アルク 第6章|交差する日常と異変。
静かな朝だった。
休日の梅田は、平日の喧騒が嘘のように落ち着いている。
岳は、自宅近くの喫茶店でモーニングを食べていた。
トーストとゆで卵、そして丁寧に淹れられたコーヒー。
シンプルなメニューに、どこか懐かしさを感じる。
(……こういう時間が、一番贅沢だな)
本を開きながら、コーヒーを一口。
目を通しているのは、最近再発行された『魔術社会における初動対応マニュアル』。
民間企業で活動する術士にも役立つと聞いて、最近読み始めたばかりだ。
そんな折──
入口のドアが、からん、と鳴った。
「……?」
ふと、視線を上げた岳の表情が、わずかに動いた。
入ってきたのは、スーツ姿の若い男性。
一見、ごく普通のビジネスマンにしか見えない。
だが──
(何か……変だな)
明確な“魔力の異常”ではない。
ただ、ほんの一瞬だけ、空気の流れが変わったような感覚。
岳の本能が、「注意しろ」と警告していた。
テレビでは、先週末に発生した呪詛士による集団拘束事件のニュースが流れていた。
画面には、アルクの社章が入った礼装をまとった術士たちの後ろ姿と、捜査関係者が並ぶ映像。
『なお、事件に関わった民間術士団体“アルク株式会社”は、関係者の身柄を速やかに引き渡し──』
その時だった。
若い男の表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
苦々しさとも、怒りともつかない、ごくわずかな感情の揺らぎ。
(……やっぱり、引っかかるな)
だが岳は、すぐに本に目を戻した。
(まぁ……どう思うかは人それぞれだしな。俺も今日はオフだ)
そう思い直して、コーヒーを啜る。
やがて静かな朝の時間は終わり、地下街へと足を向ける。
場所は変わって、難波にある高層ビルの会議室。
呪詛士による事件の対応を協議するため、MRO主催の会議が開かれていた。
アルク代表・楠原静、玖珂家副当主・玖珂彩夢、そして関東の大手術士企業・フィフス・エレメント(FE)を含む各地の民間術士団体が顔を揃える。
MRO職員が議題を読み上げる。
「先週末、大阪・梅田周辺にて発生した術式干渉事件について、関係各位による初動対応および調査方針を議論いたします」
最初に発言したのはFEの技術責任者。
スクリーンに映されたのは、魔力反応の波形データだった。
「ご覧ください。大阪で観測された反応と、北関東で発生した召喚事件時の反応です。
構成・増幅・放出……全てが類似しています」
会議室に緊張が走る中、彩夢が静かに口を開いた。
「確かに似てはいますが、術式の性質が違う。
関東は“降霊式”、今回の大阪は“吸収式”。
さらに、結界構成も異なります。比較するには、少し飛躍が過ぎるのでは?」
FE側は食い下がる。
「……それでも出所は同じ可能性がある。召喚術式の残響を誰かが模倣している可能性だって──」
静がゆるく笑みを浮かべ、口を開いた。
「可能性の話をしだせばキリがありません。
現場で術式の中に踏み込んだのは、うちの社員です。
報告を基に、もう少し精度の高い議論をしましょう」
FEはわずかに眉をひそめるがそれ以上は言葉を飲み込み、議論は一段落。
MRO職員がまとめに入る。
「本件は、複数の民間術士団体に調査協力を依頼します。
アルク、イーグレット、ニアブリムの三社に現場分析を要請。
また、御三家には引き続き情報提供の協力をお願いしたく……」
そのときだった。
バタン、と扉が開く。
MRO補佐官が慌ただしく駆け寄る。
「失礼します。緊急事態です──梅田地下街にて、広域魔力干渉を確認。
呪詛反応あり。複数の一般人が巻き込まれています」
彩夢が椅子を引く音が響いた。
「……まさか」
静はスマホを耳に当てる。
「すみか、今どこ? ……現場に急行して」
会議室の空気が、一瞬で緊張に包まれた。
今日は木曜日。
先週土曜日が出勤だったため、岳は代休を申請していた。
(先週、坂本さんと話してたな……)
──土曜日、勤務を終えたあと。
「そのうち、依頼人にかけられた呪詛も消せるようにならないとな。
