第17話 告解の寝台
ようやく、アーデルに本当の意味での休養が訪れた。
脂肪はおろか、筋肉まで使い果たしたその身体は、無惨なほどに痩せ細り、骨盤の輪郭すら浮き出ていた。
ベッドに横たわる姿は、まるで極度の拒食症患者のようだった。
「あはは……気をつけしても、足がくっつかないや」
アーデルは、ミーナの介護のもと、ほとんど身動きもできずにいた。
腕を持ち上げるだけで疲れ、食事も自力では難しい。
チーズをたっぷり混ぜた麦
だが、奇跡的に――胃腸の働きは保たれていた。
魔法による激しい代謝にもかかわらず、血糖値は安定しており、消化も吸収も問題なかった。
(もし、あれ以上魔法を使ってたら……内臓まで、燃やしてたかも。こわ……)
生物の命の防衛本能は、時に恐ろしいまでに合理的だ。
生き延びるためなら――心臓以外のすべてを、動力源に変えてしまう。
消化管すらも、血流を削られ、タンパクを分解され、最後には自己崩壊していくことがある。
アーデルは、その一歩手前まで行っていた。
いわば、魔法という力に、身体の貯蔵資源をそっくり預けきった代償だった。
そして、それはたしかに――命をかけるという言葉の、文字どおりの意味だった。
今のアーデルにできるのは、ひたすら動かず、ひたすら食べることだけ。
これまでも、食べては寝る日々を続けてきたが――今回は、決定的に違っていた。
(えーと、ハイカロリーなものが食べられるのはいいんだけど……そう、“入れる”方は大丈夫。でも、“出す”方が、問題なんだよね。 ……
動くにも、力を込めるにも、下半身の筋力が圧倒的に足りなかった。
最終的には、ミーナの手を借りるしかなかった。
それがどれほどの屈辱だったかは、想像に難くない。
話題の渦中のヴァルト家は、村人の視線が常に集まっている。
しかも、住まいは木組みに土壁、扉はただの大麻布、窓ガラスなどあるはずもない。
プライバシーなど、あってないようなものだった。
ヴァルトが家の前に立ち、人払いをし、誰かが近づけば
その間に――ミーナと
しかも、腹筋も消耗してしまっていたため、自分の力だけでは腹圧すらかけられなかった。
結局、ミーナにお
(……もう絶対、ぜったいに魔法なんか使わない。歩けなくなるとか、そういう問題じゃない。 ていうか、腹筋なくなると、こんなに大変なんだ……! 部分痩せどころじゃないよ。部分残しの研究、必要でしょこれ……)
情けなさと羞恥と、ほんの少しの
それでもアーデルは、言葉にはせず、ミーナに支えられながら黙々と“それ”に取り組んだ。
それでも、二日目の晩には、捕まりながら立てるようになってきたのだった。
*
ある程度、身体が回復してくると、訪問者が増え始めた。
初日から何人かは顔を見せていたが、ミーナが丁重に断ってくれていた。
(弱ってるときに謝られても、許すしかないもんね。 許すけど……なんか、違う)
アーデルはそう思いながら、日々の回復に集中していた。
だが今はもう、短い会話ならできる。
訪れる人々のほとんどは、感謝と
アーデルはそれを、ひとりの“仲間”として受け取った。
気まずさも含めて、村人たちの気持ちが収まる場所を与えること――
それが、今の自分にできることだと思っていた。
その中に、レオンの姿もあった。
本来、アーデルは村の制度に属しておらず、責任を問われる側でも、裁く側でもなかった。
だからこそ、レオンはあえて「赦すかどうか」をアーデルに問わなかった。
代わりに、村の動きについてだけ、簡潔に報告を続けていた。
