第12話 君と過ごした最後の夏の話

数日後、僕はいつものように結希のお見舞いに来ていた。


病室に差し込む夏の光が病室の白いカーテンを透かして揺れていた。


外からは蝉の声が遠く聞こえ、まるで時間がゆっくりと流れているようだった。


そんな静けさのなか、不意に結希が言った。


「花火大会行きたいな」


その言葉に、僕は耳を疑った。

病院のベッドで点滴に繋がれたまま、起き上がるのもやっとの彼女が、そんなことを言うなんて。


「は?」


思わず素っ気ない声が出た。


彼女はくすっと笑って枕元のスマホを手に取り、画面を見せてくる。

そこには花火大会の告知ページが映っていた。


「今度の日曜日、花火大会があるんだって」


「でも、その身体じゃ無理だろ」


僕は当たり前の反応を返す。

見れば分かる。

結希の身体は明らかに弱っていた。

日ごとに少しずつ、でも確実に。


だけど、そのときの彼女の目は違った。


「行きたいの!どうしても」


笑顔の奥に宿る真剣な眼差しを見れば、それが冗談なんかじゃないことはすぐに分かった。


僕は一瞬だけ迷った。

でも、その瞳を見ていたら覚悟を決めるしかなかった。


「わかった。行こう」


そう言った瞬間、彼女の顔がパッと輝いた。

まるで子供のように。


「やった!」


その笑顔が、病室の空気を一瞬で夏の匂いに変えた気がした。


花火大会当日。

彼女は病院の外出許可を取った。


夕暮れの空が茜色に染まり、病院のロビーに立つ僕の前に彼女は現れた。


淡い水色の浴衣に身を包み、髪をふんわりとまとめていた。

普段のパジャマ姿を見慣れていた僕には、一瞬、誰か分からないほどだった。


「似合う?」


そう言って笑った結希の顔は、今までで一番綺麗だった。

ただ、少し痩せた肩と、かすかに息を乱した様子が、彼女の今の状態を物語っていた。


言葉が出せず口ごもる僕に、彼女は小さく肩をすくめる。


「ふふ、たまには可愛いって言ってくれてもいいんだよ」


その茶化すような言い方が妙に嬉しくて、僕は照れ隠しに顔を逸らした。


「似合ってるよ…」


精一杯紡いだその言葉に、彼女は満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう」


それだけのやり取りが、どうしようもなく大切だった。


会場へ向かう道は、人で溢れかえっていた。


夏の終わりとはいえ、まだ蒸し暑さの残る夜。

浴衣姿の人たち、屋台の灯り、遠くから聞こえる太鼓の音。


人混みの中、僕は結希の手をしっかりと握って歩いた。

彼女は時折立ち止まっては息を整えていたけど、楽しそうに目を輝かせていた。


「こんなに人いるんだね!」


顔を上気させ、笑いながら言うその姿に、僕は胸を締め付けられる。

分かっていた。

この光景は、彼女にとって最初で最後かもしれないと。


やがて、空に最初の花火が打ち上がった。

どん、と大きな音が響き、夜空に色とりどりの花が咲く。


「きれい…」


結希は、まるで子供のように目を輝かせ、空を見上げた。

僕は、花火じゃなく、そんな彼女の横顔ばかりを見ていた。

僕にとって、この夜空の下で隣にいる彼女こそが世界のすべてだった。


幾つもの花火が夜空に散り、やがてクライマックスが近づいてくる。

会場の灯りもざわめきも、僕にはもう遠く感じられた。


そして、大きな錦冠が夜空に打ち上がった。

僕は結希の方へと顔を向けた。


次の瞬間、結希の顔がすぐ目の前にあった。

柔らかな唇が、そっと僕の唇に触れる。



僕の中から一瞬、全ての音が消えた。



花火の音も、周りの声も、波のようなざわめきも。

ただ、彼女の微かな香りだけが鮮明に感じられた。


僕は何も言うことができずに、ただ彼女の手を強く、強く握った。


花火大会の翌日、結希の容態が急変した。

胸騒ぎを覚えながら、僕は病院へと駆けつけた。


向かう電車の中で僕は、普段は信じちゃいない神様に何度も何度も祈った。


昨日の夜はあんなに楽しそうだったのに。

まだ、伝えたいことも聞きたいことも山ほどある。


僕が病院に着いた頃には既に0時を回りかけていた。


ナースステーションで結希の名前を告げると、看護師が険しい表情で案内してくれる。


病室の前に着くと、そこにはすでに結希の母親と父親、そして幼馴染の翔子がいた。

翔子は沈痛な表情で泣きはらしたような目をしている。


僕の姿に気づいた翔子が、静かに歩み寄ってきた。


「裕翔くん…」


声はかすれていたけど、力強い目で僕を見上げる。


「結希のそばに行ってあげて。

きっと、裕翔くんのこと待ってるから」


その言葉に、僕は小さく頷いた。


そして、翔子が僕の肩を軽く叩きそっと部屋の中へ促してくれる。

結希の両親も何も言わず、病室を出る。


僕が震える足で病室に入ると、そこには酸素マスクをつけ、目を閉じる結希の姿があった。


病室の扉が静かに閉まり、僕と結希、ふたりきりになる。


痩せた身体、細くなった手。

その姿があまりに小さくて、僕は胸が締め付けられる。


「結希…」


名前を呼んでみるが、彼女の返事はない。

だけど、その手を握ると弱々しくも確かなぬくもりを感じた。


「初めて会った日のこと覚えてる?」


何も返ってこない静かな病室に、自分の声だけが響く。


「君のハンカチが風で飛んでさ、僕がそれを拾ったんだ。

ただそれだけのことだったのに、君はすごく嬉しそうに笑って…」


思い出して胸が締めつけられる。


「それから、課題も一緒にやった。

君が強引に誘ってきてさ。

僕、そういうの苦手だったのに、気づいたら君と一緒にノート広げてて…あの時、ほんとはちょっと嬉しかったんだ。」


目の奥が熱くなるのを感じながら、必死で言葉を続ける。


「水族館行ったのも…ペンギンの前ではしゃぐ君を見て、ほんとに楽しそうだなって。

僕も、あんなふうに笑えるならって思った」


声が詰まり、喉の奥が痛くなる。


「もっと…もっと君と、行きたい場所も、話したいことも、触れたい景色もたくさんあったのにさ…」


僕は、結希の手をぎゅっと握り直した。


「結希、好きだよ…」


ぽつりとそう告げた僕の声に、結希の口元がほんの僅かに緩んだように見えた。


それから彼女は穏やかな表情のまま僕の手の中で静かに旅立った。

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