私の魔法が甘すぎる!──異世界中世における再配分秩序と重層支配構造の制度SF的考察

@ussy_cat

第一部 リヴィナ村編:魔法と分配の制度誌――共有的経済圏における利便資源の制度化と重層的吸収構造

村と魔法

第1話 異世界転生

本作はフィクションであり、特定の宗教、団体、文化をおとしめる意図は一切ありません。作中に登場する信仰、制度、文化的対立は、架空の文明における過渡期を描いたものであり、現実の宗教や歴史と直接の関係を持つものではありません。


本作は、「人は常にその時代、その立場で最善を尽くしている」という前提を大切にしています。時に異なる価値観が衝突しながらも、人はそれぞれの信じるものをどころに生きている──その姿を描くことが、この物語の主題です。


主人公アーデルは「信仰を持たない者」として描かれますが、信仰心そのものを否定する立場にはありません。彼女が拒むのは、信仰の制度化や、信じることを強制する仕組みです。祈る人々の心には深い敬意を抱き、彼らの信仰を否定する言動や啓蒙けいもうを行うことはありません。


彼女が対峙たいじするのは、人々を縛り、傷つける手段として用いられる『神の名』であって、心の支えとしての神性ではありません。アーデルは、隣人の中に宿る神の存在を確かに感じており、だからこそ、その神を誰よりも深く傷つけぬようにと願っています。


また、作中には、前世の知識や『技術の魔法』といった科学的な思考が、信仰と並行して存在します。これらは、異なる角度から世界を理解しようとする人間の営みを描くものであり、どちらか一方を優位に立たせる意図はありません。むしろ、両者が互いに影響し合い、新たな可能性を生み出す過程が描かれています。


この物語は、時に胸を締め付けられるような困難を描きながらも、人が互いに理解し、支え合うことによって見出す希望と再生の物語でもあります。登場人物たちがそれぞれの光を見出し、未来を切り開いていく姿を、どうぞ最後まで見守ってください。



リヴィナ村編:魔法と分配の制度誌――共有的経済圏における利便資源の制度化と重層的吸収構造



──水の音がする。


ぽと、ぽと、と、何かが滴る音。


湿った空気。冷えた指先。


まぶたが重く、意識がかすみのように揺れていた。


「気がついた? ……これ飲めるかしら?」


かすれた声とともに、唇に何かが触れた。

手彫りの木椀もくわんだった。削り跡が不揃ふぞろいで、縁は少し焦げていた。

かすかに薬草のような匂いがして、奇妙な味の水が唇をらす。


「……よかった。飲めたのね」


目を開けると、年老いた女と男が並んで座っていた。


女はくすんだ麻のローブに身を包み、頭には布を巻いていた。

薬草のような香りがかすかに漂い、彼女はほっと息をついた。


男は粗い毛織の上着を着て、袖を縄でくくっていた。

すすけた腕を組み、じっとこちらを見つめている。


今いる場所は、低い天井と、煤に黒ずんだはり

壁は土と木を交互に積んだような造りで、床は固く踏みしめられた土だった。


少女は、壁際の寝台に寝かされていた。

木の枠には刈り終えた麦藁むぎわらが詰められ、その上に色あせた麻布がかけられていた。

布は湿り気を含み、汗と薬草の匂いがしみついている。


煤けた梁の下、石を積んだ火床が家の中心に眠っている。灰にうずもれた熾火おきびが、ときおり赤く息をついた。

窓にはガラスがなく、木枠の隙間から冷たい風が吹きこんでくる。


(えー? ここどこ? 確か森を出てすぐに村があって、そこで・・・倒れたんだっけ?)


少女は呆然ぼうぜんとした。

視線を窓へ向けると、そこには顔を寄せる人々がいた。

老婆。青年。小さな子どもまで。

みな大麻布の粗衣をまとい、無遠慮な視線を向けていた。

少女が身じろぎすると、衣擦きぬずれの音とともに、女がそっと身体を寄せた。


「無理しないで。まだ、寝ていたほうがいいわ」


ミーナの声は穏やかで、しかしその底には、病人を案じる優しさが感じられた。

彼女は身を乗り出し、ゆっくりと少女に話しかける。


「わたしはミーナ。村の薬草を煎じてる者よ。そしてこっちは……」


「ヴァルトだ。大工みたいなもんでね。私たちは夫婦でここで暮らしている」


ヴァルトの声は低く、乾いていたが、妙に落ち着いた響きを持っており、少女を安心させるようだった。

彼の腕はたくし上げられ、煤けた肌は労働の跡を物語っている。


二人ふたりの顔を見ながら、少女は大きく息をついた。


(いやー、青信号で横断歩道渡ってたらトラックに轢かれちゃって。どこかに私のスマホ落ちてないですか? あと、ここキャンプ場じゃないですよね!あははは……言えないよね……)