その報告の中で、アーデルが最も驚いたのは、“制度としての赦し”が村で正式に始まったということだった。
いわゆる、“被害者”と“加害者”を公的に向かい合わせる場――
精霊に誓う場合にはマティアスが立ち会い、教会に誓う場合にはアンドレが証人として付き添った。
「俺はただの信徒で、赦す権限なんてない」
アンドレはそう言ったが、レオンは「だからこそ必要なんだ」と押し切った。
「教義で赦すんじゃない。形式として、お前が“その場にいた”という事実が必要なんだ」
アンドレは渋々ながら、それを受け入れた。
仕組みは単純だ。
「謝罪すれば、必ず赦される」
これが、今回の“制度的赦し”の大前提だった。
もちろん、売買に使用された麦などの物資は精算・返却される。
だが、それ以上の償いを被害者が要求することは許されない。
形式をもって赦す――それが、この制度の根幹だった。
それは、アーデルとレオンがつくった“空気”、そして“犠牲の象徴”を利用した一種の圧力だった。
あの夜の魔法耕起と衰弱――誰もそれを見て異を唱えることはできなかった。
その隙を突くように、レオンは静かに制度を立ち上げた。
アーデルは、それを聞いても驚いたが、すぐに納得もした。
(制度って、ほんとに“流れ”の中で立ち上がるんだな…… あの夜……朝の熱が冷めないうちに形にする、それしかなかったんだ)
村人たちは、ひとりずつ赦し合っていった。
加害者が名乗り出て、誓い、返済し、赦される。
告白の言葉も、赦しの言葉も、ぎこちなく、乾いていた。
けれど、公に“終わったこと”と宣言する仕組みがあれば、人は前に進める。
いくら気まずくても、日々顔を合わせなければならない村では――それしかなかった。
「俺もこれが最善だとは思ってない」
レオンは静かにそう言った。
彼の顔には、どこか諦めにも似た陰が差していた。
「でも、“形”がなければ“心”は育たない。形をつくって、それを
死者が出ていたら、この方法は成立しなかった。
だが幸いにも、誰も死ななかった。
そして今、皆が制度の上で、無理やりでも前を向きはじめていた。
(ちょっと待って……“制度としての赦し”って、ルワンダの赦しの儀式じゃん。前世のパパが言ってた。虐殺の話は有名なのに、そのあとの和解のことは、あまり知られてないって――)
アーデルの記憶に、曖昧に残る父親の言葉が
テレビでもネットでも、“ルワンダ大量虐殺”は強烈に報じられた。
だが、その後の“赦し”は、ほとんど語られていなかった。
ルワンダ──ガチャチャ法廷。
一九九四年、わずか一〇〇日で八〇万人以上というジェノサイドの後、壊滅的となった国家司法を立て直すため、ルワンダ政府は伝統的な草の根裁判制度「ガチャチャ法定」を再導入した。
審理は公開の広場で行われ、加害者には自白と悔悟が求められ、被害者は証言と赦しを通じて社会的和解に関与した。国際基準から見れば、証拠調査の不備や裁定の恣意性、報復の温床といった問題もあった。
しかし、当事国としては「裁く」ことと「共に生きる」ことの折衷を迫られたのである。裁定には、カトリックやプロテスタントの聖職者が補助的に関与し、宗教的赦しが司法的和解を補完した。
また、あえて国際社会や旧宗主国の責任を問いたださず、自己決定的な統治再建を優先したことで、西側からの経済支援と投資を呼び込み、現在の急速な経済成長にもつながった。
多くのトラウマとわだかまりを残しながらも――それは、
(はー。もっと早く思い出していれば、すぐに手を打てたんじゃ。そうしたらトイレも一人でできてたかも。パパ、遅いよ。でもまた宗教か。法律だけ、道理だけじゃ対処できない時もあるってことなのかな)
