天才的器用貧乏


 懐かしい玄関の扉が、今にも彼女の後ろ姿を飲み込もうとしていた。


「ちょっと待った! それ何?」


 自己紹介で「どうも」と軽く頭を下げたきり沈黙を守っていたノリくんが(滝口ともえの暴言が意外に堪えていたのだろうか)、初めて彼女に話しかけた。


 振り向いた神原桂子かんばら けいこはノリくんの視線を受け、話している間に無意識に捻り潰していたアルミパックに目を落とす。


「何って……さっき飲んでたゼリー飲料の、カラ?」

「まさか、それで昼飯終わりじゃないよね?」

「終わりだけど。この後バイトあるから」


 ノリくんが絶望的な表情で両手を広げた。


「そんなものは、食事とは呼ばない!」


 彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。僕だって、人生最大級のキョトン顔だ。


「なんで? 手軽に栄養取れて便利だよ。わりと美味しいし」

「そういうのはあくまでも栄養補助食品であって、食事はちゃんと摂らないと」

「たまにサプリも飲んでる」

「だ・か・ら! 君は本当に体育大学の学生か? なんか、栄養学とか? そういうのは学ばないのか?!」

「知識としてはあるけど……別にいいじゃん? 面倒だし」


「あああ、もう!」


 平素のアンニュイさは何処へやら、天を仰いでもどかし気に叫ぶノリくんの肩を叩く。どうした、ノリくん。


「何? 僕もよくやるけど、そんなに駄目かな?」

「駄目に決まってるだろ?! せめてパスタぐらい作れ!」

「えー、めんどくさーい」

「僕も自炊はあんまり。ノリくんって、意識高い系?」

「あー、『丁寧な暮らし』ってやつか。アタシ、意識低い系の『手を抜いた暮らし』のが好きなんで」


「お前ら……」


 さすがは料亭のお坊ちゃま、食への意識の違いに愕然としている。でも普通の学生やフリーターなんて、こんなもんだ。


「わかった、俺が奢る。だからまともな飯を」

「悪いけどアタシ、無闇に奢られるの嫌いなの。意識は低いけど割り勘派です」

「僕は喜んで奢られますけど」

「お前はついでだ!」


 またもや「君」から「お前」呼びに降格された。ま、僕の方が年下だし、構わないんだけどね。しかも奢ってくれる気はあるんだ……



🎬




 と言うわけで、僕らはこうして神原家のダイニングテーブルに着席している。


「突然お邪魔しちゃって、ほんとすみません」

「いやいや、久しぶりに来てくれて嬉しいよ。立派になって」


 深々と頭を下げた僕に、彼女の祖父である神原達也氏が温かい笑顔で応えてくれた。


 中学の三年間、僕は彼女と同じ学校に通っていた。

 当時からスポーツ万能、才色兼備だった彼女は、あちこちの部活から頼られる存在だった。他校との練習試合に怪我人の代理で出場したり、文化祭の舞台で演劇部の劇にゲスト出演したり。

 それは今も相変わらずで、あちこちの演劇サークルや小劇団の公演に客演していた。特にアクションやアクロバティックな演技が得意で、女性では珍しいために引っ張りだこなのだ。舞台だけでなく学生映画の世界でも、彼女の名は知られていた。



