強くなくても
夜が明けた。けれど、私は目を開けることができなかった。
体が、鉛のように重い。
頭の奥がじんじんと熱を持ち、喉はひりつくほど乾いているのに、息をするだけで胸の内がざらつく。寒さと熱のせめぎあいに体温が振り回されて、腕一本すら、思うように動かせなかった。
「……あらら。こりゃ、やっぱりね」
不意に扉が開き、聞き慣れた足音が近づいてくる。その気配だけで、心がわずかに安らいだ。
「お嬢様、失礼しますよ。ちょっとお熱、計らせてもらいますからね……はい、やっぱり。あーあ、こんなになるまで……」
布団越しに額へ触れた手は、優しく、そしてどこか苦笑を含んでいた。重たいまぶたを、ようやくほんの少しだけ持ち上げる。
「……グレイス……」
「あいよ、おはようございます。って言いたいとこだけどね、お嬢ちゃん、これは“仕事禁止”レベルの熱だよ。おとなしく寝てなさい」
口調は軽くとも、その言葉の端々には、呆れと……それ以上の心配が滲んでいた。
——お嬢ちゃん、なんて。
そんなふうに呼ばれたのは、いつぶりだろう。
当主になってからは、グレイスでさえ「お嬢様」としか口にしなくなった。
それが今は、昔と同じ、あの頃のような口ぶりで——少しだけ皮肉を混ぜながら、私を叱ってくれている。
……やっぱり、なんだかんだで、この人は私に甘いのだ。
それが、妙に、嬉しかった。
「……平気よ。すぐ起きるわ」
そう言ったつもりだった。けれど、自分の口から出たのは、掠れた声と、思わずこぼれた咳。
自分の体が思っていたよりも限界に近かったのだと、ようやく思い知らされる。
「まったくもう。最近はちょっと調子がいいと思ったら、すぐ無茶して。お嬢ちゃんのそういうとこ、昔からなんだよねぇ」
その声音に、昔の面影が重なった。子どもの頃から見守られてきたのだと、改めて実感する。
グレイスは布団を整えながら、すっと立ち上がった。
「……あ、そうだ。フィオ!」
扉の外に声をかけると、少し間を置いて、控えめな返事が返ってきた。
「……なに?」
「ちょうどいいところに。リディア様が寝込んじまってさ、ちょっと看病頼めるかい?」
「……えっ、私が?」
その戸惑いは当然だった。けれど、グレイスは笑いながら言う。
「大丈夫、つきっきりじゃなくていいから。冷たいおしぼり取り替えたり、お水運んだり、できることをやってくれりゃあ、それで充分さ。あんた、最近よく頑張ってるし、任せても平気でしょ」
廊下の向こうで少しの沈黙があり、やがて聞こえてきたのは、ほんの小さな決意の声だった。
「……うん、やってみる」
控えめな足音が近づき、やがて扉が静かに開かれる。
まぶたの隙間から覗いた視界に、フィオの顔が現れる。
驚きと、ほんの少しの緊張。
けれど、それ以上に——
あたたかさが、そこにあった。
ほんの数日前に“嘘をつかないで”と告げたその子が、今こうして私の枕元に立ち、私の体を気遣おうとしている。
胸の奥が、思いがけず震えているのに気づいた。
この優しさに、何かが静かに満たされていくのを感じながら——私は、そっと目を閉じる。
——せめて、今は。
この優しさを、ちゃんと受け取ってもいいだろうか。
◇
時間は、ゆっくりと流れていた。
私は眠ったり目を覚ましたりを繰り返しながら、うっすらとフィオの気配を感じていた。
水の入ったコップがテーブルに置かれる音。濡れた布を絞る水音。椅子のきしむ小さな物音。
彼女がすぐ傍にいることが、なぜだか不思議だった。
体調が悪いときほど、人の気配が心に染み込むものなのだと、初めて知った気がする。
「……ありがとう、フィオ」
呟くと、フィオは少しだけ間を置いて「……うん」と返した。
それだけのやりとりが、どうしようもなく嬉しくて、私はまた目を閉じた。
◇
夢か現か分からない時間のなかで、私は父と母の面影を何度も見た。
あの穏やかな陽だまりのなかで、微笑んでいた二人の姿。
あの人たちは、私に「強くあれ」と教えた。
そして今も、私に「一人で立ちなさい」と語りかけているような気がした。
けれど——
その声が、どこか遠く、届きそうで届かない。
まるで、霧の中を手探りで進んでいるような感覚だった。声も、光も、あと少しで届くのに——指先には何ひとつ掴めない。
◇
次に目を覚ましたとき、部屋は夕暮れに染まり始めていた。
