第5話 高層ビルの屋上:回顧と新たな渇望


都心の高層ビル屋上。夜風が、橘梓の肌に吸い付くように薄い生地のブラウスをわずかに膨らませ、その露出が増したデコルテを撫でる。艶やかな黒髪が風に優雅になびき、その白い肌は月明かりの下で仄かに輝いている。眼下には、無数の光が瞬く大都会の夜景が広がっていた。手に持つワイングラスには、深紅の液体が揺れる。そのワインの色は、まるで、彼女がこの世界で貪り喰らった人々の負の感情のようだ。


(あの男を、ようやく手中に収めた…)


梓は、ワインを一口含む。その唇に微かな笑みが浮かぶが、その瞳の奥には、疲弊と、そしてある種の困惑が滲んでいた。魔力の回復に伴い、彼女の体はより研ぎ澄まされ、美しさを増しているが、内なるエネルギーの消費は激しかった。


影山徹を支配したときの記憶が、鮮明に蘇る。彼の内面に潜む闇は、彼女の予想をはるかに超える深さだった。自身の全てを見抜かれ、最も隠していた倒錯した本質を白日の下に晒された影山の心は、深い屈辱と、同時に抗い難いほどの甘美な快感に震えていた。にもかかわらず抗い通した。その感情の波紋は、橘梓の魔力を大きく揺さぶり、彼女自身にも大きな負担を強いたのだ。


「…まさか、あれほどまでに、魔力を消耗するとは」


独りごちた声は、夜空に溶けていく。影山の精神を掌握する過程で、彼女はこれまでになく莫大な魔力を消費した。彼の「闇」が深ければ深いほど、そこから得られる負の感情のエネルギーは強大になるが、同時にそれを引き出し、支配下に置くための魔力も膨大になる。影山は、まるで底なし沼のようだった。掴んだと思った瞬間、さらに深い闇へと引きずり込もうとする。彼の内なる屈辱と、それを乗り越えたいという歪んだ野望は、彼女の魔力を際限なく吸い上げようとしているかのようだった。


(あの男の「屈辱」と「快感」は、確かにこの上ない糧となる。だが、同時に危険な劇薬でもある。安易に深層へと触れれば、私自身が彼の闇に囚われかねない。この世界の物理法則が、かつてのような圧倒的な魔法を許さない以上、このような細やかな、しかし膨大な魔力を消費する精神操作こそが、今の私の限界点に近い。)


橘梓は、グラスを傾け、再び夜景を見下ろす。影山の内面は、彼女がディスコルディアで経験してきたどの魂よりも複雑で、予測不能だった。彼の心には、決して表に出すことのない、しかし確固たる「諦念」と「倒錯」が渦巻いており、それはまさにディスコルディアという「クリア済みのゲーム」に飽き飽きしていた彼女にとって、久しく味わうことのなかった「刺激」だった。


それでも、疲労は隠せない。彼女の肌は、確かに艶やかに輝き、露出も増している。だが、その輝きの裏には、魔力の酷使による微かな倦怠感が潜んでいる。


(この世界での「支配」は、想像以上に手探りの状態が続く。ディスコルディアでの完全な力は、ここでは望めない。 そして、影山という駒を得たとはいえ、彼を完全に掌握するには、まだ時間がかかる。)


彼女は、指でグラスの縁をなぞる。現在、影山は、彼女の魔力によって支配されている。その思考は、彼女の命令に抗うことができない。しかし、彼の心の奥底に宿る「屈辱」と「野望」は、決して消えたわけではない。むしろ、その支配された状況下で、新たな形で増幅されているようにも感じられた。それが、彼女自身の魔力にどう影響していくのか、まだ未知数だった。


(彼は、私の魔力の糧となりながら、同時に私の「ゲーム」をさらに複雑にする駒となるだろう。そして、私の知的好奇心を、久しく刺激してくれるかもしれない…)


橘梓は、ふっと笑みをこぼした。それは、一見すれば魅惑的だが、その奥には、冷酷な観察者の視線と、終わりなき「退屈」への抗いが宿っていた。


「さあ、新たなゲームの始まりだ…」


彼女の言葉は、夜空へと吸い込まれていった。影山という新たな手駒を得たことで、彼女の情報操作はさらに加速するだろう。そして、老いた故郷ディスコルディアに送り込む「転移者」を選別する作業も、より具体的なものとなるはずだ。彼女の瞳は、遠い故郷ディスコルディア、そしてその先に待つ「予測不能な混沌」を捉えているかのようだった。

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