第3話
味なんて、しなかった。
スパイシーな香りが鼻をくすぐり、舌の上では確かにカレーの味がするはずなのに、僕の脳はそれを味として認識することを拒絶していた。まるで分厚いゴムの膜を一枚隔てているかのように、全ての感覚が鈍く、遠い。
目の前では、クラスメイトたちが「うめー!」「これ作ったの誰? 天才じゃん!」とはしゃいでいる。陽太も、「だろ? 俺の火加減が絶妙だったからな!」なんて言いながら、満面の笑みでカレーをかき込んでいた。
その光景が、ひどく歪んで見えた。
この中の何人が、今浮かべている笑顔のまま、朝日を拝むことができるだろうか。
一度目のループでは、半分以上が夜の森で死んだ。
二度目のループでは、僕が引き起こしたパニックのせいで、ロッジ内で将棋倒しが起き、逃げ遅れた者たちが一網打尽にされた。
三度目のループでは、単独行動した僕が早々に殺された後、おそらく全員がじわじわと狩られていったはずだ。
そして、四度目の今回。
“あれ”は、僕のこれまでの行動をすべて学習している。きっと、過去三回とは比べ物にならないほど、効率的で、残忍な方法で僕らを襲うだろう。
その上、僕の隣には、最大の味方であるはずの親友の腕に、“あれ”と同じ痣が刻まれているという、最悪の爆弾まで転がっている。
スプーンを持つ手が、微かに震えた。
食べなければ怪しまれる。僕は砂を噛むような思いで、無味のカレーを喉の奥へと無理やり流し込んだ。
食事が終わると、後片付けが始まった。
男子は飯盒や鍋を洗い、女子は食器を片付ける。ここでも陽太は中心だった。汚れた鍋を率先して洗いながら、女子と軽口を叩き合っている。そのコミュニケーション能力の高さが、今はひどく空々しく見えた。
僕は、陽太から目を離さないようにしながら、黙々と自分の仕事に徹した。彼の一挙手一投足が、何か特別な意味を持っているように思えてならなかった。他の生徒と笑い合う声も、鍋をこする腕の動きも、その全てが僕を欺くための計算された演技なのではないか、と。
やがて片付けが終わり、あたりは急速に夕闇に包まれ始めていた。ヒグラシの鳴き声が、森の奥から寂しく響いてくる。
「よーし、じゃあ肝試しまで自由時間とする! ロッジに戻って休憩するなり、広場で遊ぶなり、常識の範囲で行動しろよ! ただし、森には絶対に入るな! いいな!」
田中先生の号令が、僕の行動開始のゴングとなった。
自由時間。惨劇が始まるまでの、僅かな猶予。
この時間で、やるべきことがある。
目的は二つ。
一つ、陽太のカバンの中身を調べること。
二つ、早乙女さんが言っていた「土着の呪い」の手がかりを、この合宿所内で探すこと。
「なあ、陽太」
ロッジの部屋に戻る道すがら、僕は陽太に声をかけた。
「ん? なんだよ、湊」
振り返った陽太の表情は、いつも通りだ。
「さっき、田中先生がお前のこと探してたぞ。なんか、サッカー部のことで話があるとか言ってた」
我ながら、ベタな嘘だと思った。だが、今の僕にはこれくらいしか思いつかない。
「え、マジで? 田中が? めんどくせーな……」
陽太はあからさまに嫌な顔をしたが、体育教師の呼び出しを無視するという選択肢はないらしい。「ちょっと行ってくるわ」と言い残し、職員用のコテージの方へと向かっていった。
よし。
僕は、心の中で短く叫ぶと、足早に僕らの部屋へと向かった。
***
木の匂いとカビの匂いが混じる、八人部屋。
二段ベッドが並ぶだけの殺風景な空間に、僕の荒い呼吸だけが響く。心臓が、肋骨の内側で暴れていた。親友の荷物を漁るという罪悪感と、何かが見つかるかもしれないという期待、そして、見つかってはならないものを見つけてしまうかもしれないという恐怖。それらがごちゃ混ぜになって、僕の思考を麻痺させる。
