第6話 過去帳の空白


深夜二時。


神園家の地下深くに広がる書庫で、ルナは古い革表紙の本を開いていた。死神一族に代々伝わる過去帳――この世に生まれたすべての人間の寿命が記されている禁書だ。


「天野レン……天野レン……」


薄暗い蝋燭の明かりの中、ルナは必死にページをめくる。指先が震えているのは、冷気のせいだけではない。


あの日から一週間。レンの頭上に数字が見えない理由を、どうしても知りたかった。


「あった」


天野の姓の欄を見つけ、指でなぞっていく。天野一郎、享年七十二歳。天野花子、享年八十五歳。天野――


「……え?」


レンの名前があるはずの場所が、白紙だった。


いや、正確には違う。よく見ると、薄く文字の痕跡がある。まるで誰かが消したような――


「ルナ様」


背後からの声に、ルナは飛び上がった。振り返ると、執事の黒木が立っている。


「こんな時間に、過去帳を?」


「黒木さん……」


ルナは本を閉じようとしたが、黒木は静かに首を振った。


「お隠しになる必要はございません。お嬢様が何を探していらっしゃるか、察しております」


黒木は五十代の男性で、ルナが生まれる前から神園家に仕えている。死神の血は引いていないが、一族の秘密を知る数少ない人間の一人だ。


「天野レンという少年の記録が、見つからないんです」


ルナは素直に打ち明けた。黒木は頷き、書架から別の本を取り出す。


「これは二十年前の記録です。ご覧になってみてください」


受け取った本を開くと、そこには別の天野姓の記録があった。天野恭介、天野美咲――レンの両親だろうか。だが、その下に書かれているはずの子供の記録が、やはり消されている。


「どういうことですか?」


「申し訳ございません。私にも分かりません。ただ……」


黒木は言葉を選ぶように続けた。


「二十年前、お嬢様のお母様が同じように過去帳を調べていらしたことがあります」


「母が?」


ルナの母は、ルナが生まれてすぐに姿を消した。死神の掟を破ったためだと聞いているが、詳細は誰も教えてくれない。


「その時も、ある人物の記録を探していらっしゃいました。そして、その記録も――」


「消えていた?」


黒木は無言で頷いた。


ルナは過去帳を見つめる。死神一族の歴史上、記録が消えることなどあり得ない。すべての生命は死神の管理下にあり、その寿命は絶対的なものだ。


なのに、なぜ。


「お嬢様」


黒木が心配そうに声をかける。


「深入りなさらない方がよろしいかと。お母様も、真実を知ってから……」


「分かっています」


ルナは本を閉じた。でも、諦めることはできない。レンの存在が特別な理由を、知らずにはいられない。


翌朝、ルナは眠れないまま登校した。


教室に入ると、レンがいつもの席で本を読んでいる。朝日を浴びた横顔が、やけに儚く見えた。


「おはよう、ルナ」


レンが顔を上げて微笑む。その笑顔を見た瞬間、ルナの胸が痛んだ。


過去帳に記録がない人間。それが何を意味するのか、ルナにはまだ分からない。でも、不吉な予感だけが心を支配していく。


「おはよう……ございます」


いつもの敬語で返事をしながら、ルナは思う。


知りたい。でも、知るのが怖い。


レンの正体を知ることで、今の関係が壊れてしまうかもしれない。それでも――


「今日の昼も、一緒に食べる?」


レンの問いかけに、ルナは小さく頷いた。


数字が見えないあなた。記録が消されたあなた。


あなたは一体、何者なの?