ふと、アーデルはレオンの顔を見て、素直に言った。
「そっか。いい方法だねレオン。……私も、それしかないと思う。うまくいってるの?」
「気持ち悪いくらいにな」
レオンは肩をすくめる。
「最後のチャンスとばかりに、みんな次々と謝ってるよ。カスパでさえ参加してるんだぜ」
「……あの人らしいな」
アーデルは小さく笑った。
「……いつか、本当に赦せる日が来るのかな」
レオンは少しだけ目を細めた。
「俺にも、わからん」
その言葉に、アーデルはそれ以上の返答をしなかった。
ほんの短い沈黙のあと、彼女は問いを変えた。
「……レオンは、これからどうするの?」
「どうとは?」
レオンは少しだけ表情を崩す。
「もしそれが、“村の運営”についての話なら……俺は降りるつもりだよ。記録係だけはやるかもしれないけどな」
「そっか」
それ以上、アーデルは何も聞かなかった。
レオンが語らなかったこと、抱えていることの重さが、言葉の端ににじんでいた。
だから、それで十分だった。
だが、
カスパの傀儡と化し発言権を失った彼は、その暴走の責任を半ば強制的に取らされている。
村を案じ、中立であろうとしたがゆえに、流された先は小さな水たまりだった。
彼が再び尊敬を集める日は来るのだろうか。
今回は、村のあちこちを傷つけた。
回復にはどんな魔法より、時薬が必要だろう。
「制度的赦し」が真の赦しへと昇華する日を待つしかない、とアーデルは感じていた。
*
次の、珍しい来客はアンドレだった。
ミーナは戸口で応対しかけたが、アーデルが小さくうなずいて招き入れた。
「少し、席を外してくれる?」
ミーナはためらいながらも頷き、静かに部屋を出た。
彼女の中にも思い当たることはあった。
たとえば、“試みる者”のこと。あるいは、“信仰の外側に立つ者”のこと。
アンドレは部屋の中央まで進むと、片膝をついた。
祈りの姿勢にも見えたが、その目に敬意はなかった。
頬の傷と冷えた決意だけが、沈黙のなかに佇んでいた。
「お前の力は――強大だ」
その口調は告発に近かった。
「これまでお前を見てきて、確信したことがある。……確認だが、洗礼を受ける意志はあるのか?」
アンドレは見抜いていた。
アーデルがこれまで語ってきた制度理解や倫理は、教義の内側から来たものではない。
教会に対する崇敬の念――それが、まるで欠落していた。
「悪いけど、少し距離を取りたいって思ってる」
それは反抗心から来たわけではなかった。
アーデルは、教会が多くの人を支えてきたことを知っていた。ミーナも、その恩恵の中で信仰を大切にしている。
でも同時に――その教会が、誰かの自由や思いまでも縛っているように見える瞬間も、彼女は何度も目にしてきた。
だからこそ、「皆がそうだから」と流されるように信徒になることが、神に対して失礼に思えた。
それはむしろ、彼女なりの誠実な姿勢だった。軽く扱えないものだからこそ、近づかない。それだけの話だった。
アーデルのそっけない返答に、アンドレのまぶたがぴくりと動いた。
「……腑に落ちん。お前は精霊信仰のようなものにも依らず、ネソール教とも異なる。一体、何者なのだ。“バルバロイ”だけでは説明がつかん」
その言葉には、戸惑いと恐れが同居していた。
アンドレには、アーデルが魂の根拠を持たない存在――
神の秩序からも外れた、無名の異物のように思えていた。
「何者って言っても……私は私だよ」
アーデルは静かに答えた。