時間がない。陽太が戻ってくる前に、やり遂げなければ。
僕は陽太のベッドに駆け寄り、足元に置かれた大きなスポーツバッグに手をかけた。ひんやりとしたナイロンの感触が、汗ばんだ手に不快だった。
ジッパーを開ける。
中には、サッカー部のジャージ、着替えのTシャツ、タオル、洗面用具。そして、部活で使うであろうテーピングやサポーター。
どこを探しても、ごく普通の高校生の、ありふれた持ち物しか出てこない。
「……ないのか? 何も……」
焦りが募る。田中先生が嘘に気づいて、陽太がすぐに戻ってくるかもしれない。
僕はバッグの底まで手を突っ込み、がむしゃらにかき回した。
その時、指先に、何か硬いものが触れた。
布やビニールとは明らかに違う、ざらりとした感触。
バッグの裏地に縫い付けられた、小さな内ポケット。その中に、それは隠されていた。
僕は慎重に、それを指でつまんで引きずり出す。
現れたのは、古びた木片だった。
手のひらに収まるくらいの、小さな板。表面は黒ずみ、角は丸くすり減っている。長い間、誰かが大切に持っていたことが窺えた。
「これ、は……」
それは、お守りのようだった。
板の上部には、紐を通すための小さな穴が開いている。
そして、その中央には。
「……この模様……」
ナイフか何かで、文様が彫り込まれていた。
それは、陽太の腕にあった、あの黒い痣の模様と酷似していた。
だが、完全には一致しない。どこか違う。痣の模様が禍々しく、冒涜的な印象を与えるのに対し、この木片の文様は、もっと古拙で、神聖さすら感じさせた。
これは、なんだ?
陽太は、なんでこんなものを隠し持っている?
このお守りは、あの痣とどういう関係があるんだ?
疑問が頭の中を駆け巡る。
その時、ロッジの廊下をギシギシと軋ませながら、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
陽太だ。
僕は、心臓が喉から飛び出しそうになるのを感じながら、慌てて木のお守りを内ポケットにねじ込み、ジッパーを閉めた。そして、何食わぬ顔で自分のベッドに腰掛け、スマホをいじるふりをする。
ガチャリ、とドアが開いた。
「いねーじゃんかよ、田中。湊、お前だましたな?」
陽太が、呆れたような顔で立っていた。
「ああ、そうか? 見間違えたかな。悪い悪い」
僕は、できるだけ軽く返す。声が震えていないだろうか。
「ったく、紛らわしいことすんなよな」
陽太はそう言いながらも、別に本気で怒っている様子はなかった。彼は自分のベッドにどかりと腰を下ろし、スマホでゲームを始めた。
僕は、平静を装いながら、横目で彼を盗み見る。
お前は、一体何なんだ?
あの痣は。このお守りは。
お前は、僕らを襲う側なのか? それとも、何かから僕らを守ろうとしているのか?
分からなかった。親友の横顔が、今は分厚い仮面のように見えた。
***
陽太のカバンから得た「お守り」という新たな謎。
僕は混乱した頭を抱えたまま、部屋をそっと抜け出した。次の目的を果たすためだ。
早乙女さんが言っていた「土着の呪い」。その手がかりが、この合宿所のどこかにあるかもしれない。
狙うは、ロッジの一階にある管理人室だ。
古い合宿所なら、過去の資料や地域の郷土史なんかが、無造作に置かれている可能性がある。
幸い、ロッジの廊下には誰の姿もなかった。みんな、部屋で休んでいるか、外の広場で騒いでいるのだろう。
僕は息を殺して階段を下り、管理人室の前に立った。
古びた木製のドア。ノブは真鍮製で、黒く変色している。
ノブに手をかけ、ゆっくりと回す。
だが、ガチリ、と硬い感触が伝わるだけだった。
鍵がかかっている。
「……だよな」
そんなに上手くいくはずがない。どうする。窓から入れないか?