呪詛を魔力探知で知覚して──結び目をほどくような感じだ。
最初は人形か何かで練習していくしかないなぁ」
「最初は……無機物で慣れて、次は小動物とかですか?」
「いや、豆腐だな。
結び目は繊細だ。強引にやると対象が崩れる。
生き物にやるのは、豆腐から呪詛をきれいにほどけるようになってからだ」
「た、たしかに……小動物で失敗したらまずいですよね……」
「呪詛をほどくのは、すみかが得意だ。
今度、魔力探知しながら動きを見せてもらうといい」
「了解っす!」
──そんなやり取りを思い出しながら、
岳は梅田の地下街を歩いていた。
(意外だな……完全に○○ウーマン系の見た目してるのに)
(魔力に目覚める前は、こんなところまでわざわざ来ることもなかったな)
ふと顔を上げると、
『ナガバシカメラ』と書かれた高層ビルが目に飛び込んできた。
岳が若い頃にできた大型電気店だが、
梅田周辺の再開発によって、今では電気店だけでなく様々な施設が入るビルへと変わっている。
目的地はそのビル内にある映画館だった。
岳は昔から、コメディ要素のあるホラー映画──ゾンビラッシュシリーズがお気に入りだ。
(久しぶりだな、映画観るのも)
そう思った瞬間。
──グラリ。
視界が揺れる。
(めまい……? 地震か?)
反射的に、へその下に意識を集中し、防核術式を展開していた。
(……違う、呪詛だ)
すぐに確信した。
周囲を見回すと、
魔力抵抗の高い者たちは壁に寄りかかり、息を荒げている。
抵抗の低い者たちは──
その場に倒れ込み、顔が溶け始めていた。
(これ……エナジードレインか!?)
岳は背筋を凍らせた。
(まずい、普通にしてるとこれを放った奴に気づかれる……)
──そのとき。
「よう、兄弟」
背後から、しゃがれた声が聞こえた。
岳は苦笑いしながら、軽く手を上げた。
「ハハハ……今日はオフなんで、見逃してくれませんか?」
背後から聞こえた返事は、低く、しゃがれた声だった。
「ん? わしはオンの日だが?」
(──あー……無理そう)
岳は内心でため息をつき、覚悟を決めて振り向いた。
そこに立っていたのは、
顔を黒子で覆った、痩せた男だった。
岳が不思議そうに覆面を見つめると、男は気づいたのか、肩をすくめた。
「あー、これか。
監視カメラは魔法で誤魔化せても、対面すると面倒だからな」
男は覆面を指先でちょんと弾き、苦笑交じりに言った。
「それよりも──お前、この術式の中で平然としてるな。
旧局の人間か?」
旧局──かつて存在した国家魔術監理機関。
岳は小さく首を振った。
「いや、旧局の人間がいきなり『見逃して』とは言わんか」
覆面の男はじっと岳を見つめ、次の推測を口にした。
「……MROか。民間の術士集団──なるほど」
男の目が、じわりと笑みを帯びる。
「お前さん、若いわりに肝が据わっとるの」
覆面の男が、しゃがれた声で笑った。
岳は、軽く肩をすくめながら答えた。
「実はこれでも、長生きしてるんですよ!」
次の瞬間。
岳の拳が地面を叩きつけた。
──ゴッ──!!
抉れたアスファルトが飛び散る。
拳に集中させた魔力密度は、黒。
黒密度の魔力であれば、通常の術式なら触れるだけで破壊を促すはずだった。
だが──
「あれ?」
岳は、不思議そうに地面を見つめた。
確かに地面は抉れたが、周囲に仕掛けられていた呪詛陣には影響がなかった。
「──あー、お前さん、黒なのか。そりゃすごいわ」
覆面の男は、感心したようにうなずいた。
「わしも七十年近う生きとるがな……黒を見るのは初めてじゃ。
確かに黒で術式に触れれば崩壊を促せる。──が、そんな甘いもんじゃないぞい」
男はゆるりと笑みを浮かべた。
「わしらが苦労して仕込んだ陣だ。
触れたくらいで崩れるなら、苦労はせんわい」
(──わしら、か。やはり複数いる……)
岳は内心で警戒を強めた。
(だが、術士本人を叩き伏せれば……陣も止まるはずだ)
握った拳に、じわじわと魔力が集まる。
「──蛇!」
呪詛士が短く叫んだ瞬間、
その掌から、大小さまざまな黒い蛇がうねり出した。
(速い……!)
