第2話 死に損ないの日々

岸野ひまりは、声を出すことをやめた。

いつからだったのかは思い出せない。

小学校の頃は、もう少し喋っていた気がする。

笑ったこともあった。友達も、一時期はいた。


でも、言葉が何も届かない場所に生きているうちに、

「声にすること」に意味を見出せなくなっていった。


その夜、彼女はまた殴られていた。


狭い団地のキッチン。

フライパンの油をこぼしたというだけで、母親は怒鳴りながら彼女の髪をつかみ、壁に押しつけた。


「やりたくてやってるんでしょ!? 反省してないからこうなんのよ!」

「クズのくせに女の顔してんじゃないよッ!」


ガン、と乾いた音がして、後頭部に鈍い痛みが走った。

視界がぐらつく。膝が折れる。口の中で何かが切れた。


彼女は、反射的に口を手で覆った。

白い指の隙間から、赤い液体がにじむ。

それを見て、母親はふっと鼻で笑い、リビングへ戻っていった。


「なーに? そんな顔して。自分が悪いんでしょ?」


ソファに沈む音。

缶チューハイを開けるプルタブの金属音。

テレビから流れる芸人の大声。


どれも現実の音だと思えなかった。

どれもこの空間には似つかわしくなかった。


床に倒れたまま、ひまりはひとつ深く息を吸った。

油とアルコールと鉄のにおいが混じった空気が、鼻を焼いた。


指先が冷たい。

意識はぼんやりと遠のきそうになるが、それを振り切って身体を引きずるように廊下を這う。


4.5畳の窓のない空間。

部屋には机と布団と、押入れしかない。


ひまりは、引き出しの奥から取り出した書類の束をそっと机に広げた。


【自殺代理制度|代理者申請書】


紙は何度も読み返した跡があって、角がすり減っていた。

照明はつけない。机の端に置いた小さなランタンライトだけが、ぼんやりと輪郭を照らす。


「申請者:」の欄には、まだ何も書いていない。


先週、病院の待合室で見かけた、同じ制服の女の子。

お互いに一言も喋らなかったけれど、目が合ったときに、なぜか「助けて」と言われた気がした。


彼女の顔は、ひまりが鏡で見る自分の顔に似ていた。

生きているのに、もう死にかけている目。

誰にも求められていないと知っている目。

だけど、どこか、捨てきれない「誰かとつながりたい」という目。


その目が忘れられなかった。


ひまりはシャーペンを握った。

芯が何度も折れた。指が震えて、漢字一文字すらうまく書けなかった。


それでも、ようやく書ききった。


代理者:岸野ひまり


文字を見て、息が止まりそうになった。


これを書いたら、もう後戻りはできない。

でも、自分の死に初めて“意味”が生まれた気がした。


「わたしの死が、誰かの生を守れるなら、それでいい」


言葉に出してしまうと泣きそうで、口をつぐんだ。


自分が死んでも母は笑うだろう。

葬式もない。遺影もない。

でも、もし――

あの子が生き残ってくれるなら、それで充分だった。

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