第16話 魔王の饗宴
都心にそびえ立つ高層ビル。その最上階にある橘梓のペントハウスへと続くエレベーターの扉が、静かに開いた。桜井ヤスノリ、池田大吾教授、そして藤原聡美の三人は、覚悟を決めた面持ちで、その豪華絢爛なエントランスへと足を踏み入れた。
煌びやかなシャンデリアが天井から吊るされ、大理石の床には光が反射して眩しい。壁には抽象画が飾られ、部屋全体から漂う高価な香水の香りに混じり、微かに、しかし確かに、甘く魅惑的な何かが漂っている。それはまるで、熟れた果実がかすかに放つ芳香のようで、意識せずとも人の心を惹きつける。橘梓はこの日のために、かつてないほどの魔力を静かに溜め込んでいたのだ。その強大な力は、彼女自身も意識しないまま、微細な波紋のように空気中に漏れ出し、この空間全体を支配し始めている。その魔力は、視覚にも影響を及ぼし、薄暗いエントランスの空気は、わずかに、しかし確実に、深みのある妖しい紫色を帯び始めていた。 池田教授は、その目に見えない圧力に早くも息苦しさを覚え、無意識のうちにネクタイを緩めた。
「ほう、随分と豪勢な場所ですね。まるでどこかの悪徳企業の会長室か、はたまた悪の秘密結社のアジトのようですわ。」
桜井は、周囲を見渡し、不敵な笑みを浮かべた。彼のTシャツにプリントされた「I'll be back」の文字が、この場所に相応しくないほど軽妙に映る。彼の表情には、緊張よりもむしろ、新たな戦いへの高揚感が漲っているかのようだ。しかし、彼もまた、空気中に漂う微かな異質な感覚と、空気の色の変化を、本能的に感じ取っていた。
藤原は、桜井の言葉には反応せず、自身のタブレットに何やら入力している。その分厚いメガネの奥の瞳は、部屋の隅々に設置された監視カメラの位置や、音響設備の詳細を解析しているかのようだった。彼女のタブレットのセンサーは、通常の電磁波とは異なる、微弱なエネルギーの流れと、空間の色情報の変化を捉え始めていた。
案内された執務室は、さらに洗練された空間だった。壁一面が窓となっており、東京の夜景がパノラマで広がっている。中央には、重厚な木製のテーブルと椅子が並び、その奥には、革張りのソファに深く身を沈めた橘梓が、深紅のワイングラスを傾けていた。彼女の肌に吸い付くような薄い生地のブラウスは、鎖骨の美しいラインから胸元にかけての艶めかしい曲線を惜しみなく晒し、スポットライトを浴びて妖しく輝いている。彼女の周囲の空気は、より一層濃密な甘い香りを帯びており、それは視覚的な美しさだけでなく、本能的な陶酔感をも人にもたらすようだった。そして、その空気は、エントランスよりもさらに濃い、深い紫色の靄(もや)を帯び、部屋全体が妖しい光に包まれているかのようだった。 影山徹の白い貌は、その魔力の奔流の中で、一層陰鬱さを増しているように見える。
「よくいらっしゃいました、筋肉弁護士・桜井ヤスノリ様。そして、池田大吾教授、藤原聡美博士。私の饗宴へようこそ。」
橘梓は、ワイングラスをサイドテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。その仕草一つ一つが、計算されたかのように優雅で、それでいて有無を言わせぬ威厳を放っている。彼女の唇には、微かな笑みが浮かんでいるが、その瞳の奥には、彼らを品定めするような冷たい光が宿っていた。彼女が立ち上がった瞬間、周囲の空気の密度がわずかに増したように感じられたのは、溜め込まれた魔力がさらに強く発露し始めたためだろうか。部屋を包む紫の靄も、彼女の動きに合わせて、わずかに揺らめいた。
池田教授は、橘梓の姿を見た途端、再び胃がキリキリと痛み始めた。彼女の演説で感じた抗い難い「魅惑」の記憶が蘇るだけでなく、今はさらに、言葉にできない強い圧迫感のようなものと、目の前の紫色の空気に襲われていた。全身から冷や汗が噴き出す。