僕がドアの周りをうろつき、侵入経路を探していた、その時だった。
「――高槻くん」
背後から、鈴の鳴るような、静かな声がかかった。
僕は、悪事を見つかった子供のように、全身を硬直させて振り返る。
そこに立っていたのは、保健委員の早乙女静さんだった。
「ここで、何をしているの?」
彼女は、分厚いハードカバーの本を胸に抱え、眼鏡の奥から僕をじっと見つめていた。その瞳は、ただの好奇心ではない。全てを見透かすような、鋭い光を宿している。
「いや、その……ちょっと、トイレの場所を探してて」
我ながら、苦しすぎる言い訳だ。トイレは廊下の突き当たりにデカデカと看板が出ている。
案の定、早乙女さんは眉一つ動かさなかった。
「嘘は、あまり上手じゃないのね」
彼女は静かにそう言うと、一歩、僕に近づいた。
「あなた、何かを知っている。そうでしょう?」
「……何のことだか」
「バスの中から、ずっと様子がおかしかった。相川くんを、異常なほど警戒している。さっきの、私のところに来た時の質問も、ただの都市伝説への興味とは思えない。あなたは、この合宿で“何か”が起こることを、知っているんじゃない?」
核心を突かれて、言葉に詰まる。
この人は、なんでそこまで。ただの保健委員じゃないのか?
僕が黙っていると、彼女はふっと息を吐き、意外な言葉を口にした。
「私も、同じだから」
「え……?」
「私も、この合宿所に、何か良くないものがいると感じている。だから、調べていたの。あなたと同じようにね」
そう言って、彼女は僕の横を通り過ぎ、管理人室のドアの前に立った。
「あなたも、ここに入りたかったんでしょう?」
彼女はそう言うと、胸に抱えていた本の間から、細長い金属片をすっと抜き取った。それは、どう見てもヘアピンやクリップの類ではなかった。先端が特殊な形に加工された、いわゆるピッキングツールと呼ばれるものに酷似している。
「それ……」
「本の栞代わりよ。海外のミステリー小説を読んでいたら、興味が湧いて、つい」
彼女は悪びれもせずにそう言うと、慣れた手つきで鍵穴に金属片を差し込み、数秒ほどいじった。
カチャリ、と。
驚くほど小さな音を立てて、管理人室のドアの鍵が開いた。
「さあ、入って。時間がないわ」
彼女は、僕を手招きする。
僕は、呆然としながらも、彼女に続いた。
保健委員、早乙女静。彼女もまた、僕の知らない顔を隠し持っていた。
予期せぬ形で、僕は、初めての協力者を得たのかもしれない。
***
管理人室の中は、古い紙とインクの匂いで満ちていた。
壁際には、スチール製の本棚がずらりと並び、分厚いファイルや黒い表紙のアルバムで埋め尽くされている。部屋の中央には、埃をかぶった大きな事務机が一つ。
「手分けして探しましょう。何か、この土地の歴史や、過去の合宿で起きた事件に関する記述がないか」
早乙女さんは、テキパキと指示を出す。僕は頷き、本棚の一角を受け持つことにした。
ファイルには、「備品管理台帳」「施設利用申請書」など、事務的な書類がほとんどだった。めくってもめくっても、有益な情報は出てこない。
僕は、ターゲットをアルバムに切り替えた。
何冊もあるアルバムを、一冊ずつ手に取っていく。
『平成〇年度 夏期合宿』
『平成×年度 夏期合宿』
ページをめくると、そこに写っているのは、僕らと同じように、少し時代遅れの髪型や服装をした高校生たちの、楽しそうな笑顔だった。カレーを作ってはしゃぎ、キャンプファイヤーを囲んで笑い合っている。どの年も、平和そのものに見えた。
「――おかしいわ」
その時、部屋の反対側で郷土史らしき資料を調べていた早乙女さんが、小さく呟いた。
「何かあったのか?」
「この合宿所が建てられたのは、昭和の後期。それ以来、毎年のように利用されている記録があるのに……妙な空白期間がある」
「空白期間?」
