第10話 君の幼馴染と出会った話

その日も病室の扉の前まで来たものの、僕はノックもせずにそのまま踵を返す。


僕はため息をひとつ落とし、ロビーへと戻ろうとしたその時だった。


「ねえ、あなた、結希の知り合い?」


背後から突然声をかけられる。

驚いて振り返ると、病室のすぐそばに見知らぬ女の子が立っていた。


肩まで伸びた栗色の髪に、少し鋭い目つき。

僕のことをじっと観察するように見つめている。


「裕翔くん、でしょ?」


「君は?」


状況が掴めず思わず訊ねると、その子はポケットに手を突っ込んだまま笑顔で答えた。


「結希の幼馴染。吉田翔子(よしだしょうこ)っていうの」


名前を聞いた瞬間、少し前に結希が話していたことを思い出す。


《小学生からの幼馴染がたまに来てくれるんだ》


「ああ…あの時の」


そう呟くと、翔子はふっと息をつく。


「驚いた。結希が男の子と仲良くしてるなんて想像もつかなかったから」


「そう…」


正直、人と関わるのは得意じゃない。

ましてや、初対面の人間との雑談なんてもっと苦手だった。


今だって、さっさと帰るつもりだったのに、この吉田翔子という子は、僕の目の前に立ちはだかるようにして動かない。


「会いに行かないの?」


その言葉に僕は少しだけ目を伏せる。


どう答えればいいかわからない。

けれど、翔子はそんな僕の様子をじっと見て小さく鼻で笑った。


「ふーん、逃げるんだ」


「なに?」


思わず聞き返すと、彼女は肩をすくめた。


「結希ね、強がってるけど、本当はすっごく寂しがり屋だからさ。

なのにみんな途中で関わるのが怖くなって距離置くんだよ、昔から」


翔子の言葉が胸に突き刺さる。

まるで自分の心の内を全部見透かされてるようだった。


「別に、そういうんじゃ…」


言い訳じみた言葉が喉元まで出かけたけど、途中で飲み込んだ。

本当は自分が怖かっただけなんだと、うすうす気づいていたから。


「ま、いいけどさ」


僕はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


昼下がりの陽射しは相変わらず優しくロビーを照らしていたけれど、僕の胸のざわつきは、さっきよりももっとひどくなっていた。


ロビーの隅のソファに腰を下ろすと、翔子は自販機の缶コーヒーを片手に僕をじっと見つめた。


昼下がりの陽射しは相変わらず優しく差し込んでいるのに、ここに流れる空気だけが妙に重い。


「で、裕翔くん」


開口一番、翔子は静かな声で切り出した。


「結希のこと、どう思ってる?」


唐突すぎる問いだった。

思わず眉をひそめる。


「なんだよ、いきなり」


「いいから答えて」


逃げ道を塞ぐように、真っ直ぐな視線を向けられる。

その目にはからかいも冗談もなく、ただ真剣さだけが宿っていた。


「好き?」


その言葉に僕は息を飲んだ。

否定することも肯定することもできずただ口をつぐむ。


合理的に計算して、深入りしないよう距離を取ってきたはずだった。

でも、本当はとっくに気づいていた。

あの笑顔に救われていたことも、結希の存在が僕の中の世界を変えてしまったことも。


「分からない…」


自分でも情けない答えだと思った。

けれど、それ以上の言葉が見つからなかった。


翔子はふっとため息をつき、ソファの背もたれにもたれかかると、ポケットの中で何かを弄りながら口を開いた。


「結希ね、小学校の頃からずっと病院と家の往復だったんだ。

友達もできないし、学校の行事なんか一度も参加したことなかった。

それが何年も続いて、気づけば誰ともちゃんと話せなくなってて」


僕は黙ってその話を聞いていた。

言葉を挟む資格なんて、僕にはない気がしたから。


「結希はずっと独りぼっちだったんだよ。

唯一、私だけが夏休みになると顔を出してさ。花火も遠くから眺めるだけ。

運動会の練習の声を病院の窓から聞いてるような子だった」


翔子は言葉を選ぶようにゆっくりと話した。

その声には、彼女だけが知っている長い時間が滲んでいた。


「だからね、大学に入って、友達作って、遊んで、イルカショー行って、そんな話最初に聞いた時、正直驚いたんだよ。

結希が変わったんだなって思った。

でも、不安だったんだろうな」


その目が少しだけ細められる。


「自分だけ取り残されるのが怖くて、裕翔くんが離れていくんじゃないかって。」


胸の奥が痛くなる。

まるで今の自分の姿を、そのまま言い当てられてるみたいだった。


「僕は…」


言いかけて、拳を握った。


「僕は怖かったんだ。誰かを好きになって、傷つくのが」


それが、僕の正直な気持ちだった。

感情なんて無駄だと思ってた。

合理的に生きれば、痛みも後悔もなく生きていけるって、そう信じてたのに。


翔子はほんの少しだけ優しく笑った。


「みんな怖いよ。

私だってそうだった。

でもさ、結希は怖くてもあんたと一緒にいたいって思ったんだよ。

ずっと独りだった子が、勇気出して繋がったんだよ」


その言葉が胸の奥をぐっと突き刺す。


「僕…」


言葉にならなくて、拳を膝の上でぐっと握りしめる。

そのとき、翔子がそっと背中を押すように言った。


「行ってあげなよ。今度は、あんたが守る番だよ」


逃げる理由なんてもう、どこにもなかった。


「ありがとう」


小さく呟くと、翔子はふっと微笑んだ。

軽く笑うその顔は、さっきまでの鋭さが少し和らいでいた。


僕は立ち上がり、病室の方へと歩き出した。

足取りはさっきよりもずっと軽かった。


扉を開けると、いつものように結希が窓の外を見つめていた。

その横顔は、どこか儚くて、でもどこか強くて。


僕の気配に気づいたのか、彼女はゆっくり振り返り、そしていつもの笑顔を見せた。


「裕翔くん…来てくれたんだ。」


その声に、胸がいっぱいになる。

ベッドの傍に歩み寄り、彼女の目をしっかりと見つめた。


わずかに腫れて赤くなった目元。

きっと、さっきまで泣いていたんだ。


僕が気にしていることに気付いたのか、結希が顔を逸す。


「なんか、さっき目にゴミ入っちゃってさ。

痛くて擦ってたら、赤くなっちゃったみたい。」


わざと明るく振る舞ったその声は、すぐに空元気だと分かる。

僕はそれ以上何も言わず、ただ黙って隣に座った。


しばらくの間、部屋の中には沈黙の時間が流れた。

結希は窓の外を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「裕翔くん、私、裕翔くんに迷惑かけたくない。」


その声はかすかに震えていて、普段の強がりが嘘みたいに弱々しかった。


「こうしてみんなに心配されることも、全部。私のせいで負担になるのは嫌なの。」


言葉が止まって、彼女は小さく肩を震わせた。


僕はその言葉に胸が締めつけられたけど、今度は僕が強くならなきゃいけない。

ゆっくりと結希の手を取った。


「僕は君と一緒に生きるって決めたんだ。

迷惑なんて、そんなこと絶対ないよ。」


思いのままに言葉を紡ぐと、結希は微笑み手を握り返した。


彼女の笑顔が、僕のすべてを救ってくれているんだ。


もう、合理的だとか非合理的だとか、そんなの関係ない。


この世界に感情は無駄じゃない。

それを教えてくれたのは他でもない、結希だった。

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