しかし、桜井は、その魔王のような存在感を前にしても、怯むことなく、むしろ堂々とした態度で一歩前に出た。彼が装着している藤原特製のノイズキャンセリングイヤホンとサングラスに仕込まれた視覚フィルターレンズは、橘梓の魔力を軽減するための補助的な役割を果たしている。それでも、肌に直接触れるような、甘くねっとりとした魔力の感触と、空気の色が変わっている現実を、彼は確かに感じ取っていた。
「橘梓さん。ご招待、感謝いたしますわ。しかし、ここは随分と豪華な巣窟ですね。まさか、信者の方々からの寄付で建てられたとでも言うつもりですか?」
桜井は、挑発するかのように言い放った。彼の声は、自信に満ち溢れ、この空間に不釣り合いなほど力強く響く。彼の内には、「真実の共鳴」が、周囲の異質な力に呼応するように、静かに、しかし確実に活性化し始めていた。
橘梓は、その言葉に微かに眉を上げた。しかし、すぐに笑みを深め、桜井をじっと見つめた。彼女の瞳の奥には、自信と、そして微かな愉悦の色が宿っている。それは、自らが蓄えた強大な魔力に対する絶対的な自信の表れだろうか。彼女の視線が向けられると、周囲の紫色が、わずかに濃くなったように見えた。
「ふふふ…流石ですね、桜井弁護士。早速、私の本質に切り込もうとするとは。『筋肉』だけでなく、『知性』も兼ね備えていると聞いておりましたが、噂以上ですね。」
彼女の声は、甘く響き、まるで聴衆を魅了する演説のように、桜井の精神に直接語りかける。その声には、言葉以上の魔力が宿っているかのように、聞く者の魂を優しく撫で、そして絡めとろうとする。しかし、桜井は、その言葉の甘さに惑わされることなく、彼女の瞳の奥に潜む「本質」を見据えた。彼の脳内では、橘梓の言葉に含まれる感情誘導の波形が、まるで水面に石を投げ入れたかのように広がるのを認識していたが、それを「反響の壁」で跳ね返す。同時に、周囲に満ちる魔力の流れを、彼の「真実の共鳴」がわずかに揺さぶり始めているのを、彼は感じ取っていた。彼が強く意識すると、周囲の紫の靄が、ほんの少し薄くなったように見えた。
「感謝してもしきれません。橘梓さん。あなたのおかげで、私の『愛の筋肉』は、また一段と強化されましたからね。」
桜井は、自身の腕の筋肉を軽く叩き、不敵な笑みを浮かべた。彼の言葉には、橘梓の精神支配を逆手に取ったかのような、余裕が感じられる。その言葉を発した瞬間、彼の周囲の空気は、ほんの僅かにだが、橘梓の魔力とは異なる、清涼な力に満ちたように感じられた。周囲の紫色が、さらにわずかに後退した。
池田教授は、桜井と橘梓の言葉の応酬に、胃が痙攣するのを感じていた。彼は、愛妻弁当の卵焼きを思い出し、心の中で妻に感謝した。そして、先ほどから感じている、甘く重い空気の圧力と、目の前の妖しい紫の色に、ますます不安感を募らせていた。
「面白い。では、早速本題に入りましょうか、桜井弁護士。」
橘梓は、優雅にテーブルへと歩み寄った。その動きは、まるで熟練の舞踏家のように流れるようで、その度に薄いブラウスが肌に吸い付き、官能的な曲線が強調される。彼女が席に着くと、影山も無言でその後ろに控えた。彼女の周囲の魔力は、まるで彼女を中心に渦巻くように、より一層強まっている。執務室の紫の靄は、彼女が動くたびに、うねるように濃淡を変え、今や部屋全体を完全に支配しているかのようだった。
「私の活動は、日本の経済安全保障を守るためのものです。特定の外国勢力による技術流出を防ぎ、この国の未来を守る。それが私の使命です。」
橘梓は、情熱的な声で語り始めた。その声は、先ほどよりもさらに深く、甘美さを増し、まるで直接、聞く者の脳髄に語りかけてくるようだ。周囲に漂う魔力も呼応するように振動し、その言葉に一層の説得力と感情的な共鳴を付与している。紫色の靄は、その言葉が発せられるたびに、まるで生き物のように蠢き、聞く者の精神に直接働きかけようとする。
