第5話
鼓動がうるさい。それなのに、まるで血が通わなくなったかのように、寒い。
怖い。怖くて仕方ない。緊張している。半端でない、異様な緊張だ。
だというのに、確認しないと気が済まなかった。見たくないのに。というか、見ないほうがいいだろうという予感があるのに、見ないわけにはいかないという強迫観念がある。
赤黒い汚れのこびりついた石壁に身体を寄せ、角から顔を恐る恐る出して様子を窺う。
「――ッ、ぅっ、ぅん」
思わず悲鳴を上げそうになって、イケナイッ!と必死に吞み込んだら喉というか胃の辺りに空気が溜まったようになって、そのせいかゲップが出そうになって、なんとか鼻から空気を逃がすことができた。嫌な臭いだった。同じことを再度やれと言われても無理だ。
気を落ち着けようとして意識的に呼吸を緩慢にしてみたけれど、むしろ呼吸そのもののリズムがおかしくなってしまって息苦しくなるだけだった。深呼吸がしたいのに、動転してしまっているせいか、上手くできない。喉の筋肉が不自然な収縮を繰り返している感覚。左手を首筋を揉む。ちっとも改善されない。しょうがない。それだけの衝撃だったのだ。
悲鳴を堪える一連の流れで引っ込めていた顔を、再び、角からチラリズム。
今度は悲鳴を上げたいとはならなかったが、恐れや緊張感がなくなったわけではない。
なくなるわけがないのだ。
だってそこに、明らかに異様な存在がいるのだから。
ソレは、アイツに――『ヒト
やたらと細長い両手両足は青紫色で、頭部はカマキリのそれを巨大にしたようなもので赤黒く、背中からは綺麗な蝶の翅みたいなものが生えている。人間のような二足細工をしているが、明らかに人のそれとは違う気持ち悪さがある。一見、強そうには思えないモデルだ。ただただ歪で、気持ち悪い造形。けれど、序盤も序盤の雑魚と侮ってはならない。初期ステータスでは、攻撃をまともに二発喰らえば死ぬ。即ゲームオーバーだ。
……どういうことだ。どういうことだよっ! アレッ!
どう見ても、アレは生きている。コスプレには到底思えない。テーマパークのキャストさんにも見えない。もしもあれが、誰かの演技だというなら、凄まじい役者ぶりだ。アノ両手両足の尋常でない細長さも、着ぐるみや特殊メイクには思えないカマキリ頭も、背中から生えている美しい翅も、すべてが創作物であるというなら、あまりに神がかっている。
……違う。違う違うッ。あれは作りものだ、作りものに決まってるだろ!
本物なわけがない。そもそも本物かどうかなんて考えること自体、おかしい。おかしいだろ。だって本物か偽物かって、それはつまり、ここがゲームの世界かそうじゃないのかってことだ。あり得ない。ここは現実。現実に決まっている。
だから、ほら、アレは人だ。誘拐犯か、または、誘拐犯の関係者に決まっている。
オレたち三人をここへ連れてきた元凶、またはその仲間の危険性があるから話しかけることはできないし、見つかるわけにもいかないが、万が一のときは戦おう。
あれは、人。所詮、人。自分と同じ、人。
四肢はあんなに細いんだ、喧嘩なんてオレはしたことないが、力勝負になったら負けないんじゃないか? そうだ、大丈夫、だから、行ってみよう。
……、……、……。震える、脚が。怖くない、怖くない怖くない怖くないっ、怖くないって! どうせ人なんだっ、人なんだからっ! それに頭っ! あんなカマキリ頭を被ってんだ、まともに見えてないんじゃないか? 襲いかかられたって、力任せに殴るなり体当たりなりすれば、やってやれるはずだ。そうだ、なんならこちらからやってやったっていい。後ろから先制攻撃だっ!
誘拐犯の一味の可能性が高いんだ、遠慮なんてするな。ここから三人で脱出して警察に助けてもらって、この事件の調査が進展したときに、実はただの無実の一般人でした~ってなったら、そのときは全力で謝ろう。土下座でもなんでもすればいい。こんな状況だったんだ、そのときのこちらの精神状態も酌んでくれるはず。
……やってやろう。スマホを持っているかもしれないから。奪って通報するんだ。
やると決めたら、早くしたほうがいい。
ヤツは、こちらを向いていない。立ち止まり、落ち着きなくカマキリ頭をぴくぴく、ぴくぴくと震わせながら上下左右に傾けている様は、本当にゲームの『ヒト蟷螂』の動きにそっくりだ。ああ凄い、凄い凄い凄いっ、凄い演技力だよまったくぅ~、あ~演技演技演技演技演技ぃぃぃ~い。
大丈夫だ、あんなのヤツ。
怖くない。
覚悟を決める。
思いっきり、どついてやろう。腰、腰だ腰、腰を狙ってやれ。
やる、やるんだ。
行けっ、オレ!
駆け出す。
近づいていく。
あとちょっと、あとちょ――あ――「ううっ」
転んだ。足がもつれて、勢いそのままにダイブした。顎を地面に打った。痛い。胸を腹を腰を打った。痛い。何カ所も擦りむいた。痛い。目がチカチカする。痛い。
「――ぎじゃあぁぁぁぁぁあっっっ!」
ざらつきがあり、甲高くもある、聞くに堪えない音が上から降ってきた。
とても聞き覚えがあった。スピーカーを通して、ヘッドホンを通して、何度も何度も何度も聞いた音だ。
『ヒト蟷螂』の、プレイヤーを見つけたときの威嚇に、そっくりだった。
視界が暗くなる。
すぐ真上に、いる。
いるのが、わかる。
見たくなかった。
見れるわけなかった。
次の瞬間、背中の至るところに強烈な痛み。
「……、……、……、――――」
呻くこともできないほどの痛みを感じて数秒後、痛みを感じることもできなくなった。
何も、わからなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます