塗りたい背中
だくさん
塗りたい背中
さびしさは鳴る、という書き出しで始まる小説がある。
その文章を初めて見たとき、私は「なんて気取った表現なんだ」と思った。
敬遠したくなる気持ちを感じたすぐ後に「だからさびしいのか」と妙に納得したことを覚えている。
私の二つ前の席に座る彼の背中を見る。周りに誰もいない、痩せた背中。
水曜日の一限目の「認知心理学」、午前の選択講義を受講する学生の姿はまばらだ。
受講しているのは単位稼ぎの友人グループが三つ。一人で受講しているのは彼と私だけだ。
私は一番後ろの席に座って、彼は私の二つ前の席に座る。
初めて講義を受けるときに何となく座った席が定位置になるのは全員同じだ。
彼の周りはマインスイーパーの「8」の周りのように誰もいない。
そんな例えが思い浮かんでから、私は心の中で彼のことをハチと呼んでいる。
ハチの背中はさびしさで鳴っているのだろうか?
いや、何も聞こえない。聞こえるのは一人で盛り上がる教授の声と、時間を持て余して構内をうろつく人達の騒がしい談笑だけだ。
ハチの背中はさびしそうでもなければ鳴ってもいない。
ハチの背中が感じさせるのは、インクだ。
私もプレイをしていたことがある、とあるオンラインの人気TPSゲームはインクを撃ち合うという独特な世界観のゲームだ。
インクによって塗られた床や壁は可視化された陣地となり、その陣地を使って勝利条件を満たすゲームだ。
自軍と敵軍は別の色のインクを使い、インクの上に別の色のインクを乗せても色が混ざらない。
可視化された陣地であるのだから当然といえば当然だけど、よくよく考えれば不思議な話だ。
インクとインクの間には明確な境界があり、その境界を越えることは基本的に許されない。
ハチの周りの8つの座席は彼の背中からこぼれたインクで一色に染まり、侵すことのできない陣地であることを主張している。
ハチはそのインクを使って、どんな勝利を手にするんだろう?
ある日、トイレに寄ったせいでスクールバスを逃してしまった私は最寄り駅までの道を歩いていた。
徒歩二十分くらいの距離だけど、スクールバスを使うことに慣れていると必要以上にげんなりする。
しかしそんな時間も束の間、十メートルくらい先を歩いているハチの姿に気づき、私の心臓は興味を全身に届け始めていた。
黒いリュックを背負うハチの姿は見慣れないけど、その浮いた後ろ姿は確かにハチ色に塗られていた。
ふと、あまり凝視したことがないリュックにあのTPSゲームのグッズがつけられていることに気づいた。
脈絡もなくあのゲームのことが思い浮かんだのは、視界に入ったそのグッズがそうさせていたからなのかもしれない。
常に同じくらいの距離を保ちながらハチの後ろを歩く。
途中、高速道路の出入り口につながるバカでかい十字路があって信号待ちに引っ掛かりそうだったけど、絶妙なタイミングで切り替わったお陰でその距離が縮まることはなかった。
とはいえ、向かっている方向は最寄り駅だ。このまま行けば、駅で追いついてしまうかもしれない。ハチはどっち方面の電車に乗るんだろう?
