第41話 元の日常



 千紗の言動は加工ありだがSNSに載せられてしまい、その上それがそこそこバズってしまった。愛理や湊斗は一切写っていないのは幸いだった。


 特定班が動いて会社の特定を進め、すぐに千紗の情報も漏れ、千紗は自ら退社した。SNSがなくても、同僚たちの前であの騒ぎになれば普通いられなくなるだろう。


 晴れ屋の会の友人たちもすぐに気づき、千紗の本性に絶句した。それ以外の知り合いも、千紗と距離を取るようになり、千紗は居場所を失くし引っ越しをして実家に帰った。戦意も消失し、抜け殻のようになっていたらしい。


 その後、一度弁護士を通じて愛理に謝罪の言葉が届くが、テンプレートな文章があっただけで、本当に反省などしているか最後までわからない。むしろ、千紗の親から届いた謝罪の方が真摯で心がこもっていたように愛理たちは感じた。


 その後、実家に引きこもっているらしい、と噂だけが愛理と湊斗の耳に届くことになる。




「岡部さーん!!」


 会社からの呼び出しで出社した愛理が会社を出たところで、小野寺に呼び止められた。振り返ると、小野寺を中心に後輩たちが駆け寄ってくる。


「小野寺さん」


「疑惑晴れたってほんとですか!?」


「うん。今日は一旦帰らせてもらうけど、明日からまた普通に出社するよ」


「よかったー!」


 湊斗が用意した防犯カメラの映像、それから千紗の発言。さらには山本がしっかり上司に自白したことで、愛理の潔白は無事晴れた。山本はそのまま自ら会社を辞めたらしかった。


 上司には包み隠さず全てを話したようで、かなり深く反省していたらしい。


(山本くんも……スイッチさえ入らなければ普通にいい同僚だったんだけどなあ)


 千紗に惑わされて暴走してしまった。これを反省して、今後は物事をしっかり見極める力をつけてほしい。もう二度と会うことはないだろうし、許すつもりもないが、彼が反省して次の人生を歩んでいくことはいいことだと思っている。


 小野寺は鼻息を荒くする。


「事の真相、結構噂で出回ってますよ! 岡部さんが不倫なんてするはずないって、私たちは最初から信じてましたけど、信じる馬鹿もいたから……」


「信じてくれて嬉しいよ。ありがとう」


 優しく微笑んだ岡部に、後輩たちはへらっと顔を緩ませた。彼女たちにとって愛理は、美人で困ったときには必ず助けてくれる最高の先輩だった。家に帰ればビール缶を積み上げているとはまるで知らない。


 小野寺は慌てて顔を引き締め、やや声のトーンを下げた。


「ただ、まだ面白おかしく言うやつはいて……岡部さんも働きにくく思うことがあるかもしれないです。でも負けないでください! 私たちも応戦しますし!」


「あは、ありがとう」


「もー岡部さんいないと、職場も覇気がないって言うか……」


 そう言いかけたところへ、愛理を呼ぶ声が響く。


「愛理!」


 愛理が呼び出されたと知って、今日はわざわざ有休を取っていた湊斗だった。愛理は振り返ってパッと顔を明るくさせて嬉しそうに笑う。


「湊斗!」


「終わった?」


「うん。明日からいつも通り出社する」


「よかった……」


 湊斗はそこで後輩たちに気が付き、小さく首を傾げた。


「同僚の方?」


「うん。同じ職場の後輩で……凄く強い味方なの」


「そうか! いつも愛理がお世話になっています。これからもよろしくお願いしますね」


 にこりと湊斗が笑いかけたとき、ずっと絶句していた小野寺が大きな声を上げた。


「どひぇーーー! とんでもイケメン来たあああ! お似合いすぎて辛いーーー!」


 目をキラキラ輝かせて叫ばれた湊斗は一瞬目を丸くしたが、すぐに小野寺の勢いに吹き出して笑った。


 小野寺はスマホを取り出し、興奮した様子で言う。


「いや、この旦那さん見たらあんな疑惑すぐ吹っ飛ぶんじゃないです!? こんなイケメンいてあっちに行くわけなくないですか!?」


「お、小野寺さん……」


「二人並んでねり歩いたらもう誰も何も言わないんじゃないですかね!? 写真撮ってもいいですか? 可能ならばらまいていいですか!?」


「ばらまくのは止めて……」


 後輩たちははしゃぎながら愛理と湊斗の写真を撮る。湊斗はお腹を押さえてげらげら笑った。


「愛理の後輩、面白すぎ!」


「賑やかな子たちだよ……」


「はは、安心した。強い味方がいるんだってね」

 

 湊斗は目に浮かんだ涙を拭いて、改めて小野寺たちに向き直る。


「愛理の事、よろしくお願いしますね」


「お……お願いされますう……」


 完全にうっとりしてしまった小野寺たちに別れの挨拶をして、愛理と湊斗はその場から差っていった。すらりとした美男美女の後ろ姿を、小野寺たちはため息をつきながら見送っていた。





「あーっ、すっきりした後のビールは美味しい!」


 愛理は缶ビールを片手にソファの上に座り、一口飲むとそう言った。


 明日から出社なので、今日は夕方になると早めに風呂に入り、ビールを楽しむことにした。部屋着はいつだったか購入した、ペアの物だ。湊斗は笑いながら愛理の隣に腰かける。


「お疲れ様」


「って、いろいろやってくれたのは湊斗だから、疲れてるのは湊斗だよね……今日も有休取っちゃって」


「有給余ってたし、愛理とゆっくりしたかったから。ここ最近バタバタしてたしね」


 湊斗は持っていた缶ビールを愛理の缶に当てて乾杯した。一口飲み、ふうと息を吐く。そんな横顔を愛理はじっと見つめ、急に恥ずかしくなって背筋を伸ばした。


(湊斗、いろいろスマートに動いてくれてかっこよかったな……)