昼休み、屋上でレンと向かい合いながら、ルナは弁当箱を開ける。今日も祖母が作ってくれた和食が詰まっている。


「ルナの弁当、いつも美味しそうだよな」


レンが羨ましそうに覗き込む。彼の弁当は相変わらずコンビニのサンドイッチだ。


「よかったら、少し……」


ルナが卵焼きを差し出すと、レンは嬉しそうに受け取った。


「ありがとう。ルナって優しいよな」


違う、とルナは心の中で否定する。優しいんじゃない。ただ、あなたといる時間を少しでも特別なものにしたいだけ。


「ねえ、ルナ」


レンが急に真剣な表情になった。


「俺のこと、変だと思わない?」


ルナの箸が止まる。


「変って……どういう意味ですか?」


「いや、なんていうか……」


レンは頭をかきながら、空を見上げた。


「小さい頃から、周りの人間と何か違う気がしてさ。上手く説明できないんだけど、自分だけ世界から浮いてるっていうか」


その言葉に、ルナは息を呑んだ。


もしかして、レンは気づいているのだろうか。自分が普通の人間とは違うことに。


「みんな、そんなものじゃないですか?」


努めて平静を装いながら、ルナは言った。


「誰だって、自分は特別だって思いたいものです」


「そうかな」


レンは苦笑いを浮かべる。


「でも俺の場合、本当に何か違う気がするんだ。記憶も曖昧なところがあるし」


「記憶が?」


「うん。十歳より前のことが、ほとんど思い出せないんだ。両親は事故で死んだって聞いてるけど、その時のことも全然覚えてない」


ルナの手が震えた。


過去帳で見た、消された記録。レンの両親の名前の下にあった空白。そして、レン自身の曖昧な記憶。


すべてが繋がっているような気がする。


「大丈夫ですか?」


心配になって聞くと、レンは首を振った。


「ごめん、暗い話しちゃって。でも、ルナになら話せる気がしたんだ」


その言葉が、ルナの胸を締め付ける。


私は、あなたに嘘をついている。あなたの頭上に浮かぶはずの数字が見えないことも、過去帳であなたの記録を探したことも、すべて隠している。


「私も……」


ルナは言いかけて、止めた。


真実を話したい。でも、話せない。死神の正体を明かすことは、最大の禁忌だ。


「ん? なに?」


レンが不思議そうに見つめてくる。


「いえ、なんでもありません」


ルナは微笑んで、話題を変えた。でも、心の奥では決意していた。


レンの正体を、必ず突き止める。たとえそれが、禁忌に触れることだとしても。


放課後、ルナは一人で旧図書館に向かった。


ここは今はほとんど使われていない古い建物で、死神一族に関する文献が密かに保管されている。一般の生徒は入れないが、ルナは特別な鍵を持っていた。


埃っぽい書架の間を歩きながら、ルナは探していた本を見つける。


『死神適合者に関する考察』


表紙には、そう記されていた。


ページをめくると、ぎっしりと文字が並んでいる。その中に、気になる一節があった。


「稀に、死神の素質を持ちながら人間として生まれる者がいる。彼らは通常の人間とは異なり、死神の眼には映らない。なぜなら、彼らの運命は未確定だからだ」


ルナは息を呑んだ。


未確定の運命。それは、人間として生きるか、死神として覚醒するか、まだ決まっていないということ。


「そんな存在が……」


さらに読み進めると、恐ろしい事実が書かれていた。


「適合者が死神として覚醒する条件は、強い感情的衝撃である。特に、死への恐怖や愛する者を失う悲しみが引き金となることが多い」


ルナは本を閉じた。


もしレンが本当に適合者なら、彼が死神として覚醒する可能性がある。そうなれば、今の優しいレンは消えてしまう。


人間の心を失い、ただ寿命を管理するだけの存在になってしまう。


「そんなの、嫌だ……」


ルナは本を抱きしめた。


レンには、人間のままでいてほしい。あの優しい笑顔を失ってほしくない。


でも、それは私のわがままでしかない。


レンの運命を、私が決めることはできない。


夕暮れ時、ルナは重い足取りで帰路についた。


すると、校門の前に見知った人影があった。


「ユエさん……」


影守ユエ。死神一族の執行者が、腕を組んで立っている。


「お久しぶりね、ルナ」


ユエの声は冷たい。その瞳が、ルナを射抜くように見つめる。


「過去帳を、ご覧になったそうね」


ルナは息を呑んだ。やはり、監視されていたのだ。


「私は……」


「言い訳は結構よ。あなたが何を調べていたか、分かっているわ」


ユエが一歩近づく。


「天野レン。あの少年のことでしょう?」


ルナは答えられなかった。否定も肯定も、できない。


「忠告しておくわ」


ユエの声が、さらに冷たくなる。


「あの少年には近づかない方がいい。彼は、あなたが思っているような存在じゃない」


「どういう意味ですか?」


「それ以上は言えないわ。ただ……」


ユエは振り返りながら、最後に付け加えた。


「あなたの母親と同じ過ちを、繰り返さないことね」


その言葉を残して、ユエは夕闇に消えていった。


ルナは立ち尽くす。


母と同じ過ち。それは、人間を愛してしまったということだろうか。


でも、もう手遅れかもしれない。


私はもう、レンのことを――


「ルナ!」


振り返ると、レンが走ってきていた。


「よかった、まだいた。これ、図書館に忘れてたよ」


レンが差し出したのは、ルナの生徒手帳だった。


「ありがとうございます」


受け取りながら、ルナはレンの顔を見つめる。


この人を失いたくない。たとえ死神の掟に背いても。


「どうした? 顔色悪いぞ」


心配そうなレンに、ルナは首を振った。


「大丈夫です。ちょっと疲れただけで」


「そっか。無理すんなよ」


レンが優しく微笑む。


その笑顔を見ながら、ルナは心に誓った。


真実がどうであれ、私はあなたを守る。


死神の定めなんて、知ったことじゃない。








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