「神さまが嫌いなわけじゃない。お母さんは信徒だし、信徒のお母さんを尊敬してる。信仰心も、尊いものだと思ってる」
アーデルは本心で語っていた。彼女自身、未だに神さまの尻を叩きたい衝動が湧き上がる時がある。
不可解で、時に苛立たしくすらあるが、それでも人智を超えた何かとして、尊重すべき対象だった。
「ならばなぜ――」
アンドレの問いには、驚きや怒りではなく、むしろ困惑が滲んでいた。
アーデルのような行動をする者が、なぜ「神を受け入れないのか」が理解できなかったのだ。
「うん。たぶん、『入らなきゃダメ』とか『当然、信じるもの』って前提で話されるのが……ちょっと苦手なのかも」
アーデルは正直に言ったつもりだった。
信仰を否定したわけではない。だが彼女にとって、信仰とは「選び取るもの」であって、「前提とされるもの」ではなかった。
だから「入信して当然」とされる圧力が、苦手なのだ。
「では、いつ受け入れるつもりだ?」
アンドレの問いは、純粋に教義的なものだった。
信仰の「時」は神が定め、人は応えるだけ――それが彼の世界観だった。
だから、アーデルが自分のタイミングで、と語ることに、理解が追いつかない。
「扉が開いてたら、かな。背中を押されて、無理やり入れられるのは嫌なんだよ」
この言葉には、現代的な主体性の感覚があった。
アーデルにとって「信仰」は内発的な選択であり、「従属」ではなかった。
だがその感覚こそが、アンドレの価値観では“危うい自由”に映った。
アンドレは目を伏せ、しばらく沈黙した。
彼の中で、アーデルという存在が徐々に「信仰の外」に傾いていく。
それは単なる個人の拒絶ではなく、教会制度の外に“善”が存在してしまうという、制度にとっての最大の脅威だった。
「もう、これ以上は言わん」
声には、苛立ちというより、焦りがにじんでいた。
「だが――お前が“強大な魔法”を持っている事実は変わらない。それだけで、充分に危険だ」
この発言は、アンドレ個人の感情というより、教会制度全体の防衛本能を代弁していた。
信仰の外で力を持つ者は、たとえ無害であっても、いずれ必ず問題を引き起こす――それが、彼が制度の中で教えられてきた常識だった。
アーデルは肩をすくめた。
「ちょっと。好きで持ってるわけじゃないし、誰かを傷つけたこともない。悪用もしてないよ?」
それは事実だった。
けれども、その事実こそが、アンドレを最も困惑させた。
「罪を犯していない異端者」ほど、制度にとって扱いづらいものはない。
「持っていること、それ自体が――危険なのだ」
アンドレの声に、揺らぎはなかった。
教会にとって、「力」とは信仰によって正統化されてはじめて“許されるもの”だった。
その枠を超えて現れる力は、それがいかに人を救っていようとも、
制度の論理では“潜在的な背教の具現”と見なされる。
「お前の力は、抜き身の剣だ。剣は鞘に収まってこそ、法のもとに管理され、制度化される。教会とは、その“鞘”だ。信仰の名のもとに収まらぬ剣は、いずれ誰かを切る」
アンドレの言葉は、単なる比喩ではなかった。
それは彼にとって、教義そのものだった。
“剣”――力とは、無垢のままでは存在しえない。
制御されず、意味づけもされない力は、やがて秩序を脅かす。
だからこそ、人が力を持つなら、それは“鞘”に収まらねばならない。
鞘とは、制度であり、教義であり、神の秩序。
信仰の名において、それが社会の中に位置づけられたとき、はじめて力は“善”たり得る。
逆にいえば――
制度に属さぬ力は、たとえそれが人を助けようとも、
