香りで見つける、私の王子様~天然令嬢、年の差の壁を越え異世界社交界を癒やす~

すぎやま よういち

第1話 小春の日常:香りとともに働くOL

小春が働く「アロマ・リーフ」は、都心にひっそりと佇む、アットホームなアロマ製品の専門店だ。大きなビルの一階にある店舗は、一歩足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のように遠ざかる。店内を彩るのは、様々なハーブや精油の優しい香りのグラデーション。木製の棚には、色とりどりのボトルが並び、アロマディフューザーから立ち上るミストが、柔らかな光を帯びて揺らめいている。

小春は、この空間が大好きだった。ここで働くまでは、自分が特別に鼻がいいとは思っていなかったけれど、ここで働き始めてから、お客様の好みにぴったりの香りを見つけたり、新商品の微妙な香りの違いを正確に嗅ぎ分けたりと、自分の鼻が意外と役に立つことに気づいた。そして、何より、香りに囲まれて仕事をするのは、心穏やかな時間だった。

朝の始まり:香りと共に目覚めるオフィス

朝九時。小春はいつも定時より少し早く出社する。店舗の鍵を開け、深呼吸を一つ。朝一番の店内の空気は、まだ誰の手も触れていない、澄んだ香りで満たされている。

「おはようございまーす!」

小春の声が、静かな店内に響く。続いて奥のバックヤードから、店長の山田さんの声が返ってくる。

「お、小春ちゃん、今日も早いね。おはよう!」

山田さんは、いつもにこやかで、アロマ・リーフの癒やしの雰囲気をそのまま体現したような、おおらかな女性だ。歳は四十代後半だろうか。白衣ではなく、いつも優しい色合いのエプロンを身につけている。

「はい! 山田さんも、おはようございます! 今朝はペパーミントの香りですね。なんだかシャキッとします!」

小春が言うと、山田さんは目を丸くした。

「あら、わかる? 朝はね、ちょっと眠気が残ってたから、今日からペパーミントにしてみたのよ。小春ちゃんは本当に鼻がいいわねぇ。いつも感心するわ。」

小春はへへっと笑う。自分では意識していないけれど、山田さんが今日どんな精油を使っているのか、お客様がどんな香りのハンドクリームを塗っているのか、すぐにわかる。それはまるで、空気中に漂う「情報」を読み取っているような感覚だった。

開店準備は、いつも山田さんと小春の二人で行う。アロマディフューザーに新しい精油をセットし、窓を開けて換気を促し、床を軽くモップがけする。小春は特に、精油の補充作業が好きだった。一つ一つのボトルから立ち上る、個性の異なる香りを胸いっぱいに吸い込むと、心が満たされるような気がした。

「小春ちゃん、このラベンダー、ちょっと香りが違うのわかる?」

山田さんが、二本のラベンダー精油のボトルを差し出す。一見同じように見えるが、小春は迷わず一本を選び取った。

「はい! こっちのラベンダーは、少しだけ甘い香りがしますね。もう一つは、もう少しスッキリとしたハーブの香り、かな?」

「そうそう! よくわかったわね。これはね、産地の違いなのよ。流石ね、小春ちゃんは本当に嗅ぎ分けのプロよ。」

山田さんの言葉に、小春は少し照れくさそうに笑った。自分では「普通」の範囲だと思っているけれど、周りの人はいつも驚く。この「普通」が、もしかしたら他の人とは違うのかもしれない、と薄々感じ始めていた。

お客様との対話:香りが紡ぐ物語

午前十時、開店。開店と同時に、今日もお客様が吸い寄せられるように来店する。アロマ・リーフのお客様は、年齢層も目的も様々だ。

「あら、新しいディフューザーかしら?」

最初のお客様は、いつも明るい笑顔の佐藤さんだ。五十代くらいの女性で、常に優しいフローラル系の香りを身につけている。小春は、彼女の今日の香りが、普段よりも少し「不安」の香りを帯びていることに気づいた。

「佐藤さん、おはようございます! はい、新しいデザインのものが入荷しましたよ。今日は何かお探しですか?」

小春は笑顔で迎える。

「そうなの。実は最近、ちょっと眠りが浅くてね。何か安眠できるような香りはないかしら?」

佐藤さんの言葉に、小春は確信した。やはり、不安の香りは、眠れないことによるものだったのだ。

「でしたら、いくつかおすすめです。やはり定番のラベンダーは人気が高いですが、最近ですと、少しウッディな香りのサンダルウッドも、心を落ち着かせると好評ですよ。」

小春は、佐藤さんの手の甲に、それぞれの香りを少量ずつ試してもらう。佐藤さんは目を閉じ、香りをゆっくりと吸い込んだ。

「うーん、どっちもいい香りね。でも、ラベンダーは少し甘すぎるかしら…。もう少し、心が落ち着くような、すっきりした香りが欲しいのだけど…。」

佐藤さんの言葉と、彼女の体から立ち上る「ざわつき」の香りを感じ取り、小春はひらめいた。

「でしたら、カモミール・ローマンはいかがでしょうか? ラベンダーよりも少し甘さが控えめで、心を深く癒やしてくれる香りなんですよ。まるで、お母さんに抱きしめられているような、優しい安心感が得られるとお客様からはよく言われます。」