しかし、桜井は、その言葉の裏に隠された「本質」を見抜いていた。彼の「真眼」は、彼女の情熱的な言葉の奥に潜む、承認欲求と影響力への渇望を透視している。そして、その言葉を増幅させている、目に見えない魔力の奔流を感じ取っていた。
「ほう。それは結構なことですわ。しかし、その『特定の外国勢力』というのは、具体的にどこを指していらっしゃるのか、未だにお答えいただけていません。そして、『政府が闇の勢力と繋がっている』という主張。その証拠とやらを、そろそろ開示していただけませんか?」
桜井は、真っ向から橘梓の主張に疑問を呈した。彼の言葉は、冷静かつ論理的で、一切の感情を排している。彼の発する言葉には、周囲の魔力に抗うような、確固たる意志が感じられた。彼が言葉を発するたび、部屋の紫色の靄は、わずかに、しかし確かに、薄れていくように見えた。
橘梓は、桜井の言葉に微かに目を見開いた。彼女の完璧なシナリオに、予期せぬ「ノイズ」が紛れ込んできたかのようだ。彼女の周囲に渦巻く魔力の流れも、ほんの一瞬、乱れたように見えた。紫色の靄は、彼女のわずかな動揺に呼応し、不規則に揺らめいた。
「証拠ですか。もちろん、それは私の中にあります。ですが、それを安易に開示すれば、私の命が危険に晒される。この国の未来のために、私はまだその時ではないと判断しているだけです。」
橘梓は、妖艶な笑みを浮かべ、桜井の視線からわずかに目を逸らした。その仕草は、まるで彼を誘惑するかのように、あるいは自身の「真実」を隠すかのように映る。彼女の放つ魔力は、その瞬間、より直接的に桜井へと向けられたように感じられた。紫の靄が、桜井を取り囲むように、ゆっくりと、しかし確実に濃さを増していく。
「ほう。命が危険に晒されると。なるほど、それは大変ですわな。しかし、それを語らない限り、あなたの主張は、単なる『妄想』と何ら変わりませんわ。それこそ、『膝下知能』とでも言いましょうか。」
桜井は、容赦なく橘梓の言葉の矛盾を突き、その論理の破綻を指摘した。彼の言葉は、橘梓の「思考停止の打破と共感の喚起(心の起動)」へと作用しているかのようだ。彼の言葉が、彼女の「真実」と信じているものが、実は自身の「利己的な動機」から来ていることを、彼女自身の内面へと問いかけている。そして、彼の言葉が発せられるたびに、周囲の魔力の流れが、目に見えない力で押し返されているような感覚があった。桜井が言葉を重ねるたびに、彼の周囲の紫色は押しやられ、清浄な空間が広がっていく。
橘梓の表情が、わずかに引きつった。彼女は、これほどまでに自身の言葉が「通用しない」相手と対峙したのは初めてだった。彼女の魔力は、人々の感情を揺さぶり、盲目的な信仰を集めることには長けていたが、桜井のような、揺るぎない「真実の共鳴」を持つ相手には、その力を発揮できない。それどころか、彼の存在そのものが、彼女の魔力の流れを微妙に阻害しているように感じられた。執務室を支配する紫の靄も、桜井の言葉の力に押され、少しずつ薄れていく。
その時、藤原聡美が、桜井の隣で静かに口を開いた。彼女の周囲だけ、まるで透明な膜で覆われているかのように、橘梓の魔力の影響が薄いように見えるのは、彼女の精神が完全にデータと論理で構築されているためだろうか。
「橘梓氏の主張は、レトリックの多用により、客観的事実に基づかない感情的な扇動に偏っています。特に、『国家の危機』という漠然とした概念を利用し、人々の不安を煽ることで、自身のカリスマ性を高めるという手法が顕著に確認できます。これは、歴史上、数多の独裁者が用いてきたプロパガンダの手法と酷似しています。」
藤原は、タブレットに表示されたデータを桜井と池田教授に見せながら、淡々と分析結果を述べた。彼女の言葉には、感情の欠片も感じられないが、その内容は、橘梓の行動の「本質」を鋭く突いていた。彼女の言葉が発せられると、周囲の甘い香りがほんの一瞬、中和されたように感じられたのは、気のせいだろうか。そして、その言葉が、部屋の紫色の靄を、さらに薄めていくようだった。