そんな心配をよそに、ハチは駅の近くにある大きなゲーセンの中に入っていった。
スクールバスのバス停から見えるところにある、存在だけは知っているゲーセン。
まったく興味がないわけではなかったが、わざわざ入るにはきっかけに欠けていた。
ハチの背中を追って入るだなんてきっかけの中でも面白い方だろう。私はそのゲーセンに入った。
ゲーセンの中は吹き抜けの三階建て構造だった。
一階にはクレーンゲームや音ゲーなどの筐体が並んでいて、二階はおそらくメダルゲームコーナー。三階はよく見えない。
平日の昼間ということもあってかそれほど人が多くなく、ハチの背中を見失うことはなかった。ハチは一階のフロアの奥へと進んでいく。私もそのあとを追う。
あっ、と声に出そうなる。
通路の先にあったのは、あのインクを使ったTPSのガンシューティングゲームだった。
ハチはこのゲームをやろうとしている。
私の興味はすでに全身へと行き渡っていた。
あのゲームの新しい一面は一体どんなものなんだろう。私がやってもうまくいくのだろうか。ハチはどんなプレイを見せてくれるのだろう。
筐体はプリクラのように壁で覆われていて、閉鎖空間の中でプレイするタイプのガンシューティングゲームだ。
プレイヤーの後ろ側にある壁は暗いガラス張りになっていて、外からでも中の様子が薄っすら見える。
前面にある大きな画面はプレイヤーを包むように少しだけ湾曲していて、より3D感を演出しているようだった。
そしてその画面の前に見知った背中が、見知らぬ色をまとって立ちふさがった。
ハチはやっぱり上手かった。
元となったゲームの基準でいえば、エイム力(照準を合わせる能力)が高く、敵がどこにいるのか全部わかっているかのように判断が早い。
さすがにゲーセンだけでここまでうまくなったわけではなく、元のゲームもやり込んでいるんだろう。
このゲームをプレイしている人間が目の前にいる。私は緊張していることを自覚していた。
ゲームを終えたハチがゲームの外の世界へと戻ってきて、私と目が合った。
「あ、お待たせしました」
ハチは私に向けて手をあげた。
私が順番待ちで並んでいるのだと思ったのだろう。
「大丈夫、見てただけだから。上手だね」
「ありがとう。ウチの大学の人だったよね。角野(かくの)さんだっけ?」
知っていたんだ、と驚く。
周りに興味がなさそうな人でも人間としてちゃんと動いている。
認識と事実のスケールの差異に、たまに圧倒されてしまう。
「うん。よく名前覚えてるね」
「人数が少ない講義だと全員名前覚えちゃうんだよね。ちなみに俺は八田(はった)ね」
名前まで気にしたことがなかったけど、本当にハチだとは思わなかった。
もしかすると何となく耳に入っていた八田という言葉のイメージが、マインスイーパーの例えを生んだのかもしれないと思った。
「これ、角野さんもやってるの?」
ちら、とガンシューティングを見て、ハチが尋ねる。
「ゲーセンのは初めて見たけど、市販のやつは持ってるよ」
「いいね。もしよかったらフレンドにならない?」
このゲームにはフレンド機能というものがあり、ユーザーをフレンド登録すると一緒にプレイすることができる。
「ごめん。私、人とゲームやるの苦手で」
「え、このゲームやる人ってフレンドとやるのが好きな人ばっかりだと思ってた。なんで苦手?」
世間的にこのゲームはフレンドと一緒にプレイする人が多い。
ゲーム外の通話ツールと併用してプレイしているコミュニティなんかもあったり、交流が盛んなゲームだ。
「いやちょっと、前に友達を怒らせちゃったことがあって」
え?という感じでハチが私に耳を近づける。
小さくなった私の声がゲーセンの喧騒に埋もれてしまった。
私が黙っていると、ハチは思いついたように笑顔を見せた。
「ごめんごめん、言わなくても大丈夫だよ。まあ、気が向いたらよろしくね」
私を気遣ってか、ハチはそのままゲーセンを出て行った。
ゲーセンの自動ドア越しに見えるハチの背中はいつも通り鳴っていないし、インクを感じさせた。
ハチの背中にインクを撃ちこむところを想像してみる。
撃ちこんだインクはポタポタと落ち、ハチのいつもの背中が現れる。
次の瞬間にはハチの素早すぎる振り向きと射撃で私は正面からインクを浴びて尻もちをつく。
いや、さすがにこれは想像による誇張が過ぎる。
私はハチのことを何だと思っているんだ。
でも、と思う。
ハチの背中をインクで塗りたい、と思う刹那の火花は、確かに熱を持っていた。
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