彼女の頭の中では、前世の記憶と、目の前の異様な状況が交錯していた。


「……わたし……」


(状況が全然わからない。どこまで言えばいいの? 空気読まないと白ける……ってレベルじゃないよ)


目を開けば、粗末な木と土の壁、煤けた梁、そして踏み固められた土の床が見える。

窓の外からは、見慣れない顔ぶれの村人が無遠慮ぶえんりよな視線を向けていた。すべてが、彼女の知る「現実」とはかけ離れている。


少女は、わずかに目を伏せた。彼女の直感が、安易に真実を話すべきではないと告げていた。


「記憶が……ありません。何も……覚えてなくて……」


(ごめんさい。ここは保留させて!。明かせるようになったら言うから!)


ミーナが顔を曇らせた。その優しい瞳に、困惑と僅かな不安がよぎる。


「そう……じゃあ、名前も?」


少女は、ほんのわずかに逡巡しゅんじゅんした後、首を横に振った。


(ウソついてゴメンなさい。でも本当のこと話してもおかしいと思われる!)


ヴァルトが眉を寄せる。彼の低い声に、いぶかしげな響きが混じる。


「どこから来たのかも……か?」


「……森の中に洞窟があって、そこにいたんです。……気がついたら……一人で」


(やっと本当のこと言えた。お願い、何が起こったか誰か教えて!)


沈黙が落ちた。重い空気が部屋へやを満たす。

数秒後、外にいた村人の間にざわめきが走った。好奇心と、かすかな畏れが入り混じった声が聞こえる。


「洞窟だと……」「あの岩窟か?」「じゃあ返り子なのか?」


窓の外にいる村長むらおさハルトムートが、そのざわめきを鎮めるように声をかけた。

彼の声には、長としての威厳と、状況を掌握しようとする冷静さが感じられた。


「すまん、誰か何人かで見に行ってきてくれ。何かあるかもしれん」


背の高い青年の一人がうなずき、迷うことなく駆け出していった。

土を踏みしめる木靴の足音が遠ざかるにつれて、再び部屋には重苦しい沈黙が戻った。


ミーナはそっと少女の手を取り、安心させるように微笑んだ。

その手の温かさが、少女の心をわずかに解きほぐす。


「大丈夫。何も思い出せなくても……ここにいられるわ」


ミーナの言葉は、まるで揺れる心を包み込む毛布のようだった。

見知らぬ世界にたった一人で放り出された少女にとって、その言葉はどれほどの救いになっただろう。


少女は答えなかった。ただ、深く息を整えようとしていた。


(ミーナさん、ありがとう。って、言ったほうがいいじゃん)