窓から差し込む淡い橙色の光が、カーテンの縁を静かに照らしている。
フィオは椅子に座り、何か小さな布をたたんでいた。あの不器用な手つきが、いつもより少しだけ丁寧に見えた。
「……フィオ」
声をかけると、彼女は小さく肩を揺らし、こちらを向いた。
「起きたの?」
「ええ、少しだけ……楽になった気がするわ」
それは、ほんのわずかな回復だった。けれど、それでも言わずにはいられなかった。
「ごめんなさいね。看病までさせてしまって」
私がそう言うと、フィオは首を振った。
「……べつに、いいよ。できること、やってるだけ」
そう言いながらも、彼女はほんの少し、視線を揺らした。私は言葉を選びながら、そっと彼女を見つめる。
「でも……あなたが無理をしてるんじゃないかと、少し気になっていて」
その言葉に、フィオはぴたりと動きを止めた。
「この前……あなたが、私に『嘘をつかないで』って言ってくれたとき、私は……」
そこまで言って、私は口を閉じた。
本当は、あのときのことを謝りたかった。傷つけたのではないかと、今も心のどこかで悔やんでいた。
けれどそれを言葉にするには、まだ勇気が足りなかった。
「……なんでもないわ。ありがとう、フィオ」
私はそう言って微笑んだ。
それを見たフィオは、なぜだか眉をひそめた。
「……また、そうやって笑うんだね」
その言葉に、私は思わず目を瞬いた。
見抜かれていた。
いつものように、何気ない顔でやり過ごせたはずなのに——彼女には、それが通じなかった。
「見てると……こっちまで、苦しくなるんだ。何もできない自分が、いやになる」
その声は、小さく震えていた。
「……だから、無理しないでって、言いたくなるの」
まっすぐな視線が、私の胸を射抜いた。
「笑ってるけど……ほんとは、痛いくせに。辛いくせに。……わたし、そういうの、もう見たくない」
フィオの声が、静かに響いた。
私は、何も返せなかった。
言葉を探そうとしたけれど、口の中に何かが詰まったようで、喉が上手く動かなかった。
彼女は、私の仮面のような笑みを見抜いていた。
こんなにも短い付き合いなのに。
「……わたし、ずっと考えてたの」
フィオが、ゆっくりと口を開いた。
「“優しさ”って、よくわかんない。でも……あなたが笑ってるとき、たまに、すごく苦しそうに見えるときがある」
その声は、どこかぎこちなく、それでもまっすぐだった。ひとつひとつの言葉が、不器用に、けれど確かに私の胸を打った。
「そういうとき……わたし、何もできないけど……」
ふと、布団の上に乗った私の手に、あたたかなものが触れた。
驚いて目をやると、それはフィオの手だった。
細くて、まだ少し震えていて、不器用なほどぎこちない。でも——確かに、私の手を包もうとしていた。
「……つらいときは、つらいって言っていいんだよ」
その一言が、胸に静かに染み込んでいく。
——そんなふうに言われたのは、いつぶりだろう。
私はずっと、「大丈夫」と言い続けてきた。
上に立つ者は、泣いてはいけない。迷ってはいけない。
そうでなければ、誰もついてこないから。
でも今、この手に触れられてはじめて、気づいてしまった。
私は、本当はずっと、誰かに「大丈夫じゃなくてもいい」と言ってほしかったのかもしれない。
誰かに「無理をしなくていい」と、そっと抱きとめてもらいたかったのかもしれない。
どうしてだろう。
ただ、それだけのことなのに、涙があふれそうになる。
「……ありがとう」
やっとの思いで、私はそう呟いた。
この一言が、こんなにも難しかったなんて。
けれど今は、ようやく、素直に言えた。
たったひとりに、心から——ありがとう、と。
フィオは何も言わなかった。ただ、私の手を離さず、そっと寄り添ってくれていた。そのぬくもりが、私の張りつめていた心を、じんわりと溶かしていくのがわかった。
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
その音が、なぜだかとても静かで、あたたかく感じられた。
——ああ、きっと私は、ようやく少しだけ、救われたのだ。
この手が、私の孤独を溶かしてくれる気がした。
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