[10月19日 13:00]君の隣で
午後一時。喫茶『ハーデン・ベルギア』の店内。客は僕一人きり。見慣れたカウンター席、その
豆と木の香りに満ちた空気は、秋らしさを増した肌寒さを和らげていた。耳馴染みのあるジャズは、心なしか普段より遠く、くぐもって聞こえる。
先週モカが話した事を、頭の中で何度も反芻していた。
彼女が、どんな人生を歩んできたのか。彼女が、どんな苦悩を抱えてきたのか。彼女が、どんな想いで僕にそれを語ってくれたのか——。
赤の他人だった相手に、過去も、思惑も、本心も、その全てを曝け出す事が、彼女にとってどれほどの事か。
毎週見てきたから、知っている。彼女は人の気持ちが分からないわけじゃない。でなければ僕の態度に、ああも笑ったり、喜んだり、怯えたり、悲しんだりしない。
——知ってるからこそ、僕に本音を打ち明けるのが、いかに勇気のいる事だったのだろうか。
胸が詰まる。手のひらに爪が食い込む。この苦しさや痛みなど、彼女の感じたものの比にはならないだろう。
ひとつ深呼吸し、指を開く。癖で伸ばした手の先に、カップはまだ無い。所在なく、虚空を掴んだ。
——カラン、カランッ。
待ち侘びていた音が鳴る。
彼女の方へと振り向く。
扉を額縁に、秋の陽光を背に受け、立っていた。
俯いた顔は暗く。腫れた目元はメイクをしていても明らかで。薄いピンクの唇は引き結ばれ。僕と目を合わせぬよう視線は床へと落とされていた。
彼女は会釈するかのように軽く頭を動かすと、何も言わず僕の横を過ぎ去って、店の一番奥、カウンター席の左端へと腰を下ろした。
二人の間には、椅子が八つ。初めて会った時と、互いに逆の位置。
目線を厨房に向けたまま、彼女は顔を上げて口を開く。
「あの、マスター。先週はお金を払わずに帰っちゃってごめんなさい。今代金を——」
「僕が代わりに払っておいたから、大丈夫だよ」
「……ありがとう、ございます」
モカが前を向いたまま小さくお辞儀する。添えられた言葉に、チクリと胸が痛んだ。
僕の手元をチラと見た彼女は「じゃあ、彼にブレンドコーヒーを」と注文し、僕は「カフェラテを彼女に」と返し、マスターに目配せする。
「モカ。来てくれてよかった。ありがとう」
彼女は黙ったまま首肯する。その横顔がずいぶん遠くに感じられる。それが距離のせいなのか、心境のせいなのかは分からなかった。
「先週約束した通り……僕のことを、話したい」
僕の喉がギュッと締まる。頭では覚悟を固めたつもりでいたが、心がそれに反発しようとしている。言えば彼女にどう思われるのか。どう返されるのか。本心を伝えることの怖さを、痛感させられた。
——ああ。モカはこれを乗り越えて、僕に話してくれたのか。
少しだけ。ほんの少しだけ、心が軽くなった。
「……取るに足らない話だけど、聞いて欲しい。
僕はずっと、家族から甘やかされて育ってきた。いや、過保護と言った方がいいか。アレをやれ、コレをやれ、アレはするな、コレもするな……。何をするにも、ずっと口出しされてきた。
ランドセルの色、通う学習塾、部活動への入部、志望校選び、付き合う友達……その全てに、両親と姉が関わってきた。選択する自由なんて、与えてもらえなかった。
小さい頃はそれが当たり前だと思っていた。けどある時——家庭科の裁縫箱選びの時だったか——皆がどれにするか盛り上がってる中、「親に訊かないと決められない」と言った僕に、友達が「それって変だよ」と怒ってくれた。
その時ようやく気付けたんだ。選ばせてもらえないのは、普通じゃなかったんだ、って」
モカは何も言わず、静かに聞いてくれている。それを気配で感じていた。
息を整え、話を続ける。
「——それ以来、僕は家族に口答えするようになった。「自分の事は自分で決めたい」って。
最初は目を丸くされたけど、その後は反論の嵐だった。『選ぶ事がどれほど大変か』『間違った道を歩ませたくない』『あなたが心配だから言ってあげてる』……そんな台詞の繰り返し。うんざりする。今思えば、そうやって根負けさせて、従わせようとしてたんだろうな。
結局僕は、小学校、中学校、高校、大学と、家族の言いなりにさせられて来た。交友関係もいくつか断ち切られたりもした。その行為を〝愛情〞と呼んでいいのかは、僕には分からない。