「ミーナさん、ありがとうございます」


少し間をおいて、ミーナは何か思いついたように顔を上げた。


「そう、名前がわからないの。じゃあ、”アーデル”って呼んでいいかしら。あなたが思い出すまでの間だけ」


その瞬間、外の村人たちが再びざわついた。

今度のざわめきには、驚きと、かすかな困惑、そして理解しがたいものを受け入れる戸惑いが混じっていた。


「アーデル……?」

「あの子の名を……?」


村人たちの声には、その名前が持つ特別な意味が込められているようだった。


ヴァルトも驚きを隠さなかった。

彼は腕を組み直し、しばらく黙っていたが、やがてぼそりと呟くように言った。

その声には、過去への追憶と、そこはかとない寂寥感が滲んでいた。


「・・・もう九年も経つんだな」


その言葉は、二人の間に流れる、ある歴史を物語っていた。

ミーナはヴァルトの視線の先にあるものを見透かすように、しかし決然とした口調で語りかけた。


「この子はアーデルじゃない。私が一番よくわかってるわ。でも、そう呼びたいの。いいでしょ?」


彼女の言葉には、失われた娘への深い愛情と、目の前の少女に対する慈しみが込められていた。

ヴァルトはミーナの真剣な眼差しを受け止め、熟慮の末に、ゆっくりと口を開いた。

彼の声は低く、しかしその響きには、受け入れと諦念、そしてかすかな希望が混じっていた。


「……そうだな。記憶が戻るまでは……それでいいか?」


アーデルは、その言葉の意味をゆっくりと咀嚼するように、小さく頷いた。

彼女の心に、これまで感じたことのない温かい感情がじんわりと広がっていく。


ミーナはそれを見て、慈愛に満ちた微笑みを浮かべると、少女の肩にかけられた布をそっと、しかし柔らかくかけ直した。

その仕草一つ一つに、母性にも似た優しい気遣いが込められていた。


「じゃあ、アーデル。今日はゆっくり休んでね。体を休めないと考えることもできないから」


ヴァルトも立ち上がり、細い薪を一本、火床の灰の中に入れながら、火を見つめていた。


かすかに風が吹き込み、開け放たれた木枠の窓から、湿った土と遠くの森の野草が混じり合った独特の匂いが、室内にゆっくりと入り込んできた。

それは、この土地の呼吸そのものであり、アーデルがこれから生きていく世界の匂いだった。

未知の世界で新たな体を得て、途方もない不安に包まれていたアーデルの体を、居場所を得られたことへの温かい安堵が静かに包み込んだ。


「本当に……本当にありがとうございます、ミーナさん!ヴァルトさんも……っ」


アーデルの声は震えていた。これまでの人生で、ここまで心からの感謝を伝えたことがあっただろうか。

転生し、すべてが未知の状況で、得体の知れない不安に苛まれていた彼女にとって、この夫婦の優しさはまさに一条の光だった。


「あの、……ここって、一体どこでしょうか? そして、私……どうしてここにいるんでしょう?」


彼女の瞳には、まだ拭いきれない戸惑いと、わずかながらもこの世界の真実を知りたいという切実な願いが宿っていた。

しかし、それ以上に、ようやく手に入れた「居場所」への確かな予感が、その小さな胸に温かく灯っていた。

少女──アーデルの、新しい名前と共に、この異世界での生活が、今、確かに始まろうとしていた。



内陸のザルファルト地方、街道から少し入った村。「リヴィナ」。

小さな川が近くにある――ただそれだけの理由で名づけられた。


(川口、みたいな命名パターン? ならここもいつか大きな街になって、大きなマンション建つのかな)


街道から隠れるようにたたずむリヴィナ村は、外界との交流がきわめて限られた小さな集落だった。

南に歩いて一時間ほどで修道院があり、さらに一時間ほど歩けば、トゥレミスという城塞都市にたどり着く。


トゥレミスの教会から月に一度の助祭の訪問、季節ごとの商人との取引、年に一度の領主徴税代官の来訪、そして近くの村との婚姻や葬儀に関する連絡以外に、外の世界との接点はほとんどない。

まるで、世界の喧騒から取り残されたかのような静けさが、いつもこの村を包んでいた。



リヴィナ村にはかつて一五〇人ほどが暮らていた。

だが、9年前、静かなこの村を疫病が襲った。

それは村の歴史に、深く刻まれた痛ましい記憶となった。

村の三割もの命が、この疫病によって奪われたという。


ミーナとヴァルトの娘もまた、懸命な看病のかいなく、そのとき命を落としたのだと、アーデルは後に知ることになる。


この時代、農村において、現代のような進んだ医療や感染症の原因が解明されることはなかった。

人々は病の原因を悪霊や神の懲罰、あるいは不適切な「瘴気ミアズマ」に求めがちだった。


倒れた者に対して、村人たちができるのは、病人のそばで看病すること。

そして、土地の精霊や教会の神に祈ることだけだった。


看病、限られた薬草、そして──何よりも深い信仰。

それが、彼らに許された、たったひとつの対抗手段だった。

絶望のなかで、彼らが信じられる、すべてだったのだ。


「その子の名前が、アーデル……」


それは、遅くにようやく授かった、二人にとって何よりも大切な子どもだった。


アーデルは、言葉を失った。

(……重い。重すぎるよ…… いきなり、こんな悲しい展開くる?)


胸の奥がぎゅっと痛んだ。悲しみの質が、違っていた。

(スイーツ禁止なんて、全然たいしたことなかったんだ…… 哀しすぎるよ……)


これは「同情」ではない。もっと深く、どこか触れてはいけないものに触れてしまったような感覚だった。


ミーナとヴァルトが見せる優しさは、道端で倒れていた“可哀想な記憶喪失の子”へのものではなかった。

その小さな体躯を憐れんでいるだけでもなかった。

もっと根源的な、言葉にできない何か――


アーデルは、それを確かに感じていた。

まるで、自分の存在を、過去も未来も含めて丸ごと受け止められたような――そんな、不可思議な温度。


それは、遠い昔から探し求めていた場所に、ようやくたどり着いたような感覚だった。


(いくら私に身寄りがないと思われてても……それでも、“この子を育てよう”ってなる? あんなふうに?)


