指している。
余計なことを。
メリクは炎を消した。
女術師が炭の中に倒れ込む。
「死んでるかもしれないな……」
「し、死んでない! 死んでないよ!」
「何故言い切れる?」
「……、」
「死んでたら俺が君達を皆殺しにすると思ってるのかな」
フードの影に表情を陰らせたままメリクは小さく笑った。
だが女達にはその表情の方が恐怖だったのだろう。
ひいっ! と悲鳴を上げて泥の中を後ずさる。
エドアルトが例え死んでいても、別にメリクはこの女達を殺そうとも思わないし、殺したいとも思わなかった。
それはエドアルトに対しても女達に対しても強い執着がないのが理由だ。
だが殺す気はないよとそんなことを口にして安堵させてやる義理も全く無い。
「じゃあそうならないように二度と俺の前には現われないようにね」
メリクは悠々と女達の脇をすり抜けて歩き出した。
重いだけでメリクに扱えない大剣はその場に置いて行く。
余程愚かならば、まだ金目のものに執着し持って行く可能性はあったが、
魔術師に何が出来るかを正確に知っているのなら、置いて行くはずだった。
つまり、魔術師には魔力の気配が追えるのだ。
そんなものを持って行ったら、追い付かれ始末される。
それが分かっていれば手は出さない。
メリクとしては、別にどっちでも良かった。
エドアルトがこれで死んでいれば、結局のところ剣など誰が持っていようが無意味だからだ。
仮に生きていて剣を欲した場合、取り戻せる術はある。
好きにしろ。
そんな気分だ。
メリクはサンゴール王国を出てから、些細なことには拘らなくなった。
「ああ、そのナイフの女の子、多分どこぞの骨が折れてるから早く町に行って手当てした方がいいかもしれないよ」
お互い折らなくていい骨を折ったものだな、とメリクは小さく息をついた。
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