「あの頃はよく、桂子を送ってきてくれたねえ。ありがとう」


 この人は博識なうえに誰に対しても丁寧で、僕の尊敬する人でもある。


「いえ、帰り道の途中でしたし。逆に僕も、カコちゃんに勉強たくさん教わりましたから」

「その呼び方、懐かしいねえ。この辺はだいぶ変わったろう」


 カコちゃんとは、神原桂子の中学時代のあだ名である。ケイコという名の女子が複数いたため、名前の最初と最後を取ってそうなったらしい。


「僕が住んでたアパート、駐車場になってました」

「ああ、そうか。駅の方はもう、昔とはまるで違う町みたいだよ。お隣さんも亡くなったしねえ」

「あの、元大女優っていう?」

「そうそう。さほど付き合いはなかったけど、それでも寂しいもんだ」


 そう言って、我が物顔でキッチンで腕をふるうノリくんに目をやる。彼は簡単な自己紹介だけ済ませた後、コンロの前を陣取りテキパキと立ち働いていた。


「あ、彼は僕の大学の先輩でして」

「なんか玄関先で散々説教した挙句、ご飯作らせろ! って乗り込んできたの」


 くるりと振り返ったノリくんが、手にしたトングをカチカチいわせて威嚇しながら反論する。


「奢りがイヤならうちで作るって言ったのに、断ったのはそっちだろ。『一人暮らしの男の家になんか行くかボケ』って」


 トングを持ったまま両腕を開き、やれやれと首を振ってみせる。


「この俺が、初対面の女性を襲うような男に見えますかねえ」

「そういう話じゃなくて、アタシは常識として言ってるわけ」

「君が常識を語りますか」

「何よ、昼食にゼリー食べたぐらいでわぁわぁ煩いな。ってかアタシ、ボケとか言ってないから。そんな下品な物言いはしません。ほんとだよ、じーちゃん」

「はいはい、わかってますよ」

「そちらは初対面女の子を襲うらしいですけど」

「……またそうやって言葉尻を捉えて」


「まあまあまあ、二人とも」


 ノリくんはフライパンやら包丁やらを魔法みたいに操りながら、滔々と説き始めた。

 食において日本がどれほど恵まれた環境にあるか。食材の品揃えと質の高さ、物流の素晴らしさ、生鮮食品を扱う店舗の豊富さ。それらに感謝し大いに利用すべきだとノリくんが唱えれば、彼女がすかさず混ぜ返す。

 日本の外食や中食の手軽さ、完全栄養食や栄養補助食品の優秀さは絶賛に値する。安くて美味しいんだからいいじゃないか、と。

 

 僕はといえば、達也氏にずっと「うるさくてすみません」と謝っていた。彼は「どっちも間違ってないねえ」と楽しそうに笑ってくれた。




🎬



 ノリくんの振舞ってくれた食事は素晴らしかった。


 メニューは彼女のリクエストで、ハンバーガーとポテト。カリッと焼いたバンズに、新鮮なトマトと新玉ねぎ、丁寧に折り畳まれたシャキシャキレタス。主役はもちろん、国産牛の切り落としを叩いて作ったジューシーなビーフパテ。謎の和風ソースが堪らない。そして揚げたてアッツアツの、皮付きポテト。

 副菜の、夏野菜のマリネも絶品だった。ご近所さんからいただいたというナスをごま油で揚げ焼きし、採れたてミニトマトとたっぷりのミョウガ、どっさりおろし生姜と酢醤油で和えてよく冷やす。酢醤油のキリッとした酸味が油でまろやかになり、野菜エキスの甘味に生姜の爽やかさな辛味が加わる。とろけるナスと、ミョウガのジャキジャキ食感の対比も楽しく、ひんやり冷えた一品は無限に食べられそうである。

 おまけにデザートは、こちらもご近所からのお裾分け、大量の枝豆を使ったずんだシェイク。



「いやぁ……美味かった。ごちそうさまでした」


 最初に手を合わせたのは彼女のじーちゃんだった。歳に見合わぬ健啖ぶりで、ペロリと平らげてしまったのだ。


「私までご馳走になっちゃって、悪かったね」


 いや、ほとんどお宅の食材ですし……


「私はどうも、料理が不得手でね。台所は桂子に任せっきりで」

「えっ」


 「ごちそうさまでした」と満足げな吐息を漏らしたカコちゃんが、手を合わせたまま僕らを軽く睨む。キュッと切れ上がった目尻に、一瞬ドキッとしてしまう。


「アタシ、めんどくさいとは言ったけど料理ができないとは言ってない。朝ご飯は一応作るし」


「ん? あれ?」

「そういえば……言ってない、か」


 さっきまでの会話を思い返し、僕とノリくんは揃って頭を下げた。


「料理できないって決めつけて、ごめん」

「偉そうに説教して、すみませんでした」


 そりゃそうだ。何でも人並み以上にできちゃう彼女が、料理だけできないわけがない。ノリくんもノリくんで、辺境国の田舎を旅して現地の食糧事情を見てきたばかりだったから、つい熱くなってしまったらしい。

 男二人で縮こまっていると、彼女は明るく笑い飛ばしてくれた。


「まぁ、言ってもアタシのは手抜き料理ばっかりだしね。あんな美味しい料理4人分を、1時間やそこらで作るなんて到底無理。しかも買い足したの、パンとアイスだけって」

「タクシーでスーパーに乗りつけて、待たせたままでサクッと買い物しちゃうのにはびびったけどね」

「そうそう! おぼっちゃまは違うわ〜って思った」


「だって、この後出かけるって言ってたから……」

「バイトは夕方からなの」


 赤面したノリくんが、両手で顔を覆ってテーブルに突っ伏した。



🎬



 皿を洗い終えた僕は彼女に向き直り、改めて頭を下げた。


「カコちゃん、映画の話、やっぱりもう一度考えてもらえないかな」


 彼女はしばらく言葉を選んでいる様子だったが、やがて手にしていた布巾を畳んでテーブルに置いた。



「……美味しいお食事のお礼がわりに、正直にいうけど。実は気づいちゃったんだよね。アタシ別に、演技が好きなわけじゃないんだって」


 ん? どゆこと?