ふと、胸に波が立った。


(……嬉しい。ほんとうに、嬉しいけど――でも私、なにも持ってない。返せるものなんて、なにもない……だからこそ、何か……何か、伝えたくて……)


アーデルは、深く息を吸い込んだ。迷いを包んだまま、声に変える。


「……あの、もしよかったら。私の親が見つかるまで……いえ、見つかっても……」


言葉にした瞬間、顔が熱くなるのを感じた。


まるで愛の告白でもするかのような気恥ずかしさだった。

前世では、特殊な家庭環境のせいで、人との深い関わりを避けていた。

友人も、恋人も、家族も、“近づくほど怖くなる”ような距離で遠ざけてきた。


その彼女が、今、自らの言葉で家族を求めている。

これは、記憶を失った少女の演技でも、転生者としての計算でもない。

ひとりの人間として初めて、誰かに「そばにいて」と差し出した、勇気そのものだった。


「ミーナさん、ヴァルトさん……」


アーデルは少し言い淀んでから、顔を上げた。

瞳にはまだ不安が残っていたが、意を決して言い切った。


「助けてくれたお母さんとお父さんって……思っても、いいですか? そう呼んで……もいいですか?」


ミーナは、アーデルの予期せぬ言葉に、少しだけ目を見開いた。

しかしその驚きはすぐに、静かで温かい微笑みに変わった。

彼女の目には、深い喜びと、失われたものへの追憶が混じり合っていた。


ヴァルトは言葉を失っていた。

大きく息を吸い込むと、その煤けた指で目頭を強く押さえる。

感情の波に耐えきれないように、彼は何も言わずに黙って家を出ていってしまった。

その背中には、言葉にならないほどの感動と、亡き娘への複雑な思いが滲んでいるようだった。


「あ、変なこと言っちゃってごめんなさい……」


アーデルの声は空気に溶けるようにか細く響いたが、ヴァルトはもう姿を消していた。

彼の背中は、感情のほとばしりを抑えきれないかのように、一目散に家から遠ざかっていた。


「謝らなくていいの。あれで……喜んでるから。私も、嬉しいわ」

ミーナは柔和に微笑んだ。


(勢い余っていっちゃったけど、よかったー。夢に描いていた、ザ・お母さん、ザ・お父さんって感じがしたから)


「記憶が戻るまでの間だけ、よろしくね。アーデル」


ミーナはそう言って、アーデルの手をやさしく包んだ。

その温かい掌が、アーデルの小さな手をすっぽりと覆い、まるで柔らかな毛布のように彼女の不安を溶かしていくようだった。


「はい……お、お母さん……」


まっすぐに見つめてくるミーナのその目に、アーデルはたまらず俯いた。

その深い眼差しには、失われた娘への追慕と、新たな家族を得た喜びが溶け合っており、彼女の胸を締め付けた。

だがそのまま、抗いがたい温かさに導かれるように、ミーナの胸に身を預けた。


(こんな優しいお母さんが、ずっと欲しかった。これが……転生ハーレム効果? 神様、夢を叶えてくれてありがとう……!)