「ええ。今から、ちょうど十五年前。その年だけ、合宿が行われた記録が、公式な書類から完全に抹消されているの。まるで、初めから“なかったこと”にされているみたいに」
十五年前。
その言葉に、僕はハッとして、手にしていたアルバムの背表紙を確認する。
まさに、十五年前のアルバムだった。
僕は、ゴクリと唾を飲み込み、その分厚いアルバムのページをめくっていった。
序盤のページは、他の年と同じだった。バスで到着した生徒たち。開会式。楽しそうなカレー作りの風景。
だが、最後のページに近づくにつれて、違和感が大きくなっていく。
生徒たちの笑顔が、どこか引きつっているように見える。何人かの生徒は、明らかに怯えたような表情でカメラに写っていた。
そして、最後のページ。
キャンプファイヤーを囲んで、全員で撮ったはずの集合写真。
そのページだけが、根本から綺麗に破り取られて、なくなっていた。
「……これ」
僕がそのページを指さすと、早乙女さんも息をのんだ。
「間違いなく、何かあったのね。十五年前に、ここで」
彼女が、さらに古い資料をめくっていく。羊皮紙のように変色した、手書きの地図と古文書のようなものを見つけ出した。
「見て、高槻くん」
彼女が指さす先には、この合宿所の見取り図らしき地図が描かれていた。そして、僕らが禁じられている森の奥深く。そこに、赤いインクで、一つの印がつけられている。
『禁足地・古キ社』
と、書かれていた。
そして、その横の古文書には、かろうじて読める筆跡で、こう記されていた。
『此ノ土地ニハ、古ヨリ山ノ神鎮座ス。山神ハ訪レル者ヲ試シ、清キ心ニハ加護ヲ、穢レタ心ニハ災禍ヲモタラスト云ウ。山神ノ印ヲ持ツ者ハ、神ノ代行者トナリテ、試練ヲ司ル……』
――山神の、印。
――神の、代行者。
僕の頭の中で、陽太のカバンから見つけた、あの木のお守りがフラッシュバックする。
あれは、「山神の印」なのか?
だとしたら、陽太は……「代行者」?
僕らに、試練を与える側……?
背筋が、急速に冷えていく。
陽太が敵である可能性が、ただの疑念から、現実味を帯びた仮説へと変わっていく。
その、瞬間だった。
「おーい! 肝試しの時間だぞー! こんなとこに隠れてないで、さっさと広場に集まれー!」
管理人室の外から、田中先生のメガホンを通した大声と、複数の生徒たちの足音が響いてきた。
まずい。見つかる。
「隠して!」
早乙女さんが鋭く指示を出す。僕らは慌ててアルバムと資料を元の場所に戻し、何食わぬ顔で管理人室から滑り出した。
「お前ら、こんな所で何してたんだ!」
田中先生に睨まれるが、「ちょっと涼んでました」と早乙女さんが冷静に答えると、それ以上は追及されなかった。
僕らは、他の生徒たちに混じって、夜の闇が支配する広場へと強制的に連れていかれた。
広場には、クラス全員が、不安と期待が入り混じった表情で集まっている。
最悪だ。
攻略の糸口が、喉元まで見えかかっていたのに。
陽太の謎、十五年前の事件、森の奥の社。これらを調べる時間が、ない。
このまま、何も準備ができないまま、最も危険なイベントに突入してしまう。
混乱する僕の視線の先。
人垣の中に、陽太の姿を見つけた。
彼が、ふとこちらを振り返った。
暗闇の中で、僕らの視線が、一瞬だけ交差する。
陽太の口元が、ほんの僅かに、緩んだように見えた。
それは、いつもの人懐っこい笑顔じゃない。
もっと別の、僕の知らない種類の微笑み。
あれは、なんだ?
僕に何かを伝えようとしているのか?
それとも、これから始まる“試練”を前にした、代行者の、宣告なのか。
僕には、もう何も分からなかった。
ただ、四度目の絶望が、すぐそこまで迫っていることだけを、確信していた。
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