第7話 北の山野を紅に染めて
崑国左軍総監、巌 可貫が、悠然と立ち去る後ろ姿から、悠可は目が離せなかった。その威厳、その威圧感、何物にも屈しない意思が、全身から炎のように立ち昇っているかのようだった。
『お父様は、昔からこうやって戦って来たのね。』
戦に出兵する時、父は母に必ず跪いて、その手を取り、
「必ず帰る。待っていて欲しい。どうか、息災でいて欲しい。ちゃんと食事をして、帰った時には、笑顔で迎えて欲しい。」
そう願うのだ。母は、笑顔で
「もちろんです。お待ちしております。巌一門の総領家を、留守の間、守り抜きます。貴方の目は、私の目。貴方の腕は、私の腕。貴方の足は、私の足。貴方の身体全て、私の身体です。どうか、大切に、ご無事のお帰りを待っております。」
そう言って、父の額に口付けるのだ。
そうして、父を笑顔で見送った後、自室に籠って、翌日まで泣き明かす。翌朝、顔中を真っ赤に腫らせた母が、吹っ切れたようにモリモリ朝食を食べる姿に、家中の者達が、今度は涙するのだった。
父は、生きて帰る為に戦うのだ。
悠可は、母のその言葉を思い出しながら、父の武運を願った。
その、父の背を見送る悠可の手を、そっと握るタラがいた。
【悠可。君を戦場に出したくない。今は、僕には力が無いけど、どうか、ケガなんかしないで。】
悠可は、ふっと笑った。
【私は、自分で望んで兵士になった。父のような戦士にならなければならないの。巌一族に、戦に出ない選択肢は無い。】
そう、きっぱりと言った。タラは、目を見開いて、黙った。
【タラだって、初陣でしょ。私の心配より、自分の心配をして。】
悠可は、タラの手を、ぽんぽんと叩いた。
【それに、私は、自分の許嫁の弔い合戦を仕掛けに行くのよ。】
悠可のその言葉に、タラは怪訝な目をした。
【私の許嫁は、第二王子だったの。合った事も、顔を見た事もないけど。絵姿だけしか知らないけど、私は、いつかその人の妻になるんだって思いながら大きくなったのよ。だから……。】
悠可は、言葉に詰まった。一筋の涙が、青い瞳から落ちた。
【私くらいは、王子の為に弔い合戦をしてあげたいじゃないの。】
悠可は、痛々しい程に切ない笑顔を作った。タラは、胸を打たれた。
かける言葉が、見つからなかった。だが、
『悠可の夫は、僕だ。』
心の中で、そう叫んだ。
崑国北の要塞、氷の巨城の内側、中央の広場や、各尖塔の各階に、戦士の革鎧や甲冑を着込んで武装した兵士が揃った。
左軍総監、巌 可貫が、告げる。
「敵は北奇国。毒の煙を使って来ると思われる。各自、配った厚布で鼻口を塞げ。
煙りは避けろ。日が登れば、風は奴らに向く。」
要塞中に、よく通る総監の声が静かに行き渡る。
「これより、開戦!!静かに、迅速に夜襲をかける。皆、武運を祈る!!」
10人ずつの小隊に分かれ、足元を照らすだけの松明を小さくかざしながら、北奇国側から見えない通用門から次々に、城外に進軍して行く。夜に紛れるように、黒いマントで姿を隠しながら、進んで行く。
悠可も、夜陰に乗じて、門から出た。悠可の前には、甲斐が居る。後ろには、タラ。北の要塞に赴任して来た時の旅の友の他の2人、付図と伊田は、別動部隊だ。
厚布で鼻口を覆った状態での山道の行軍は、思いの外、息が苦しい。しかし、顔に風を受ける状態の今、布を外す事は出来ない。
先を行く、先陣部隊から、怒声が聞こえた。交戦状態に入ったのだ。
気が急く。心なしか、手の指先に痺れを感じる。
『この痺れは、緊張からよ。』
そう自分に言い聞かせた。そして足場の悪い勾配を、一気に駆け足で駆け登り、羽織って来たマントを脱ぎ棄てた。
悠可の部隊も、交戦状態に入った。
誰かが、焚かれた火に、水をかけた。もうもうと激しく煙が上がる。
辺り一帯が、前も見えない程の煙に覆われた。敵か、味方か、数人が倒れ込んで、嘔吐している。嘔吐と共に、激しく咳き込んでいる。
そして、少なくない人数が、倒れたまま動かなくなった。
悠可は、その様子を横目に見ながら、煙を可能な限り避ける。時折呼吸を止めて、煙を極力吸わない努力をしながら、絶え間なく切り込まれる刃をかわし、受け、切り払う。