“法”の外にあり、“救い”の外にある。
アンドレにとって、教会とは正しさの尺度ではなかった。
それは「どこに属するか」の証明であり、力を持つ者を人として扱うための、唯一の“鞘”だったのだ。
アーデルは少しだけ、視線を逸らした。
「……勝手に“剣”にしないでよ」
その声には、ほんのわずか、拗ねたような響きがあった。
「それに、“剣”が悪いわけじゃない。たまたま鉄が、たまたま尖ってた。それだけのこと。人を切るのも、守るのも――使う人でしょ?」
「では問う」
アンドレは動かぬまま、視線を向けた。
「お前という“剣”は、何を切るつもりなのだ?」
アーデルは、ほんの一瞬考えた。
そして、微笑まずに言った。
「……私は、パンを切って、隣人と分ける。それだけでいい」
アーデルは、魔法発火の発端となった夜を思い出した。
自身が飢えていながらも、拾った子供にパンを与えられる両親を尊敬していた。
同時に、全てを捧げるのではなく、皆でささやかな幸福を分かち合いたいと願った。
それだけの純粋な気持ちだった。
だが、アンドレには、アーデルの答えが――禁断の教えの響きを帯びて聞こえた。
教会を介さずして神の道を説くこと。
信仰の名の下に、既存の秩序に属さずして倫理を語ること。
それは、かつて教会が異端と断じた思想”教会なき福音”と、あまりに酷似していた。
その教えは、人々が組織としての教会に頼らず、直接神の言葉を受け取るべきだと主張するものだった。
たとえそれが、分け与えるパンの話であったとしても。
彼の目に映るアーデルは、教会の統治する秩序の外に生まれ、聖なる法の庇護を受けず、それでもなおその「外部」から道徳を声高に唱えている――最も危うい兆候を帯びた存在だった。
「……分けてどうする」
アンドレの声は低かった。
それは論理でも、戒めでもなかった。
パンを切り、分け与えようとする者。
その無垢さが、かえって怖かった。
教会の外にいて、なお人々に癒しと和解をもたらすその在り方が、教義の枠を静かに揺るがしていた。
アンドレは、理解不能なものに向けて問いを放った。
答えが欲しかったわけではない。
それは、言葉にならない祈りに似た――最終的な警告だった。
異端者と呼ばれる存在に与えられる、ぎりぎりの慈悲のかたち。
「スープにつけて食べるの。ほら、ちょうどお腹空いてきたし、そろそろ終わりにしないと。これでまた痩せて死んだら、アンドレのせいにするからね」
アーデルは皮肉と冗談を混ぜて返した。
アンドレはその意図に気づいたものの、重大な議題の最中にそんなことを言うアーデルに、驚きを隠せずにいた。
決して交わらない溝を感じ、虚しさがこみ上げた。
アンドレは何も返さず、黙って立ち上がった。
その視線は、ベッドに横たわる少女の姿に釘付けになっていた。
――枯れ枝のようだ。
パンを切ろうが、鞘を持たぬ剣であることに変わりはない。
力を持ち、制度に属さず、教義を拒む者。それは教会にとって、異質であり、危険だった。
だが――この剣は、誰かを切るためではなく、
この村を救うために振るわれた。
それだけは、否定できなかった。
それは赦しではない。理解でもない。
ただ、「いまは裁けない」という判断。
教義より先に秩序があるなら、沈黙こそが最も正しい選択肢だった。
アンドレは小さく頭を下げ、無言のまま去っていった。
(ふぇー……こわ。なんであんなに入信を勧めてくるの。っていうか、あれって――ほとんど脅迫じゃん。入信しようがしまいが、私は私。……それのどこがいけないの?)
