灰の勇者と魚人のオブジェ
黒蟻
第1話 泥棒1
『油の紳士』が焼け死んでから、もう半年が過ぎる。
『灰の女王』は、未だに王宮から出てこない。
治世に問題はない。相も変わらず、ここ『ゼノピア』は治安が悪い。
それでも『私』が入り浸る、この『ボロを纏った工房』だけは平穏を保っていた。
「ふう……」
一息を付いて、対物レンズをきちきちと引き、片付ける。レンズはシートベルトのように、少し伸ばすと勝手にゴーグルの上の方へ引っ込んでいく。
果たして、何をそんなに細かく観察していたのか。何故か私にもわからない。
私は、灰と油に塗れたゴーグルを持ち上げる。
ああ、そうだ。キネスリンテの整備をしていた所だった。
私のリンテは、船と言うよりスクーターのような見た目をしているが、これでもちゃんと、空を飛ぶ。案外小回りも効くのだ。
「アオ」
声の方へ目を向けると、地面に付けていた私の左ひざに、ぎひ、と音がするくらいに力強く頭突きを繰り出す猫がいた。
ほぼほぼ骨組みフェレスは「暇だぞ」と、私に強く主張していた。
「飽きたかい?」
「アオ」
コイツを組み立てたのは私自身だが、未だにどうやって鳴き声をひねりだしているのかがわからない。発声器官など付けた覚えもないのに。
「出掛けるかい?フェレス」
「アオ」
猫又ほねほねフェレスは、返事をするなりぎしぎしと、油の足りていない関節を鳴らして、飛び上がる。我が物顔でリンテの頭に乗って、二股に分かれた尻尾を、かちりと音が鳴るまでハンドルの根元に括りつけた。
「アーオ」
あくびをすると、お尻からヘッドライトの光を集めて、口からびかーっと光らせた。
「フェレス。外はまだ明るいよ。メンテの為に点けてただけ」
「オ?」
光をほおばったままコッチを見るなよバカ猫。
うっ、と呻いて、目を抑え、開いた右手でぎゅっとビンタしてやった。
「オー……」
猫はすまんと言いたげに光を飲み込んだ。私は眩む目で恨めし気に一睨み。
ようやく眩しさが落ち着いて来た。ゴーグルを頭から外して、油さしに入ったウォッシャー液をぶちまける。そいつを腰ベルトに挿していた汚れたクロスで、握りしめるように液を拭き取ってから、一息に目元へ装着した。
「今日はしばらく、ちょっと視界が悪そうだ。いい景色は期待するなよ?フェレス」
「アオ」
近くのラックに投げておいたウィンドブレーカーを手繰り寄せ、フードは目深に、ジッパーは口元まで。
跨いだリンテの足元の、レバーをくっと踏みつける。
ジゴゴゴゴゴ……。
渇いたエンジン音がお腹を揺らすのを、しばし堪能してから、右上に垂れた紐レバーを引いた。
カリカリカリカリと噛みあう音が、脳天で回っている。
しばらくすると、ゆっくりとも素早くとも言えない能天気なスピードで、目の前のシャッターがチューリップの花弁のように開く。
砂埃のような灰は、今日も外で舞っていた。
部屋までは入ってこない。足元まで伸びてきた陽の光に照らされて、少しキラキラする程度にしか。
確かに今日はよく灰が降っているが、散歩するには困らない程度の様だった。
これなら酷くても粉雪くらい。なら、上着だけでほどよいか。
「おっと。忘れるところだった」
私は横着して、リンテに跨ったままぴりぴりとするまで手を伸ばす。
指に引っ掛けるようにしてようやく、作業台に置いてあったパンプスを手繰り寄せた。
「勇者の剣は、肌身離さず持っていないとね」
私は、灰の勇者。
ガラスの靴は、勇気の証。
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