敵味方が入り乱れての乱戦に、悠可の背後を守るのは、タラ。
この短期間で、タラはここまで力をつけていたのかと感心しながら、背を預けた。この乱戦では、タラが倒れたら、悠可も危ない。
剣先が重い。数えきれない人数にとどめを刺して、切れが重くなっていた。剣はもう突き専門の武器になった。
『落ち着け。よく見ろ。』
そう無意識に呟きながら、周囲に注意を向けつつ、切り結ぶ。
夜明けはまだ遠いのか、周囲の暗さはどこまでも続く洞窟のようだった。閉塞感を覚えたとたん、急に手足の感覚が重くなった。
『だめだ。煙を吸い過ぎたか。』
悠可は焦った。それでも、振り下ろされた刃を弾いて相手に蹴りを入れた。距離を取ろうと下がった時に、背中に衝撃を受けた。切り込まれたのだ。
『突きでなくて良かった。』
硬い革鎧が防いだとしても、この痛みはかなりの出血を意味する。
そのまま、体を反転させて、敵の横面を短刀の束で殴りつけ、腕を回して首を締め上げる。苦しむ敵の後頭部に数発頭突きを入れて、意識を失わせた。敵の腕を脇で押さえ込み、逆方向に捩じり上げて、折る。剣を奪いつつ、返す刃で敵の急所にとどめを刺した。
悠可は、敵兵との接近戦で、父以外に負けた事が無い。これまでも、父から直々に接近戦の素手での戦い方を叩き込まれてきたのだ。相手の力を利用しながらくるりくるりと舞うように懐に入り込んで行く技は、恐怖が勝る者には真似できない。
悠可は無我夢中で、次々に敵と切り結び、倒していった。
悠可の背を守るようにして戦っていたタラは、少し離れた所で、2人からの攻撃を受けて苦戦していた。悠可にも、タラを助けに行く余裕は無かった。
『体が重い。』
悠可の手足は、もう人のモノのようだった。ただ、体が勝手に動いていた。だが、悠可の動きは、周囲の者からは、驚異的な動きに見えた。舞うように動く。その動きに無駄は無く、必ず敵の懐に素早く入っては一撃で倒す。
敵兵も、悠可に向かう事を躊躇し始めていた。倒されたくないのは、誰でも同じだ。悠可は、やっとタラに目を向ける余裕が出来た。
タラの背後に、大太刀を振りかぶろうとしていた大男が目に留まった時には、無意識に、脚に仕込んでいた鋭い小刀を放っていた。小刀は、大男の喉に吸い込まれるように刺さった。
悠可はその大男に向かって走り、その勢いで蹴りを食らわして倒した。大男は目を剥いて、口から血を吹きながら絶命した。
体制を立て直して、タラに向かっていた敵と対峙した。タラの疲労が激しい。大きく肩で息をしている。毒の煙のせいかも知れなかった。
悠可が、目の前の敵の隙に突きを入れようと踏み込みかけた時、戦場に鉄太鼓の大音が響いた。
「敵将倒れたり!!崑国軍勝利!!……敵将、倒れたり!!」
戦場に、崑国兵のラッパの音と、戦況を告げる大音声が、連呼して響いた。
「崑国左軍総監が、敵将5名の首を捕ったぞ!!北奇国軍は、降伏せよ!!」
「左軍総監、敵将全ての首を捕った!!……崑国軍、勝利!!崑国軍、勝利!!」
北奇国の兵達は、手に持った武器を、地に投げた。
戦が、ひとまず終わったのだ。
毒の煙の流れが変わり始めた。あえて燻るようにして焚かれていた火に、雪が掛けられた。煙らないように、火が消されていった。
日が登り始めた。周囲が明るくなるに従って、足元の惨状が露わになった。
白い雪は、黒く踏み荒らされ、紅の飛沫や溜りが、臭いを立てながら目の前にあった。伏して動かない者達。唸りながら最期の一息を求める呼吸の音。有り得ない向きで曲がった身体の者。累々と倒れた躯の数々。
悠可は、不意に吐き気を覚えた。あちらこちらで、嘔吐している兵がいる。それは、敵も味方も同じであった。
隣で、タラが吐いた。悠可はそちらに気を取られて、吐き気を忘れられた。
『お父様は、こんな厳しい世界に生きてきたんだ……。』
それだけではない。巌一族は、代々この環境で逞しく生き抜いて来たのだ。
『とてもじゃないが、弟達に、この光景を見せる訳にはいかない。』
悠可は強くそう思った。
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