けれど――アーデルは、まだ知らなかった。
この日のやりとりが、どれほど危険な線を踏み越えていたかを。
後に彼女は知ることになる。
制度の外で力をもち、教義への帰属を拒んだ者は、”頑なな異端者”とみなされうることを。
一度なら警告で済むが、悔悟せずに再び拒めば、火刑すらあり得た。
それほどに――「信仰に入らずして正しさを語る」ことは、
この世界の教会制度において、最も深く恐れられた罪だった。
アーデルとアンドレは、最後までわかりあえなかった。
だがアンドレが彼女を訴えなかったこと、
沈黙のまま頭を下げて立ち去ったこと――
それは、彼自身のなかにある、かすかな葛藤と祈りの証だったのかもしれない。
アーデルは、自身を”迷える子羊”と考えていた。教義上の概念ではなく、ただの無害な生き物、その程度の認識で自己を定義していた。
だが、アンドレから見たアーデルは、”羊の群れの中の異形の怪物”だった。彼にとって、羊でなければ、それは怪物だったのだ。
牙の有無は重要ではない。既に怪物なのだから。
*
今度の訪問者は、少し小柄だった。
イルゼとヨハンが連れ立ってやってきた。
扉の外で躊躇していたのは、イルゼだった。
ヨハンの後ろに半身を隠しながら、部屋の中を窺っている。
赦しは得たはずだった。それでも、罪悪感はまだ残っているのだろう。
表情にも、声にも、それがにじんでいた。
「イルゼ、ヨハン。来てくれて嬉しいよ」
アーデルは身を起こし、ふたりに笑いかけた。
「いやー、さっきちょっと嫌な話に付き合わされちゃってさ」
そう言って、頭をかいた。
名指しは避けたが、誰のことかは言わずとも通じていた。
イルゼもヨハンも、小さくうなずいた。
アーデルは、もうイルゼに何かを謝ってほしいとは思っていなかった。
彼女の中に残るそのわだかまりが、少しでも軽くなれば――それでよかった。
アーデルには、イルゼの素直さが少し怖かった。
あの子はずっと、まっすぐだった。
だからこそ、危うかった。
親から教えられた身分制度に疑問も抱かず、魔法に挑戦するアーデルを憐れみの目で見た。
やがて魔法発火を目にして、今度は神の奇跡だと崇めた。
そのうち、大人たちの噂に染まり、軽蔑の色を浮かべるようになった。
――ついには、異端告発の証人にされかけていた。
イルゼは信じやすい子だった。
だからこそ、誰よりも揺れていた。
そして、アーデルはそれを、どこか不憫に思っていた。
「そうだアーデル、いよいよアニマの日は都市の大市だぜ。それまでに歩けるか?」
ヨハンは、あの日の約束を覚えていてくれた。
家で独り、次の魔法のために火床で貪り食っていたアーデルを、彼は支え、励まし、共に約束を交わしてくれたのだ。
感謝と、少しの照れくささが胸の奥で交じり合った。
ヨハンはきっと、収穫したジャガイモを一緒に食べてくれるだろう。
クレープの材料を買い揃え、共に大市を楽しむだろう。
例えクレープが今は夢物語であったとしても、彼は疑うことなくそれを目指し続けてくれる。
アーデルには、そんな安心感があった。
「そうなの。粉挽き所でね、『何を持っていこうか』って、みんな相談してたよ」
イルゼは、変わらず大人の噂話に耳をすませていた。
アーデルは、彼女の変わらぬ流されやすさに、思わず苦笑した。
「もうすぐか……。少しは歩けるようになったんだけど、まだ疲れやすくてね。お父さんに抱っこしてもらおうかな」
アーデルは、自身の身体が確かに回復していることを改めて実感した。
急速とも言える回復ぶりで、日に日に力が戻っていくのがわかる。
「俺がおんぶしてやろうか? なんたって今は軽そうだからな。麦束よりも簡単そうだ」
ヨハンは、男女のことなど意に介さず、純粋な善意からそう言った。
「うーん、行く日までに重くなっておいてあげるよ。ありがとう。でも、お父さんが心配しそうだから、お願いするならお父さんにするね。ヨハンは、また今度。……それまでに、もっと力つけといてよ」
アーデルは、見た目こそ十歳だが、その精神年齢は二十歳だった。