先ほど家を飛び出していったヴァルトが戻ってきた。

彼の顔には、わずかに興奮の色が見て取れる。

その傍らには、森から息を切らせて走ってきた先ほどの青年が立っていた。


狭い家の中は、一瞬にして張り詰めた空気に包まれた。

アーデルを囲むように、ミーナ、ヴァルト、そして村長、さらに報告に来た青年が集まっていた。

火床をよけながら、それぞれがぎこちなく立ち位置を見つける。


青年は荒い息をようやく落ち着かせると、神妙な面持ちで口を開いた。

彼の表情には、森で目にしたものがもたらした衝撃が色濃く浮かんでいた。


「この子の言ってたこと、嘘じゃなかったよ。洞窟の先に、男と女が倒れてた。たぶん、あの子の親だ。もう死んでて……狼に、かなり喰われてた」


「……!」


アーデルは、喉の奥に何かがつかえたように、息を詰まらせていた。

声は出ず、ただ震える体をどうすることもできなかった。


前の世界では、死はもっと遠くにあった。

ニュース、遠い国の話、知らない誰かの出来事。

それが、今はこんなにも近い。


ただ、それだけだった。

それだけのことが、こんなにも重くのしかかっていた。


ヴァルトはアーデルの様子に目を留め、険しい顔つきで青年を睨んだ。


「おい、もうちょっと言い方ってもんがあるだろう。うちの娘にひどいこと言うな」


「え? そういうことになったの?」


青年が目を丸くする。予想外のヴァルトの反応に、彼は完全に意表を突かれたようだった。


村長は、そんな彼らのやり取りを静かに見守っていたが、笑うでもなく深く呟いた。


「うむ。これも森の精霊の恵みだろう。この子は……何かを届けにきたのかもしれん。洞窟から来たんだ。森の呼吸であるなら、吉兆だ」


「じゃあ返り子ってこと? でもさ……服、全然見たことないやつだったぜ。たぶん、バルバロイじゃないのか?」


青年の声には、訝しげな響きが混じっていた。

彼が森で見た遺体の服装は、この村の、いや、この地方の者とは明らかに異なっていたのだ。

それは、外界、すなわち異邦人、野蛮な「バルバロイ」の者たちのものとしか考えられなかった。


ヴァルトは青年の言葉を遮るように、語気を強めた。


「おい、返り子が土地の者じゃなきゃいけないなんて、誰が決めたんだ」


ざわつきが広がるなか、その言葉の意味を知らぬ者はいなかった。

返り子──

森で迷子になった子が、特別な力を持って帰ってくるという古い言い伝え。

人かどうかも怪しいけど、不思議な力を持ってる。

だからこそ、ありがたがられたり、気味悪がられたりもする。


そして、険しいが優しい目でアーデルに語りかけた。

その眼差しは、森で拾われた少女を、確かに「自分たちの娘」として受け入れるという、ヴァルトの決意であった。


「いいんだよ、アーデルはアーデルだ。俺たちの家族だ。いいな?」


「そうよ。あなたはアーデル。ここにいてちょうだい」


ミーナはやわらかくアーデルを抱きしめた。

その腕は、幼い娘を包み込むかのように優しく、確かな温もりでアーデルの体を覆った。

それは、言葉以上の愛情と、この子を守り抜くという決意を伝える抱擁だった。


(……そうか。私は、この世界に湧いて出てきたわけじゃない。誰かの子だったんだ。この体にも、ちゃんと過去があったんだ――)


「ありがとう、お母さん。お父さんも、守ってくれてありがとう」


アーデルはヴァルトを見上げた。瞳には、感謝と家族を得た喜びが揺れていた。

ヴァルトは無言で鼻の頭をかき、視線を逸らした。


二人を見つめる村長の顔には、まだわずかな不安が残っていた。


「おい、大丈夫なのか?」


実直なヴァルトの性格はよく知っていた。だからこそ、家計の苦しさや、急に増えた家族への心配も感じていた。


「ああ大丈夫だ。なぁミーナ?」


ヴァルトの声はまっすぐで、もはや迷いはなかった。


「ええもちろん。新しい娘ですもの。がんばんなきゃ」


ミーナもまた、揺るがぬ決意を込めて頷いた。


村長は深く頷き返した。顔には、かすかな安堵がにじんでいた。


「ヴァルト、すまないが、責任を持って頼む。村寄むらより衆には俺から話しておこう」


ヴァルトは小さく頷いた。

村寄衆むらより衆の承認は、村の総意に等しい。大工として信頼される彼にとって、その重さも安心も、よくわかっていた。

ミーナと共にアーデルを迎え入れることは、彼らにとって大きな節目だった。


「……わかった。悪いが伝えておいてくれ」


彼の声には、静かな決意と、ようやく迎えた平穏への安堵が混じっていた。


村長は重く頷いた。

その場にいた幾人かの村寄衆も、ヴァルトの言葉に顔をゆるめた。


日は高く昇っていたが、空気にはまだ沈黙が残っていた。

洞窟で発見された「親の遺体」が、村人たちの胸に影を落としていた。


午後、報せが届いた。


──あった。洞窟の奥に二人分の遺体が。

狼に食われ、ほとんど骨と皮だったが、それでも人とわかる姿だった。


その日のうちに、村人たちはシャベルとクワを持ち、洞窟近くに穴を掘った。

木の根と固い土に苦戦しながら、黙々と交代で作業を進めた。

風と、土を打つ音だけが静かに響いていた。


アーデルは、ミーナに手を引かれ、少し離れた斜面に座っていた。

膝に手を置き、風に揺れる木の葉をじっと見つめていた。

言葉は出なかった。


幼い彼女に真実を見せまいという、大人たちのさりげない、けれど深い配慮だった。


(……本当に、死んじゃったんだ……私の前世の両親じゃない。この体の両親……)


