東京フラワーストーリー ―咲いて、散って、また咲いて―
俺流総本家家元
第1章:花屋の朝は、少しだけ早い
「東京の朝は、こんなにうるさいんだな」
片岡正徳は、まだ眠気の残る目をこすりながらアパートの窓を開けた。下を走るゴミ収集車のエンジン音、どこかの工事現場の金属音、そして自転車のベルがやけに鋭く耳に刺さる。地方の静かな町から出てきたばかりの彼には、この街のすべてが、少し過剰だった。
彼が就職したのは、渋谷から歩いて15分ほどの裏通りにある、小さな花屋「hanare」だった。大きな看板も出ていない。だけど、ガラス張りの入り口からのぞく店内には、季節の花が美しく配置されていて、不思議と足を止めたくなるような空気があった。
「おはよう、正徳くん。遅刻一歩手前〜」
扉の奥から、少しハスキーな声が響いた。阿部百合子、29歳。「hanare」の店主にして、正徳の新しい上司だった。
彼女はエプロン姿のまましゃがみこみ、花の水揚げをしている。乱れた髪を無造作にまとめたその姿は、まるで一輪の百合のように堂々として美しい。初対面の時、思わず名前を確認してしまったほどだ。
「すみません、電車が……」
「いいってば。開店は10時だけど、花屋の朝はね、準備が命なの」
百合子はそう言いながら、正徳にバケツを指差した。「そこのラナンキュラス、切り戻してくれる?」
「……ラ、ラナン……?」
「うん、ラナンキュラス。知らないの? ふふっ、新人くんらしいね」
彼女は笑いながら、ばさりと髪をかき上げた。
「“とても魅力的”っていう花言葉なんだよ。花は、意味を知ってると、もっと好きになるから」
正徳は花ばさみを持ったまま、ラナンキュラスの柔らかい花弁にそっと触れた。ふわふわしていて、どこか頼りなげだ。
「それ、優しく扱わないとすぐクシャッてなるからね。私みたいに、繊細だから」
「……それは初耳です」
思わず返してしまった言葉に、百合子は吹き出した。
「いいね、その感じ! こっちは花屋だけど、言葉もちゃんと切り花みたいに扱ってくれる人、好きだよ」
彼女の言葉は、なんでもない冗談にも、どこか刺さる温度を持っていた。
笑いながらも、まっすぐ見てくるその目が、なんとなく気にかかる。
開店前の数時間は、仕入れた花の整理、水の入れ替え、店先のディスプレイ変更に追われる。時間にすればたった数時間。でも、正徳にとっては、慣れない作業と覚えきれない花の名前に心が折れそうだった。
「はい、おつかれさん。これ飲んで」
休憩中、百合子が缶コーヒーを差し出してきた。冷蔵庫で冷やされていたらしく、手に取った瞬間、心まで冷えていくような感覚。
「この時間が、一番好きなんだよね。店開ける直前、誰もいない東京ってさ、ちょっとだけ魔法みたいで」
正徳はその言葉を、うまく理解できないまま缶のプルトップを引いた。
「……百合子さんは、なんで花屋やろうと思ったんですか?」
彼女は少し黙って、空を見上げた。
「きっかけ? んー、逃げたかっただけかも。仕事も、恋愛も、うまくいかなかったからさ。花って、喋らないでしょ。だから、いいのよ」
「喋らないほうが、いいんですか」
「うん。だって、嘘つかないじゃん。咲くときは咲くし、枯れるときは枯れる。それを受け入れるしかないってとこが、好き」
その横顔は、さっきまでの冗談めいた表情とは打って変わって、大人びて見えた。
この人には、何かを抱えている過去がある。正徳は直感的にそう感じた。
開店のチャイムが、遠慮がちに鳴った。
「はい、いらっしゃいませ〜」
百合子は一瞬で表情を変えて、店の前に立った女性客に満開の笑顔を見せる。
その背中を見つめながら、正徳は思った。
——この花屋での毎日が、なんだか特別なものになる気がする、と。
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