けどひとつだけ、家族を裏切って、大きな選択をした。それが就職だった。
実家から離れた勤務地の会社を選んで、家族には内緒で内定を貰い、逃げるように引っ越して新生活を始めた。自分だけの住処を持ったあの時は、本当に期待感に溢れていたのを覚えてる。
——けど、そこがとんだブラック企業だった。
出勤は始業の一時間前。退勤は定時の六時間後。昼休憩でも構わず業務の催促をされて。週休日には翌週の業務スケジュールを立てたり、緊急の電話やメールが飛んで来たり。
上司から散々怒鳴られたよ。「最近の若いのは親に甘やかされて育ったから弛んでる」ってさ。言い返す言葉も無かったね。
ボロボロになりながらも一年が過ぎて、どうにか激務にも慣れてきた矢先だった。僕が指導担当する事になった後輩に、ポツリと言われたんだ。「先輩の体調が
その瞬間、何かが壊れた。
いや、繋がった、と言うべきか。
自身で選んだ就職先が、この有様。誰の目で見ても正常な道じゃ無いのは明らか。両親や姉の病的なまでの束縛は、正しかったのかもしれない——。
考えないように、心の奥底に隠していたモノが、その一言で噴出した。
その日の内に、会社のパソコンで辞職のメールを打ち、プリンターから退職届を刷って、上司に何を言われても「辞めます」の一点張りをした。
即行動に移せた自分を、今でも褒めてるよ」
独り、自嘲する。視界の端で、モカがこちらに顔を向けているのが分かった。だが、直視する勇気は無い。憐れみ、同情、呆れ——そのいずれでも、見れば話の続きを出来なくなりそうで怖かった。
ここからが、本当に話したかった事——伝えたかった事なのだから。
「それから色々あり、なんとか転職して、どうにか働けるようになった。
ただ、当時の影響でカフェイン中毒がどうしても抜けなくて。それで療養も兼ねて、カフェ巡りをしていたんだ。
そんな時に、何の因果か、
彼女の方へと向き直った。モカの驚いた表情。栗色の髪も相まって、ピンと背筋を伸ばす様子はリスを思わせる。見開かれ、潤んだ瞳が、水晶のように煌めいていた。
「キッカケは偶然だったけど、奢ると言われて最初はもちろん「何か裏があるかも」と勘繰ったさ。
けど次第に、容姿に惹かれ、口調に惹かれ、性格に惹かれていった。気付けば毎週のように同じ喫茶店へ足を運ぶようになっていた。
何故こうまで魅了されてたのか、ずっと分からずにいた。
——先週、モカの話を聞くまでは」
「私の……?」
小さく問う彼女に、大きく頷いた。
「モカ。君は僕と違って、たくさんの
マスターが彼女の卓にカップを置く。カフェラテを。その隣に、ブレンドコーヒーを——。
戸惑う彼女を尻目に、僕は席を離れる。一歩ずつ一歩ずつ、踏みしめながら、近付いていく。そしてコーヒーの置かれた場所——モカの右隣の椅子へと着いた。
二人の間を隔てるものは無く、手を伸ばせば届く距離にいる。
「レ、レン! 近いって……!」
モカが慌てた様子で遠ざかろうと身体を逸らすが、ここは店の一番奥。後ろの壁に背中を打ちつけ、小さく咳き込んだ。
「モカ」
呼び掛けながら、身を寄せる。頬を赤らめ、口は半開きになり、目が忙しなく泳ぐ様子がよく見える近さ。その場所から、言葉を続ける。
「酷い態度を取って悪かった。悲しませてごめん。だけど僕は、君を嫌いになったわけじゃない。モカの笑った顔も、怒った顔も、どんな顔も、どんな君も、好きだ。だから僕は、君の隣を
虚飾なく。勢いに任せ。本心のままに。
「——今まで通り、毎週、一緒に話したいんだ」
「……本当に、いいの? 私なんかで」
おずおずとこちらを見上げる彼女の目には、涙が溜まっていた。
「言ったろう? 僕は、モカの隣がいいんだ」
それを聞いた途端、彼女の表情がくしゃくしゃになり、わんわんと泣き出した。
釣られて目頭が熱くなるのを堪え、ポケットから取り出したハンカチを彼女の顔に添える。
嗚咽混じりに「これ私があげたやつじゃぁん!」と抗議されたが「もらった物をどう使うかは、僕が選ぶことだ」と突っぱねた。
秋の深まる喫茶店に、カフェオレの苦く甘い香りと、子供みたいにギャン泣きする声が満ちていた。
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