それが、年齢差を越えてヨハンに一歩引かせていた。
それに、一人で担いで歩けば、修道院まで一時間以上はかかるだろう。
軽くても身長はヨハンよりあるし、父親に“甘えさせてあげたい”という気持ちもあった。
だから、丁重に、けれど優しく断った。
「ヨハン、女の子を担ぐなら、ちゃんと順序ってものがあるのよ。教会の前とか、人の目のあるところはダメなんだからね?」
イルゼは、いつまでもイルゼだった。
アーデルは、信仰にせよ考えにせよ、この世界の人々を“正そう”などという傲慢な気持ちは持っていなかった。
“そういう世界なんだ”
そう思えるようになるには、今回の出来事が必要だった。
時には、受け入れと諦めも、生きる術なのだと。
「えっ……そ、そっちの意味じゃないって!」
アーデルは、くすりと笑った。
こういう、素朴で、可笑しくて、温かなやりとり。
彼女が本当に求めていたのは、きっと、こういう世界だった。
春の陽差しのように――あたたかく、穏やかな笑みだった。
*
「ヨハンー、次はその薪、横に置いてみて」
「おう、こうか?」
アーデルは、もうずいぶん自由に動けるようになっていた。
ヴァルトに頼んで広場の一角に椅子を据えてもらい、そこに座りながら、頭の中で長く暖めていた魔法の試みを一つずつ形にしていく。
手を貸すのはヨハン。
動作のたびに体を動かし、アーデルの思いつきに半歩遅れて応じる。
イルゼはといえば、相変わらずお姉さん気取りで、少し距離を取って見守っている。
干渉はしないが、視線は外さない。まるで、妹の遊びを監督する姉のようだった。
昼過ぎからずっと、三人でそんな調子だ。
最初は何事かと目を止めた大人たちも、やがてそれぞれの作業に戻っていった。
とはいえ、通りがかるたびに、ちらりと様子をうかがってはいる。
珍しい形の魔法――薪が粉を吹いて真っ二つになったり、地面が小刻みに震えたり、風が逆巻くように吹いたり。
どれも見慣れない動きで、しかもどれも小さなものだった。
誰もそれを“奇跡”とは呼ばなかった。
崇められる気配もない。
ただの子どもたちの、ちょっと変わった遊び。
――その程度のものとして、村の空気の中に溶けていった。
けれど、それこそが、アーデルの望んだ風景だった。
神でも英雄でもない、ただの一人の子どもとして。
失敗しても、笑われるだけの魔法でいられること。
何でもない日常の延長で、試せること。
その自由さこそが、彼女の願った「力のかたち」だった。
「よーし、今度は――薪割り魔法だよ」
アーデルはそう宣言すると、ひと口、チーズ粥を頬張った。
咀嚼しながら、前世のある記憶がふとよみがえる。
モーターの回転がアームに伝わり、それが前後の往復運動に変換され、静かに、ゆっくり薪を割っていく――あの動画。
父親が、なぜかよく見せてきた。
シンプルだけれど、理にかなっていて、何より仕組みがよくできている。
そういうものに、父は妙にこだわっていた。
消防車に使われる渦巻ポンプ。
トラクターの耕運機構。
薪割り機のアーム構造。
──そんなものばかり。
(……あれってもしかして、パパ、“仕組み”が好きだったんだ)
人類の英知を結集したコンピューターももちろん嫌いじゃない。
でも父がほんとうに楽しそうだったのは、「単純な論理が、確かな結果を生む」――そんな装置だった。
(理解しやすいけど、誰にでも思いつけるわけじゃない構造。たぶん、パパなりの“美学”なんだ)
そして、ふと思う。
社会制度だって、“仕組み”の一つだった。
民主主義でなぜ税金が下層に手厚く配られるのか――
それは、選挙という制度の設計が、そういう結果を出すようになっているからだ。
自然発生に見える出来事も、引いて見れば仕組みの連鎖で動いている。
ジャスミン革命も、偶然ではない。
そして、「女の髪が性的シンボルである」という仮説ですら、
人類進化の仕組みの一環として捉える視点がある。
(もしかしてパパ、ママの“仕組み”も知ろうとしてたのかな。……でも、それができなくて、離婚したんだ)