橘梓の視線が、藤原に突き刺さった。彼女は、この小柄な少女が、自身の「魔法」を「データ」として解析しようとしていることに、微かな苛立ちを覚えた。彼女の周囲の魔力が、目に見えない棘のように、藤原へと向かおうとするのが感じられた。紫色の靄が、藤原を取り囲もうと蠢いたが、彼女の冷静な分析の前には、その影響はほとんど見られなかった。
「あなたの言うことは、データという名の砂利を拾い集めただけの、表面的な分析に過ぎませんね、藤原博士。真実というものは、もっと深い場所にあるのですよ。」
橘梓は、藤原を冷ややかに見下した。彼女の言葉には、強い威圧感が込められており、それは周囲の魔力と共鳴し、藤原の精神を直接攻撃しようとしているかのようだった。
「いえ。データこそが真実です。感情は、ドーパミンの分泌による一時的な脳内変化に過ぎません。真実とは、客観的な事実に基づき、論理的に導き出されるものです。」
藤原は、橘梓の言葉にも動じることなく、淡々と反論した。彼女の瞳の奥には、新たな「データ」への純粋な好奇心が宿っているかのようだ。彼女の精神は、橘梓の魔力による感情的な攻撃を、まるで無効化しているかのようだった。彼女の反論が響くと、紫色の靄はさらに後退し、透明な空気が戻り始めていた。
橘梓は、藤原のあまりにも感情のない反論に、思わずフッと笑みをこぼした。それは、どこか面白がるような、あるいは諦めにも似た笑みだった。彼女にとって、感情を持たない藤原は、ある意味では桜井よりも厄介な存在だった。なぜなら、彼女の魔力は、人々の感情を揺さぶることでしか力を発揮できないからだ。そして、彼女の周囲に満ちる強大な魔力も、藤原のような存在には、ほとんど影響を与えないことに、彼女は気づき始めていた。
「なるほど、お二人とも。私の『ゲーム』を、さらに面白くしてくれる存在のようですね。」
橘梓は、再びソファに深く身を沈め、ワイングラスを手に取った。その瞳の奥には、冷たい愉悦が渦巻いている。彼女の周囲の魔力は、再び静かに、しかし着実に濃密さを増していく。部屋を包む紫色の靄も、再び濃さを増し始め、光の届きにくい場所では、その色はほとんど黒に近いほどに深まっていた。
「よろしいでしょう。桜井弁護士、藤原博士。そして、池田教授。今宵は、私の『真実』を、存分に味わっていただきますわ。そして、この『饗宴』が終わる頃には、皆さんの『真実』は、私の手のひらの上で『ぺったんこ』になっていることでしょう。」
橘梓は、グラスを掲げ、不敵な笑みを浮かべた。その笑みは、まるで悪魔の誘いのようだった。彼女の言葉が、部屋の中に妖しく響き渡る。その言葉には、彼女の溜め込んだ強大な魔力が共鳴し、一層の威圧感と魅力を帯びていた。紫色の靄が、今や部屋全体を完全に覆い尽くし、東京の夜景すらもその妖しい色に染め上げていた。
桜井は、橘梓の挑戦的な言葉に、ニヤリと笑みを返した。彼の瞳には、新たな「戦い」への熱意が宿っている。周囲の濃密な魔力は、彼にとって一種の刺激剤となっているかのようだ。池田教授は、胃の痛みに耐えながらも、桜井と藤原の揺るぎない態度に、わずかな希望を見出していた。しかし、彼を包む甘く重い空気の圧力と、全身を覆うような紫色の闇に、ますます不安感を募らせていた。藤原は、依然として無表情のまま、目の前の「魔王」と、その周囲に渦巻く異質なエネルギー、そして空間の色情報が示す異常なデータを、「新たなデータ」として解析し続けている。
この夜、かつてないほどの魔力を溜め込んだ魔王による饗宴は、静かに、しかし確実に幕を開けたのだった。
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