四十二話 神還り

 

「──ばく!」


 三智鷹の声が響き、足元には事前に隠されていた陣が浮かんでくる。

 編まれた陣から形成された淡く光る糸は、這いずりながら近付いてくる黒いものを即座に拘束した。


 それは、三智鷹を呪っていた例の妖だった。

 もう、形らしい形は取っておらず、ひたすらに三智鷹への想いだけで生きている状態なのだろう。


 捕縛されているというのに、例の妖は手のようなものを三智鷹の方へと何度も伸ばす。

 その姿は哀れに見えた。



 ここは、拝上家が所有するとある山。

 三智鷹が例の妖と出会った場所だった。


 少し開けた場所で、良好な視界を得るためにも周囲は焚かれた篝火が設置されている。

 また、供物となる食べ物や酒などが並べられた祭壇が自分達のすぐ傍に置かれていた。


 この場にいるのは三智鷹と千依だけだが、不測の事態に備えて一門の者も待機しているので、例の妖が逃げ出したとしても、この山の中で確実に仕留められるようにと次の一手もちゃんと用意されている。


 人がいないこの場所を選んだのは、周囲への被害を抑えるためだ。

 最期の抵抗で、相手がどんな方法を取ってくるか分からない以上、他者を巻き込むわけにはいかなかった。


 それに執着が激しい例の妖のことだ。

 三智鷹との思い出の場所に、本当の縄張りがあるのではと考えたのだ。


 ……予想は当たっていたけれど、まさか三智鷹様がこの場に来ただけでつられるように出てくるなんて……。


 こちらが思っているよりもかなり三智鷹に執着しているようだ。

 それでも、「神」のような圧は感じない。


 ……やっぱり、この前の呪い返しが、想像以上に効いているみたい……。


 だからこそ、この妖がどのような動きをするのか予測できない。今も己を捕縛している糸から逃れようと妖はもがいていた。

 そんな妖を三智鷹は一切、目を逸らすことなく、真剣な表情で見据えていた。


 先日まで、他者のために身に着けていた黒い手袋はもう彼の手にははめられていない。


 ……三智鷹様も最後は自分の手で、かたをつけたいはず。


 呪いがなくなった以上、これまで辛酸をなめさせられた相手に、やっと手が届くのだから。


 ふと、周囲の空気が澱んできた気がして、千依は持ってきていた桃の木で作られた弓の弦を鳴らし、祓っていく。

 いつもの仕事用の衣服を身に纏っている千依だが、今回は三智鷹の補佐としてこの場にいる。


 こちらの準備は出来ている。

 あとは、三智鷹が決めるだけだ。


 厳かな空気の中、三智鷹の声が一つ、響く。


「……お前だったんだね」


 それは冷たくも穏やかで、そしてどこか悲しげな響きにも聞こえた。


『ァ、ア……ゥ、アァ……』

「でもね、お前の愛は、僕には分からない。……その『愛』が、お互いを傷つけ合うものだからだ」


 静かな声音で彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。

 もう、妖には聞こえていないのか、それは分からない。


「ゆえに僕は、この心を以って、お前を見送ろう」


 三智鷹は両手で印──ではなく、掌を合わせた。


「かけまくもかしこき、天白雨命あましらさめのみことよ」


 静かな声で告げられた神名は、かつてその妖が呼ばれていたもの。



 三智鷹は千依が呪いの核を通して見た記憶から、過去に存在した神を情報収集が得意な織人に調べさせた。


 分かったのは、とある地域で「神鳥」として崇められていた「天白天命」という神だった。

 人々の願いを叶えるために、乾いた土地に雨をもたらしていた優しい神だったらしい。


 だが、ある日、不運なことに大豪雨がその地域を襲い、多くの死者が出た。

 それを村人達は天白雨命のせいにし、追い出したという。


 人から必要とされなくなり、「悪いもの」として、追われた神。

 その神が堕ちたものこそが、今、目の前にいる妖だった。


「実り与えし、恵む地を守る尊きものよ」


 それまで足掻くように動いていた妖の姿がぴたりと止まる。

 その姿は三智鷹の言葉に耳を傾けているように見えた。


「憐みたまい慈しみ給いて、迷うものを誘い給い導き給いて」


 淡く光る陣には無数の文字が浮かんでは、舞い踊る。


 千依はその光景を美しく思いつつも、胸が苦しくてたまらなかった。

 ぐっと、何かを喉の奥へと飲み込む。


 自分は、自分達は、「祓い屋」だ。

 妖から、人を守るものだ。