 不倫疑惑が出て自分は半ばパニックになった。でも湊斗が信じてくれて冷静にいてくれたので自分も落ち着けた。


 これまでも頭がよくて頼りになるとは思っていたが、今回は痛感する。湊斗ってやっぱりめちゃくちゃかっこいい。――


「何?」


「う、ううん。全部片付いたし、明日からようやく日常生活に戻れるね」


「ただ、好奇の目はあるかもしれない。愛理、本当に大丈夫なの? 仕事変わりたかったら反対しないよ。別に無理に働かず家でゆっくりしてもいいんだし」


 心配そうに湊斗は眉を顰めるが、愛理は首を横に振る。


「ありがとう。でも、小野寺さんたちみたいな味方もたくさんいるから大丈夫だよ。今の仕事は楽しいし、好きな人もいる。やましいことは何もしてないのに逃げる方が嫌だから」


 きっぱり言い切った愛理を湊斗は眩しそうに見つめる。昔から逃げたりすることをしない人だった。


「……そっか。頑張れ。確かに今日会った子たち、随分愛理に懐いてたね。仕事中によく面倒みてるんでしょう?」


「そんなこともないけどね? なんかやたらイメージ作られてるんだよ。こんな恰好でビール飲んでるとか思われてないよ多分……」


「ははは! 女性はかっこいい女性に憧れるところがあるもんな」


「結婚祝いくれたのもあの子たちで……」


 言いかけて、愛理はすぐに口を閉じる。箪笥の奥で眠っているスケスケランジェリーの存在を思い出してしまったのだ。すっかり箪笥の肥やしになっている、例のすんごいやつを。


 一気に恥ずかしくなって俯くと、湊斗も同様に気まずくなって視線を逸らした。静まれ、静まり給え。想像するな自分……!


 だが愛理は黙ったままぼんやりと考えていた。


(なんかバタバタしててそんな雰囲気は一切なくなっちゃったけど、そういうのってどう始めればいいんだろう……)


 思いを伝えあった時は少しそんな雰囲気があったが、それどころではなくなってしまった。


(そもそも、こんなすっぴんでビールを飲んでていいのかな? そりゃ雰囲気出ないよね……)


 とはいえ、初心者な自分。何をどうすればいいのかちっともわからない。


 ぐるぐると混乱している愛理を心配し、湊斗が顔を覗き込む。


「愛理?」


「きゃっ」


 驚いた愛理が持っていたビール缶を落としそうになり、それを湊斗が反射的に止めた。愛理の手を上から包むような形で支える。


「おっと」


「あ、ありがとう! 危なかった……」


 胸を撫でおろすと同時に、大きな湊斗の手を意識してしまう。なお顔が熱くなり、それを隠すように俯いた。


「愛理?」


「……なんか今更だけど、すっぴんでビール飲んでるの、いいのかな? そりゃ一緒に住んでるんだからずっと取り繕うのは無理だけど、女としてどうなの、って……」


 恥ずかしがりながらそう言った愛理を見て、無事湊斗の心臓は停止して召された。


……気がしたが、ちゃんと生きていた。湊斗は必死に心臓を落ち着かせると、愛理に優しい声を掛ける。


「俺はどんな愛理も可愛くて好きだよ」


「かわ……!?」


「一緒にゲームして夜更かししてる時も楽しくて幸せだし、お酒飲みながら仕事の愚痴を言い合ってる時も、必死に漫画に集中してる愛理を見るのも幸せだよ。こんだけ長く好きだった俺の想いの強さ、舐めたらだめだからね?」


 笑ってそう言った。愛理はその柔らかな笑顔を見て心が温かくなる。


(どんな時でもそばにいて支えてくれたのは湊斗だ……家ではおっさんみたいな私の事を、それでもいいって言ってくれるなんて)


 自分はどうしたらその気持ちに応えられるだろう。自分も湊斗が好きで、感謝しているとどうすれば伝わるだろう。


 愛理はぐっとビールを飲む。そしてその缶を置くと、ずいっと湊斗に顔を寄せた。


「湊斗!」


「うお、どうした?」


「えっと、その……!」


 って、なんといえばいいんだ!!


 勢いをつけたものの、恥ずかしくなって口籠る。


「あの……その、なんて言うか……」


「…………」


「う、上手く言えないけど、今更って感じだけど、湊斗もかっこよくて、私はほんと感謝してるし……あの」


「……うん」


 ぐっと顔を上げて愛理は言う。


「もう押しのけたりしないよ」


 先日、湊斗からのキスの際に驚いてそうしてしまったのがずっと心残りだった。


 恋愛経験が少ないので驚いてしまいそうしたのだが、嫌だったわけじゃない。きっと今なら。


 湊斗はしばらく放心したように愛理を見つめていたが、一度ゆっくり息を吐くと、体を愛理に向き直す。そして何も言わず、静かに愛理に口づけた。


 大きすぎる二人の心臓の音。お互いが緊張して、恥ずかしがって、それでも相手を求めた。


 ゆっくりと愛理の体が倒れていき、控えめに湊斗の舌が侵入する。前回は驚きで止めてしまったが、今回はしっかりとそれを受け入れた。


 どうしていいか、わかんない。


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