岳はすぐに理解した。
無属性魔法──術式理解さえできれば、発動時の呼称は何でも構わない。
「蛇」はあくまで合図、呼び水にすぎない。
岳は素早くカバンを開けた。
訓練時に田村 陽翔から渡されたモデルガンを引き抜き、
そこに黒密度の魔力を叩き込む。
──バン! バン! ババン!!
黒い弾丸のように魔力が発射され、
迫り来る蛇たちを次々と撃ち砕いていく。
だが──
(……数が、多すぎる!)
撃ち落とすそばから、次々と新たな蛇が群れを成して迫ってくる。
やがて岳は、幾本もの蛇に絡み取られ、動きを封じられてしまった。
「うむ……持ってるモノは良いが、技術も経験も皆無に等しいのぉ」
覆面の呪詛士がにやりと笑いながら近づいてくる。
「覚醒型か? それとも封印型の成れの果てかのぉ。──うちにこんか?
悪いようにはせんぞ」
蛇の束縛に抗いながら、岳は苦笑いを浮かべた。
「ハハ……弱い者いじめは、やる側もやられる側も嫌なんで。
遠慮しときます」
「……仕方ないのぉ。残念じゃが──」
呪詛士が手をかざすと、蛇たちの締め付けが強まる。
殺意を孕んだ魔力が、徐々に岳を締め上げようとした、そのとき。
──ドォン!!
「うおおおおおおおおおお!! そこまでだあああああああ!!」
元気いっぱいの声が響き渡った。
あり得ない速度で地面を駆ける人影。
それは──すみかだった。
バルトーザで強化された筋力と魔力を拳に宿し、
すみかは迷いなく蛇へと飛び込む。
──ドン!!
拳が蛇を捉えた瞬間、
束縛していた魔法の蛇たちは一撃で砕け散った。
解き放たれた岳は、驚き混じりに目を見開いた。
(……すみか、速すぎるだろ……!)
目にも留まらぬ速さ。
鍛え上げたフィジカルと、魔法による身体強化。
礼装武器に頼らずとも、彼女は十分に戦場を駆ける力を持っていた。
すみかの強化されたフィジカルが、その場を制圧していく。
呪詛士もまた、予想外の事態に目を細めた。
「──ふむ。おもろい」
蛇を砕いたすみかが、にやっと笑う。
「うちの新人、いじめるなんて許さないからねー!」
騒ぎを聞きつけたMRO加盟企業の術士たちが現場に駆けつけ、
さらに国家機関──旧局の制服組も制圧のために動き出していた。
呪詛士は苦笑いを浮かべ、肩をすくめる。
「……ある程度の素材は集められたかのぉ。
ここからは逃げの一手じゃ!」
男の身体が無数の蛇に包まれ、溶けるように消えていく。
「逃がさない!」
すみかが拳に魔力を集中させ、全力で蛇を砕きにかかった。
しかし、拳が叩き潰したのは、ただの残骸だけだった。
呪詛士の姿は、すでにどこにもなかった。
(……逃げられた)
岳は悔しさと無力感に唇を噛む。
現場を包む張り詰めた空気。
自分にはまだ──この世界のすべてを知る力がないことを、痛感する。
ふと、胸の奥に、
漠然とした、言い知れない不安がよぎった。
(──これは、ただの始まりに過ぎないのでは……?)
明確な根拠はなかった。
だが、あの呪詛士の言葉、術式、異様な規模。
どれもが、この出来事が単なる偶発ではないことを告げているように思えた。
ふと、耳元で誰かが名前を呼ぶ声がした。
「……岳くんっ、しっかりしてよ……!」
少し震えたような声。
普段は明るい彼女の、隠せない焦りと優しさが滲んでいた。
(……ああ、すみかさん……?)
その声に安堵しながら、岳は静かに意識を手放した。
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