 人へと害をなすものを憐み、許すことは出来ない。

 たとえ、それが人の罪と愚かさによって、生まれてしまったものだとしても。


 一度でも己の意思で人を傷付けてしまえば、それは「害」となってしまう。

 だからこそ、千依は自分に出来ることであの妖と──神へと向き合わなければならない。


 けれど、この胸にあるもの以上に、三智鷹が抱く苦しみは計り知れなかった。


 三智鷹のすぐ傍にいる千依は足元に編まれている陣だけでなく、目の前の神に集中している彼へと最大限に霊力を注いでいく。


 すでに妖に堕ちたとはいえ、神を相手にするとなれば、いくら霊力が高い三智鷹でもすぐに枯渇してしまうだろう。

 それゆえに千依が彼へと霊力を流し、補佐していた。


「人の子より生まれし、諸々の禍事まがごと、罪、穢れを受けしものよ」


 じわり、じわりと三智鷹の言葉がその場に満ちていく。

 その「神」はもう、動かなかった。


 ただ一心に、片目だけで三智鷹をじっと見つめている。

 まるで、その目に刻むように。


くとそそぎ、あらゆるじゃおんを鎮め給え眠り給えと」


 千依が注いでいた霊力が急激に、ぐいっと大量に陣へと奪われていく。


 ……くっ、これは中々……きつい……!


 けれど、そんな辛さを表に出すことなく、千依は三智鷹の方を見た。


 これまで苦しめられたことへの憎しみや恨みもあるはずなのに、彼はそれすらも感じさせない程に清廉とした佇まいで、「神」を見つめ、最後の言葉を告げる。


「清き身に還り給えことわりに還り給えと、もうすことを聞し召せと、かしこみかしこみも白す──!」


 ぱんっと、真っ直ぐ響いたのは三智鷹によって打たれた柏手だった。

 ぞわり、と千依の肌を撫でていったのは感じたことのない力。


 瞬間、どんっと激しい音と共に一本の光の柱が現れる。


 それは、妖に堕ちた神の穢れを祓い、理の根源である自然へと還す──『神還かみがえりの儀』と呼ばれるもの。


『ァァ……アァァァアッッ!』


 妖の叫びが暗闇に響く。

 まるでその身から何かが削ぎ落されるように。


 だが、それは痛みによる叫びではなく、解放に向かう声にも聞こえた。


 三智鷹が選んだのは「妖」として滅するのではなく、役目を終えた「神」を崇め、称え、そして見送ることだった。


 ……ただ単に滅する時とは違って、自然へと還すこの祓い方は──祓われる方は痛みがないと聞いたことがある……。


 これは祓い屋が扱う方法の中では、最上級の敬意を持った「祓い方」とされている。


 もちろん、千依は使ったことがないし、使えない祓い方だ。

 むしろ、他の祓い屋で使える者もそれ程、多くはないだろう。


 三智鷹が選んだこの選択を千依は何故か、眩しく思ってしまった。

 こんなにも美しく、温かな見送り方は自分にはきっと出来ないからだ。


 目蓋を閉じたくなる程に強烈な光の中、三智鷹は天白雨命だったものを見つめる。

 三智鷹は一度、口を開いては閉じ、それから言葉を紡いだ。


「……さようなら、『花酔かすい』」


 その名前の由来を千依は三智鷹に教えてもらっていた。

 幼かった三智鷹が、偶然出会った怪我した小鳥に付けた名前。


 花に酔って、堕ちてしまった、哀れで一途な──神の名前。


『……』


 三智鷹に「花酔」と呼ばれた神は、もう何も言わなかった。

 ただ、全てを受け入れるように静かに、穏やかに、目を閉じる。


 はらはらと花弁が舞うように、「花酔」の体は端から散らばっていく。

 それまで黒かった体は、汚れが落ちるようにその下にあったものを覗かせていった。


 そこにいたのは、一点のしみさえない程に白く輝く羽を持ったものだった。


 ……なんて、美しい、鳥……。


 千依は胸が締め付けられる心地で、その光景を見ていた。


 さらさらと溶けるように「花酔」は少しずつ消えていく。

 だが、頭部が消え去る瞬間、その神は三智鷹に向けて一声だけ鳴いた。


 何と言ったのかは分からない。

 それでも、その一声は遠くのものを呼ぶように切なげで、耳の奥へと残り続けた。


 やがて、光の柱が消えると共に「花酔」の体は完全に散り、どこかへ旅に出たように空中に混じって消えて行った。


 三智鷹は最後までその姿を見送り続けた。



 月が綺麗な春の夜。

 苦しみ続けた神はやっと眠り、地へと還ったのだ。


  

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