第6話 君と水族館に行く話

7月も中頃に差し掛かり、入学式の華やかな雰囲気はすっかり消えていた。


普段はキャンパス内に浮ついた笑い声が響いていたのに、試験前になると多くの人は真剣な顔でノートをめくり、参考書を広げている。


僕もいつものように図書館で彼女と試験勉強をしていた。


横に座る彼女は、英語の単語帳をめくりながら時折ため息をついたり、僕のノートを覗き込んだりと落ち着きがない。


夕方になり、僕らは一息つこうと図書館を出た。

夕暮れに染まる並木道を歩きながら、ふいに彼女がスマホを取り出して僕に差し出してくる。


画面には、大きな水槽を泳ぐクラゲの写真と、水族館の屋上デッキから見下ろした海の写真。

潮風に吹かれる展望スペースの写真が、鮮やかな青空と一緒に映っていた。


「ねえ、今度さ、水族館行こうよ!」


唐突すぎて僕は思わず足を止める。

僕は少し考えて答えた。


「今、試験前だし遊んでる場合じゃないだろ」


「えー、いいじゃん別に。たまには息抜きしよ?」


彼女はいつもの調子で笑う。

この笑顔を見ると、結局僕は断ることが出来なかった。


「はぁ…分かった。行くよ」


そう答えると、彼女の顔がぱっと明るくなった。

彼女となら、無駄な時間を過ごすのも悪くないかもしれない。

そう思った。


水族館の当日。

朝から陽射しは容赦なく照りつけ、コンクリートから受ける反射光が目に痛いくらいだった。


開館時間に合わせて水族館の前に集合し、僕たちは入場ゲートをくぐった。


中に入ると、外の喧騒が嘘のように静かだった。

ほんのり潮の匂いが漂い、薄暗い館内には大きな水槽の青い光が静かに揺れている。


僕たちはまず、正面にある巨大なアクアリウムの前で立ち止まった。


水槽の中を無数の魚たちが群れをなして泳ぎ、天井から差し込む光に反射して、まるで水中に浮かぶ星のようにきらきらと瞬いていた。


「わー、クラゲきれい!」


結希は子供のように目を輝かせ、顔が付くくらい水槽に近付いて魚たちを眺めている。

その姿を見て、僕は思わず笑ってしまった。


その後、館内をゆっくり歩きながら、小さな水槽を一つずつ眺めた。

カクレクマノミ、ウツボ、タツノオトシゴ。

どれもそれなりに珍しかったけれど、彼女の反応がいちいち面白くて、魚よりも彼女の表情ばかりを目で追ってしまう。


ペンギンの餌やりコーナーに差し掛かると、ちょうど飼育員が小さな魚を投げるところだった。


すると小さなペンギンたちが一斉にばたばたと駆け寄り、魚を奪い合うようにして食べ始める。


「ねえ見て、あの子! 足元ふらついてる!」


彼女が声を上げる。

僕も目を凝らして見ると、一羽だけ転びそうになりながら必死に魚を追いかける小さなペンギンがいた。


その様子に彼女はもう我慢できず、お腹を抱えて笑い出した。


「なんかあの子、裕翔くんに似てるかも」


「それ、どういう意味だよ」


そう言い返すと、彼女はいたずらっぽく笑って、


「必死なとこがかわいいの」


と悪びれもなく言った。


僕は顔が熱くなるのを感じ、何も言い返せずに目をそらした。


イルカショーの時間になると、彼女が前のほう行こう!と張り切って僕の腕を引っ張った。


嫌な予感がしたが、結局断り切れず、ショー会場の最前列に座ることになった。


予想は的中した。

イルカが水しぶきを上げながらジャンプした瞬間、僕たちは頭から冷たい水を浴びた。


「きゃーっ! 冷たい!」


びしょ濡れになりながらも、彼女はケラケラと笑っている。

僕ももう諦めて、鞄の中からタオルを取り出し、無言で差し出した。


「ありがと」


結希が濡れた前髪をかき上げ、受け取ったタオルで髪を拭く。

その姿を見ながら、僕はふと、こんな風に誰かと出かけるのっていつ以来だろうと考えていた。


誰かと同じ景色を見て、同じことで笑って、くだらないことでからかわれて。

そんな時間をずっとどこかで遠ざけてきた気がする。


イルカショーを見た後、僕らは館内の小さなカフェに入った。

冷房の効いた店内は外の暑さが嘘のように涼しく、窓の向こうでは大水槽の青い光が揺れていた。


ドリンクが運ばれてきて、僕らはそれを片手にぼんやり水槽を眺めた。


「ねえ裕翔くん、もしさ」


結希が急に口を開いた。


「もし、私がいなくなったらどうする?」


「は?」


僕は思わず結希の方を見た。彼女は笑っていたけれど、その目は冗談のそれじゃなかった。


「何言ってんだよ急に」


「ううん、なんでもない」


彼女はそう言って、ストローをくわえた。

ソーダの泡が弾ける音が、小さく聞こえた。


