【幕間二──偽りの玉座】
王都ラウグレイア。夜半の雨が瓦桶をあふれさせ、貧民街の路地を光らせていた。
巡察兵の足音が遠のいた隙をつき、一人の放浪詩人――壊れたリュートを抱えた道化師が軒下に白い粉で小さな円を描く。王都の裏筋に現れては、奇妙な言葉遊びを撒く〈夜回りトルバドゥール〉と噂される人物だ。
「黒き刃よ 風を裂け
銀の鏡よ 雫を束ね
頁はまだ 名を欠いたまま
そろえば 王座は また 歌う」
濁った声が雨粒を飛ばす。通行人は肩をすくめて行き過ぎるだけだが、雨合羽の若い男――宰相補佐シルヴェストル・ルーンだけは足を止めた。詩は韻律の裏で方角を示す独特の暗号形式に似ている。王城書庫で読んだ古いパスカル言語を思い出し、眉をひそめた。
「北へ行け、銀のものを抱く娘が道を照らす。黒き刃の放浪者と交わるとき、欠けた頁は名を得るだろう」
道化師はそう付け足し、片足で跳ねるように闇へ紛れた。残されたのは雨に滲む円と、落ちた弦一本のみ。
シルヴェストルは弦を拾い、薄い帳面を開く。
〈“黒き刃” “銀のもの” “欠けた頁”/北方〉――走り書きに留め、やがて弦を栞代わりに挟んだ。偶然の啓示か、裏面の宣伝か。どちらにせよ試す価値はある。
* * *
翌朝。西区の小さな学堂では教師イリエが孤児たちに発声を教えていた。
「小さくてもいい、声は灯りだよ」
沈黙税を恐れて歌を禁じられた街で、少年少女の囁きは雨後の小鳥のように細かった。
シルヴェストルは外套を絞り、封筒をイリエへ渡す。
「地下の印刷所へ。次の声明に使ってくれ。灯を絶やさないように」
教師は静かに頷き、子どもたちは小声の合唱を続けた。
* * *
王都北門。検問の兵が沈黙宣誓書への署名を求める。宰相補佐の徴章が道を開くと、兵はひそかに敬礼を送った。蹄が濡れた石を三拍子に叩く――それはかつて王が演説の締めで打った杖の節を思わせ、胸がわずかに疼く。
* * *
最初の宿場町。古びた酒場でシルヴェストルは旅人の噂を二つ耳にした。
「渓谷で銀髪の娘が子どもを吊り橋から救い上げた」
「国境検問をひとりで切り払った黒い剣の男がいた」
日付は近い。道筋を地図で合わせると北方丘陵で重なった。
路地を抜けると石壁に粗い紙が貼られている。
《声を閉ざす者に 静寂を返せ》――王都の道化師が残した文字と筆致が酷似していた。地下の抵抗が王都の外まで広がっているらしい。紙を剥がし帳面に挟むと雨どいの水滴が背に跳ねた。振り向くが人影はない。警戒心だけが残る。
* * *
旅は四日。川沿いの隠れ里で老人から冠の圧政に屈した村長の話を聞き、湖畔の小屋では病床の母が「銀の娘が息子の脚を癒した」と涙した。シルヴェストルは証言を拾い帳面に写す。直接の証拠にはならないが、王の前に突き付ける“人の声”こそが武器になる。
* * *
北方丘陵。霧の向こうに廃城の稜線が現れ、夕闇に焚き火の煙が上る。胸壁の隙間から覗くと、黒剣の男が火を突き、銀髪の娘が小さな鏡に何事かを映している。噂の二人が現れた。「剣」「鏡」。そして道化師が“頁”と呼んだ何か――欠けた三つ目はまだ不明だ。
無遠慮に近づけば、剣士の警戒を招くだろう。シルヴェストルは夜通し身を潜め、断片的な会話を拾った。〈冠〉〈呪い〉〈王都〉――やはり彼らも同じ敵を見ている。
夜明け前、乾燥肉と簡易地図を袋に入れ、焚き火の近くへ静かに置いた。「北門検問が厳しい」とだけ地図の余白に走り書きし、足跡を拭って廃城を離れる。今は王都へ戻り、沈黙の冠に対抗する手札を整える時だ。
* * *
帰路、帳面を開く。
《剣と鏡、北方古城にて確認。欠けた“頁”の正体は不明。
王座が再び歌う条件――未だ半分も見えず。》
濡れた風が紙をめくり、道化師の古い弦が微かに軋んだ。その音は遠い王都の鐘を思わせる。鐘はまだ沈黙したままだが、シルヴェストルの胸にだけは確かな拍子が鳴り始めていた。
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