 首を捻る僕に、彼女は肩をすくめて笑った。


「アタシね、その、体質? みたいな感じで、平常心を保つために心身を厳しくコントロールする訓練が必要なの。それで昔から、いろんな習い事や運動を積極的にしてきたんだけど」

「ああ、うん。なんか色々やってたね。全部優秀だった」

「そりゃ死活問題だもん。体育大に進んだのも、運動の機会や鍛錬の手段が格段に多いからだし」

「……なるほど」


 体質ってのはよくわからないけど、とにかく、彼女が色々やってたのは必要に迫られてのことだったわけか。

 ノリくんがスマホを取り出し、何やらメモを取り始めた。



「で、中でも演劇はその訓練に都合が良かったの。ほら、腹式呼吸とか発声の抑揚、細やかな動き、表情作ったりとか、同時に色々やらなきゃじゃない? それに、演じる役柄によって色んな体験ができるから、訓練に丁度いいのね。所謂ロープレってやつ」


 ロールプレイ。与えられた役割を演じることで、実践的なスキルを身につける方法だ。ふむふむ、それで?


「で、どんな役も割と上手くこなしちゃえたわけ。ご存知の通り ” 秀才 ”だから」


 彼女はおどけた仕草でニッと笑って見せた。


「でもね……本当に演劇を愛してる人の努力って、凄い。血反吐を吐く勢いでもがいて悩み抜いて。そうやって、特別な何かを掴むの」


 少しだけ俯いた彼女の眼に滲むのは、諦めではなく、憧れめいた感情だ。


「演技に限らず、物事への凄まじい執着や愛情って、それだけでもう天賦の才だよ。あの熱量にはとても太刀打ちできない。正直、打ちのめされたし、羨ましかった。アタシなんて、ただの器用貧乏だもん」


 真面目顔で、彼女は僕をまっすぐに見た。ついさっきまでそこにあった微笑の名残は、跡形もなく消えている。


「自分のために演劇を利用していたくせに、ちょっと褒められていい気になってた。そんな人間は、演劇界ここに居るべきじゃないって思ったの。この人たちに失礼だって」


 彼女は僕とノリくんに向き直り、深く頭を下げた。


「だから、やっぱりお受けできません。本当に、ごめ」「待って! そんな君だから、いや、君にしかできないんだ!」



 おせっかいが僕の長所。諦めが悪いのが僕の才能。そしてしつこさは、僕の覚悟。

 頼むよ、僕のヒーロー。カッコいいカコちゃん!



「仮タイトルは『〇〇の激走』。困った人々の代役をこなす主人公が、彼らの人生を変えていく話。まさに、ロープレ」

「ロープレ……」

「これは、君のための役。 ” 天才的器用貧乏 ” な君のための役だ」


「天才、的…?」

「そう。天才的器用貧乏。君のこと」


 頭の上に「?」が浮かんでいる彼女を見て、ノリくんがご機嫌な声で笑った。


「上手い。言い得て妙だねえ。当て書きのしがいがありそうだ」


 彼女もつられて笑う。


「何よ、それ。ちょっと面白いけど」

「よし、それじゃ決まり。で、いいね?」


 有無を言わさず彼女の手を取り、ノリくんの手も引っ張ってきて、最後に僕の両手で二人の手を挟み、重ね合わせた。 


「では脚本と照明に続き、主演とお料理担当が決定しました。二人ともありがとう!」

「もう、強引だなぁ」

「料理担当って、えっ俺? ……え?」


 突然の料理担当抜擢に、ノリくんが動揺を見せる。

 

「だって、主演女優は健康でいてくれないとね」




 何の気なしに口にした言葉が、心臓を内側から切り裂いた。

 堰を切ったように溢れ出た涙が頬を流れ落ちていくのを、僕は茫然と感じていた。




🎬


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