目の奥がじんわりと熱くなった。思い出のない「親」だった。

それでも、胸が詰まった。

名も知らぬこの肉体の親が、無残な形で命を落とした――その事実が、アーデルの心に深く刺さった。


やがて、湿った土の匂いが漂い始める。

男たちが掘った穴が完成し、村長が目配せを送ると、遺体は布に包まれたまま、慎重に穴へと下ろされた。

骨の一部が覗いていた。深く食いちぎられた跡が生々しい。アーデルは目をそらした。


死は、容赦なくそこにあった。


「なぁ、ここでいいのか? 村の墓地に……」


誰かが呟く。


だが村長は首を振った。


「だめだ。教区の許可が要る。それに……」


少し言葉を探し、静かに続けた。


「精霊の魂は、精霊のもとに返すべきだ。森から来た者は、森へ返す。この者たちもまた、この村の外から来た。ならば、その循環に従おう」


誰も異を唱えなかった。

感情があっても、それは制度や信仰の外にある。


そして、祈りの時が訪れた。


穴の前に立ったのは、アーデル、母のミーナ、父ヴァルト、村長ハルトムート、そして村寄のマティアス。

他の村人たちは少し距離をとって、静かに見守っていた。


村寄とは、村長を補佐し、意思決定を担う村の幹部である。

家系、軍役経験者、商談に長けた者などが選ばれる。

大工として信頼を得ていたヴァルトも、その一人だった。


中でもマティアスは、精霊の祭事を司る家系に生まれ、教会に見つからぬよう儀礼を守り続けてきた、村の隠れた祭司だった。

村長と同じ六〇代、白髪が多い短い髪の、落ち着いた雰囲気を醸していた。

表向きは慎ましく、それでいて村の“見えない秩序”を担う人物――それがマティアスである。


彼は一歩前に出ると帽を脱ぎ、風向きを確かめた。

穴の前に立ち、深く息を吸い込んでから、祈りを始めた。



地に還れ。肉は風に、骨は岩に、血は水に。

その魂、流れのままに巡らんことを。

精霊よ、受け入れよ。風の声、土の音、木々の影と共に……

歩む者の寂しさを、やさしく包み込め。



誰も声を重ねなかった。それがこの村の作法だった。

目を閉じ、胸に手を当て、それぞれの心で祈る。

言葉にできない感謝と赦しを、“誰か”に向けて。


アーデルも静かに胸に手を当てた。

木々の匂い、薬草の香り、湿った土の感触が、風と共に流れてゆく。


(誰か知らないけど、この体の子を守ってくれた人……ありがとう)


涙が浮かんでいたが、こぼれることはなかった。


(私、あなたたちの子どもじゃない。……でも、ここに埋めてくれてありがとう。私のために、ありがとうって言わせてくれて……。あなたたちのおかげで、お父さんとお母さんに恵まれました)


前世で、葬儀に出たことはなかった。

母は「時間のムダ」と言い、父も「死んだらコネは切れる」と言った。

そんな育ち方をした自分が、今――


誰かの死を見送り、祈っている。

知らない森で。知らない人たちと。


(……この風の中に、あの人たちの魂が溶けていったなら、それでいいな。きっと、この世界の祈りも、私の知らないどこかの神様たちと、通じてる気がする)


そして、土が戻された。

音を立てぬよう、ゆっくりと、何度も重ねるように。


ふたつの小さな土の山に、それぞれ三つずつ石が置かれた。

石は、風、土、水を象る目印。名も刻まれず、ただの石だった。

けれどそこは、確かに「誰かがいた場所」になった。


ミーナが、アーデルの手をそっと握った。


「さあ、帰りましょう。……あなたがここにいる限り、あの人たちも、きっと近くにいるわ」


アーデルは、一歩遅れてうなずいた。

名も知らぬ父と母に背を向ける。

だが心の中で、そっと呼びかけた。


(ありがとう。あなたたちの体に宿って、私はこの世界に来たよ。大丈夫。私は、ちゃんとここで、生きていくから)


そしてもう一度、ほんの少し笑って、続けた。


(そしていつか、新しい家族で――手作りクレープ、食べるんだ)


こうして、彼女は村の一員となった。

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