アーデルは、魔法のオーラを纏う椀を見下ろしながら、そうつぶやきそうになるのを喉の奥で止めた。
「仕組み」がわかれば、すべてが救えるわけじゃない。
でも、わからないままでいるより、よっぽどいい。
「仕組み、か……」
アーデルは、小さくつぶやいた。
この世界もまた、仕組みと制度の集積だった。
いくつもの規則と慣習が幾重にも重なり合い、まるで解けない縄のように絡みついている。
単純な独裁なんて存在しない。
誰かが誰かを支配しているように見えて、その下にも上にも、別の力が入り組んでいるだけ。
ただの秩序じゃない。構造そのものが、分厚い“世界”になっていた。
そして──この魔法すら、その構造の一部だった。
聖職者のための、奇跡の演出。
信仰を支える劇装装置。
力ではなく、権威の象徴として飼いならされた道具。
誰も、薪割りのことなんて考えなかった。
誰も、道路工事や労働の軽減に使おうとは思わなかった。
(まぁ……死にかけバッテリーのスマホじゃ、できることなんて限られてるしね)
アーデルは、わずかに笑いながら、そう自分を納得させた。
それは、どこか痛みを含んだ諦めだった。
これからのことも、考えなくてはならない。
かつて彼女は、「トラクター魔法」と呼んで、無邪気に村を耕した。
皆が幸せになると信じて疑わなかった。
けれど、結果はどうだったか。
村を巻き込み、人を縛り、制度を狂わせた。
彼女の信じた“進歩”は、誰かを自由にするどころか、反対に檻を作ってしまった。
まるで、未開の部族に衛星通信可能なスマホを放り込むようなものだった。
前世の父が話してくれたことがある。
都市の慈善家が良かれと行った結果、いくつもの部族が混乱し、文化が壊れ、争いと絶望だけが残ったと。
ピダハンですら危うかった。彼らは伝統を重んじ、当時の近代技術を拒絶した。
だが、今スマホを持ち込んだら、それを拒絶できるだろうか。
無限の映像コンテンツだけでも彼らにとって暴力だ。
進歩は、いつも幸福を連れてくるとは限らない。
時にそれは、ただ壊すだけだ。
ならば――アーデルが今やっている魔法実験は、一体なんのため、誰のためであろうか。
神の奇跡が道具になった瞬間、何が変わるのだろうか。
「アーデル、もう魔法を出すの疲れたか?」
だが、それでも、アーデルは辞めることを止められなかった。
「ヨハン、うん、ちょっとね……。これだけ割ったら今日は終わりにする。見ててよー」
アーデルは、そう言って立ち上がった。
まるで、儀式の最後の所作のように、ゆっくりと両手を前に出す。
頭の中では、前世の記憶から取り出したシンプルなアーム構造を描いていく。
往復運動、支点、摩擦の逃し。
理屈に合った力の流れ。
ただの機械。
ただの、仕組み。
次の瞬間、薪の中央にパキンと音が走り、メキメキという繊維の崩れる音とともに、それはきれいに割れた。
魔法という名の――薪割り機。
神ではなく、制度でもなく、ただ彼女の手が選んだ、一つの合理。
前回の助祭の巡察から、そろそろ一月が経つ。
村長は再び、村人たちに「整え」を命じた。
祈祷棚の飾りは外され、精霊の像は布に包まれる。
代わりに教会の聖句札が壁に掛けられていく。
この儀式のような準備もまた、アーデルが望んだ「日常」の一部になろうとしていた。
「狂乱の宴」の危機に晒された領主のリンゴも、間もなく収穫時期を迎える。
全てが元通りになるよう、人々は懸命に努力していた。
(これが終わったら、大市かぁ。はじめての村の外だ。楽しみだな……特に吟遊詩人、絶対外せないよね)
彼女は胸の内でそうつぶやいた。
目の前の「整え」の風景は、終わりではなく、「次」へと続いているように思えてならなかった。
だが、アーデルが吟遊詩人に出会うことはなかった。
修道院の大市のざわめきも、その目に映ることはなかった。
日常がようやく手に入りかけたそのとき、彼女は別の物語へと連れ去られていくのだった。
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