【第二章 灰の剣、名もなき女】
湿った薪がくすぶり、焚き火は灰色の煙を地面へ流していた。
エリアス・ヴェルムントは膝に乗せた黒剣を砥石でゆっくりとなぞる。刃は光を吸い込み、水面のように像を映した。削るたび揺れる自分の顔。そこに確かな表情はない。
――記憶が裂け、夜霧のように過去が開く。
* 三年前 *
王国東境・カストール砦。
敵軍を迎えた嵐の夜、雨が石壁を洗い、門に投げ込まれた油が松明の炎を煽った。中隊長のエリアスは最後尾を守る。だが後方から放った矢が鎧を貫き、味方弓兵が「退け!」と叫び門を内側から閉ざした。
雨だれの向こうで、主君たる侯爵の横顔が揺らぐ。苦悩でも憐憫でもない――冷徹な決断。
〈持ちこたえられぬ駒は切り捨てろ〉
その瞬間、内側の兵が敵と手を結んでいると悟った。砦は炎に包まれ、背後の部下が震えた声で問う。「どうしてです、長!」 そこへ別の兵が叫ぶ。
――裏切り者はエリアスだ!
頬に当たる石つぶて、雨に混じった涙の熱。それだけが今も残っている。
* 現在 *
砥石を止めた指が震えていた。剣身の奥で赤い脈が脈打つ。信頼を断つほど強くなる――それがこの刃の呪いだ。
草を踏む微かな音。
煙の向こうにローブ姿の女が立っていた。濡れた銀髪から滴が落ち、淡い紫の瞳は温度を映さない。
「……火を分けてほしい」
低いが圧を帯びた声。
エリアスは柄へ手を伸ばす。刃が半寸抜け、喉が焼けるように熱を帯びた。しかし女の瞳には恐怖も憎悪もなく、底知れない空虚だけが月光を返している。殺気が空回りし、剣先が重くなる。
女は薪を寄せながらちらりと刃に目を向けた。
「その剣、信頼を奪う契約ですね」
熱が再び脊髄を走る。剣を跳ね上げようと腕がきしむ。だが次のひと言が熱を奪った。
「未来を見る代わりに記憶を削る鏡を私は持っています。――似た代償です」
「名は」
掠れた声が喉から漏れる。
「リリア」
それだけ告げ、彼女は焚き火の反対側へ腰を下ろした。薪がはぜ、火の粉が夜気を縫う。煙が二人の横顔を薄い幕で隔てた。
「仲間を、主君を、友を失った」
エリアスは言った。なぜ語ったのか自分でもわからない。
「燃える砦で俺だけが生き残った。いや、生かされた。あの日、俺は『誰も信じない』と誓った。信頼を剣に喰わせ、力に変えるためにな」
リリアの瞳が焔を映し、まばたき一度だけ揺れた。
「私は誰の名も覚えていられません。弟の名も、助けてくれた老婆の顔も。ただ温もりの感触だけが胸に残る」
エリアスは刃を静かに鞘へ戻す。剣は赤い筋を脈打たせたが、やがて鼓動を弱めた。
「皮肉だな。捨てたくない記憶をなくし、捨てるべき信頼を抱える。逆なら楽だった」
焔が彼女の唇を照らしたのか、ほんの一瞬笑ったように見えた。
遠雷が低く唸り、空気が湿る。
火が揺れ、煙が流れるたび砦の炎が重なり、雨の冷たさが夜気を刺す。エリアスは唇を噛み、声を潜めた。
「未来を見る女よ。俺の刃は次に何を斬る?」
リリアは鏡を出さない。ただ火を見つめる。
「今は視(み)ません。視た途端、私はまた何かを忘れる。――今この問いだけを覚えていたい」
優しさ――その言葉が胸に浮かび、エリアスは驚いた。砦の罵声が、薪の爆ぜる音に押し流されていく。
夜はまだ深い。ときどき薪が裂け、その音が沈黙を縫い合わせた。
名を名乗り合うこともなく、呪いと祝福を抱えた二人は同じ火の温度を分かち合う。
剣は鞘の中で眠り、鏡はローブの胸で曇る。
遠雷が遠ざかるころ、灰の夜は静まり、焚き火の熱だけが確かなものとして残った。
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