僕は何も言えず、ただ水槽の中を泳ぐ魚たちをぼんやりと眺めた。

透き通った水の中を自由に泳ぐ魚たちの姿はどこか儚く、遠い世界のものに見えた。


水族館の閉館時間が近づき、館内の照明は少しずつ暗くなりはじめていた。


それでも僕たちは最後まで名残惜しそうに水槽を眺め、出口へと歩いた。


夏の陽射しはすっかり沈み、外に出るとさっきまでの賑わいが嘘のように落ち着いていた。


夜の水族館の周りは、静けさの中にイルミネーションの光がゆらめき、海面にはその灯りが揺れて映っていた。


「ねえ、最後に観覧車乗ろ?」


彼女が指さした先には、ゆっくりと回る観覧車があった。


夜空に浮かぶその輪は赤、青、黄色の光で彩られ、まるで空に咲いた大きな花火のようだった。


「別にいいけど」


正直、観覧車はあまり得意じゃない。

高いところは昔から苦手で、特にゴンドラの揺れがどうにもダメだった。


だけど、彼女ともう少しだけ一緒にいたいと、思ってしまっている自分がいた。


観覧車のゴンドラに乗り込むと、金属の扉が閉まり、静かに地上を離れていく。


窓の外には、水面に映るイルミネーションが広がっていた。


街の灯りが遠くに点々と瞬き、さっきまで歩いていた水族館の建物が小さく見える。


しばらく沈黙が続いた。

けれど、その沈黙が不思議と居心地悪くなかった。


僕たちは並んで外を眺め、少しずつ遠ざかっていく地上の景色を見下ろしていた。


ふいに、彼女がぽつりとつぶやく。


「裕翔くんと、こんな風に出かけられるなんて、思ってなかったな。

絶対、興味ないとか言うと思ったもん!」


その言葉に僕はどう返せばいいかわからず、気恥ずかしさに喉が詰まった。

それでも、なんとか口を開く。


「そうだね」


たったそれだけだった。

だけど、それで十分だった。

彼女はそれ以上何も言わず、再び外の景色に目を向ける。

その横顔が、どこかいつもより大人びて見えた。


ゴンドラがてっぺんに近づくにつれ、僕の心臓は早鐘のように打ち始める。


なるべく平静を装っていたけれど、足元がすうっと軽くなる感覚に耐えきれず、思わず目を瞑ってしまった。


その様子を見た彼女が、クスクスと笑う。


「裕翔くん、怖いの?」


からかうように、わざと窓の外を指差してみせる。


「怖くない」


僕は顔を背けながら答えた。

そんな僕を見て、彼女はさらに笑う。


「ふふ、かわいい」


「うるさい」


夕焼けの名残がわずかに残る空。

観覧車の中、ほんのりとオレンジ色の光に照らされた彼女の横顔は、まるで絵のようだった。


僕の心臓は、観覧車の高さのせいなのか、それとも彼女のせいなのか、今にも破裂しそうだった。


観覧車を降りると、あたりはすっかり薄暗くなっていた。


水族館の建物はライトアップされ、静かな水面にはその光が柔らかく映り込んでいる。


潮風が少しひんやりと肌を撫で、昼間のあのうだるような暑さはどこかへ消えていた。


「楽しかったね」


彼女が小さくため息をつきながらそう言った。

僕も自然とうなずく。


何気ない一日だったかもしれない。


でも、彼女と一緒に過ごした今日はたしかに僕の中で静かに、確かなものとして残っていた。


「次はどこ行こっか?」


不意に、彼女がそんなことを言う。

少し戸惑った。


これまで僕は、誰かと次の約束を考えるなんて事をしたことがなかったからだ。


それでも、彼女の期待に満ちた表情を前にして、僕は自然と口を開いていた。


「考えといて」


その言葉に、彼女は嬉しそうに目を細める。


「じゃあ、約束ね」


僕たちは水族館を後にし、駅までの道を並んで歩いた。


特に話すこともなく、静かな夜道。

でも、その沈黙は不思議と心地よかった。


潮の香りを運ぶ風が、少しだけ肌寒く感じる。


さっきまで賑やかだった水族館の音も遠ざかり、ただ波の音と足音だけが響いていた。


駅に着くと、彼女は改札の前で立ち止まり、僕の方を見上げた。


「今日はありがとう。またね」


そう言って、彼女は手を振った。

僕は胸の奥が、まだドキドキと高鳴っていて、上手く言葉が出なかった。


だから、せめてもの代わりに手を振り返した。


彼女はそれを見て、にこっと笑いそのまま改札を抜けていった。


改札の向こうで小さくなっていく背中を見送りながら、僕はようやく深呼吸をひとつ。


きっとまた、こんな時間を過ごしたい。


そんなことを思っていた。

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