小春は、カモミール・ローマンのボトルを差し出す。佐藤さんはそれを嗅ぐと、ふっと息を吐き出し、目元が緩んだ。

「あら、本当に。この香り、なんだか懐かしいような、心が安らぐような香りがするわね…。そう、私が求めていたのはこれだわ!」

佐藤さんの周りに漂っていた「不安」の香りが、少しだけ「安堵」の香りに変わったのを、小春は確かに感じ取った。

「ありがとうございます、小春ちゃん! あなたに相談して本当に良かったわ。」

佐藤さんは笑顔でボトルを購入し、店を後にした。小春は、お客様の不安が少しでも和らいだことに、小さな喜びを感じた。

午後の賑わい:香りの交差点

午後になると、来店するお客様の数も増え、店内はより賑やかになる。様々な香りが混じり合い、小春の鼻は常にフル稼働だ。

「あの、すみません。彼女へのプレゼントを探していて…。」

二十代後半くらいの男性客、田中さんが、少し困ったような顔で小春に話しかけてきた。彼の体からは「緊張」と、かすかに「甘い期待」の香りがする。

「彼女さんへのプレゼントですね! どのような香りがお好みですか? 普段、香水などはつけられますか?」

小春が尋ねると、田中さんは首を傾げる。

「それがよくわからなくて…。彼女、あんまりキツい香りは好きじゃないみたいで。でも、僕が一緒にいると、いつもすごくいい匂いがするんです。」

小春は、田中さんの言葉に思わず笑みをこぼした。彼の彼女がどんな香りをまとっているのか、田中さん自身も気づかないほどの、自然な香り。小春にはそれがはっきりとわかった。甘すぎず、清潔感があり、それでいてどこか心を落ち着かせる、そんな香り。

「なるほど…。でしたら、彼女さんは、普段からご自身を包み込むような、ナチュラルな香りを好まれるのかもしれませんね。例えば、ネロリやゼラニウムのような、少しグリーンがかったフローラル系の香りはいかがでしょうか? どちらも、心を穏やかにし、前向きな気持ちにしてくれる香りとして人気ですよ。」

小春は、それぞれの香りの特徴を説明し、田中さんに試してもらう。田中さんは、真剣な表情で香りを嗅ぎ比べた。

「ああ、これだ! ネロリの香り、まさに彼女のイメージにぴったりです! ありがとうございます、助かりました!」

田中さんの顔から「緊張」の香りが消え、「喜び」の香りが立ち上る。小春は、自分の鼻が、人の役に立てることに改めて喜びを感じた。

休憩時間:香りの自己診断

午後の休憩時間。小春はバックヤードで、自分の今日の香りを意識してみる。今日一日、様々な香りに触れてきたためか、自分の体から発せられる香りは、少しだけ混じり合っているように感じた。

(うーん、なんだかちょっと疲れてるのかな? ペパーミントと、カモミールの香りが混じってる…)

小春は、自分の体が自然と、朝に嗅いだペパーミントのシャキッとした香りと、佐藤さんにおすすめしたカモミールのリラックスできる香りを求めているのを感じた。

「小春ちゃん、今日もお疲れ様。元気?」

山田さんが、温かいハーブティーを持ってきてくれた。

「はい、山田さん! ありがとうございます。ちょっとだけ、香りに酔ったかな、って感じです。」

「ふふ、無理もないわね。小春ちゃんの鼻は、きっと私たちにはわからないものを感じ取ってるのよ。休憩中に、このベルガモットの香りを嗅いでごらんなさい。気分がリフレッシュされるわよ。」

山田さんは、小春にベルガモットの精油ボトルを手渡した。小春は深呼吸してその香りを吸い込んだ。爽やかで、ほんのり甘い柑橘系の香りが、頭の中のモヤモヤを吹き飛ばしてくれるようだった。

(あれ? 私の体から、ちょっとだけ「期待」の香りがする…?)

小春は、ふと自分の体から、かすかな、そして甘い「期待」の香りが立ち上っていることに気づいた。それが何に対する期待なのか、はっきりとはわからない。けれど、その香りは、心地よく、心が弾むような感覚だった。

閉店時間:今日の香りの余韻

午後七時、閉店。店内の照明を落とし、ディフューザーを止める。一日の賑わいが嘘のように静まり返った店内に、様々な香りの残滓が漂う。

「今日も一日、お疲れ様、小春ちゃん。」

山田さんが、優しく声をかける。

「お疲れ様でした、山田さん!」

小春は、今日の出来事を思い返しながら、ゆっくりと店を出る。佐藤さんの「安堵」の香り、田中さんの「喜び」の香り、そして自分の体から感じた「期待」の香り。

(明日も、たくさんの香りに会えるかな。どんな香りに出会えるんだろう?)

夜空を見上げながら、小春は胸の中で小さく呟いた。自分のこの「鼻の良さ」が、ただの得意技ではなく、もしかしたらもっと特別なものなのかもしれない、と漠然と感じながら。そして、その「特別な何か」が、明日、どんな新しい香り、どんな新しい出会いを運んでくるのか、かすかな期待に胸を膨らませていた。


異世界への扉:香りに誘われて

その日、6月の福岡は、まるで梅雨を忘れたかのような、からりとした晴天に恵まれていた。日差しは強く、アスファルトの照り返しが目に眩しい。小春は、定時で仕事を終え、いつものようにオフィス街を抜けて最寄りの駅へと向かっていた。今日の仕事も滞りなく終わり、気分は軽やかだ。足取りも自然と弾む。

(ああ、喉渇いたな〜。コンビニでアイスでも買っちゃおうかな!)

そんなことを考えながら歩いていると、ふと、鼻腔をくすぐる奇妙な香りに足を止めた。それは、今まで嗅いだことのない、形容しがたい香りだった。

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