◉ 十 月 ◉
[10月5日 13:15]誕生日。
駅から喫茶店に向かう道中。僕の歩みは、他の通行人に追い抜かされる程に重い足取りだった。
先週の一件が、僕の中でまだ尾を引いている。
モカが見せた、僕の姉を真似たような振る舞い。冗談だとは分かっていても、胸中を掻き混ぜられるような嫌悪感に抗えず、彼女を怯えさせる態度を取ってしまった。この一週間、その事に対してずっと後悔を繰り返してきた。
会うのが怖い。
モカからしてみれば、訳も分からず怒られたようなものだ。去り際も、あんな心無い対応をされて。彼女は怒っているだろうか。それならまだマシだ。悲しませたり、怖がらせたりしてしまっただろう。再会した時、彼女はどんな表情を見せるだろうか。僕に接する態度が、今までと変わってしまうかもしれない。彼女のあの気負わない空気感が、一番心地良かったのに。
もしかしたら、もう会えないかもしれない。
僕に嫌気が差して、喫茶店に来なくなる事だって考えられる。そうなれば、もう二度とモカと話せる機会は無いだろう。謝罪も出来ないまま、僕はこの先ずっと罪悪感を背負い続ける事になる。
店に行くのが怖い。
彼女にどう謝るか。どんな表情をされるか。もし居なかったら。悔恨。不安。恐怖。様々な暗い感情が、見えない足枷のように纏わりつく。正しい歩き方が分からない。ただ、立ち止まったら二度と進めなくなる事だけは理解できていた。
秋の冷たい空気が、渇いた風音を鳴らす。それが余計に寒く感じさせたのか、背筋がぞわりとする。
普段の倍は歩いたように思う頃、ようやく喫茶店の木造レトロな外観が視界に入った。同時に、心臓がひとつ大きく脈打った。引き返そう、なんて迷いが降って湧いたが、即座に頭から振り払った。
震えた手で冷えた金属のドアノブに触れる。その温度が、腕を、肩を、首を伝う。
深く息を吐き、覚悟を決めて扉を開いた。
——カラン、カランッ。
入店し、顔を上げるとすぐに、カウンターの奥に座るモカと目が合った。
「あっ——いらっしゃい!」
そう声を掛け、目元をニコリとさせる彼女。けれど、僕には分かった。口角がいつもより上がっていない。無理をして心配させまいと作った笑顔。その気遣いが、怒りや悲しみを向けられる以上に僕の胸を締め付けた。
言葉に詰まり「ああ」なんて雑な返事が口から出ていた。そんな自分に嫌悪する。
見ると、モカはカウンター左奥——僕の普段の定位置——の、すぐ隣に腰掛けていた。彼女の席にはすでにカップが置かれているが、湯気は見えない。
——今の僕に、彼女の隣に座る権利は無いな。
そう思い、僕は入口側の彼女から一番離れた椅子に腰を下ろした。横目に一瞬、彼女が顔を伏せたのが見えた。
二人の間に、空席が七つ。ひどく遠く感じるが、今の僕には近付く勇気が無かった。
「マスター、ブレンドコーヒーを——」
僕が注文を言い終えるよりも先に、白い陶器が卓に置かれた。だが、その水面は黒ではなく茶色。
「えっ、これ、カフェラテ……?」
驚く僕を他所に、マスターは追加で皿を差し出した。その上に乗っていたのは、苺の乗ったショートケーキだった。
「なんで……あっ——」
ようやく、思い出した。
「ハッピーバースデー、レン! おめでとーっ!」
左手から、大声と共に盛大な拍手が降り掛かる。
そうだ。悩んでいて、すっかり忘れていた。今日は僕の誕生日だったか。ずいぶん前に、互いの誕生日を教え合った時の光景が脳裏によぎった。
そして、なぜ彼女が先に居て、奥から二つ目の席に座っているのか、その理由を分かってしまった。
「あの、モカ——」
「誕生日の方に、プレゼントの贈呈でーす!」
こちらの言葉を遮って、モカは席を立ち手を後ろに隠して、僕の方へと軽い足取りで近付いてくる。そして初めて見せるロングスカート姿なことに、僕は今更気付いた。
「はい、これ! 選ぶの大変だったんだから!」
そう言って突き出された両手に握られていたのは、綺麗にラッピングされた手のひらサイズの薄い正方形の箱。
「あ、ありがとう……」
僕が静かに受け取ると、彼女は満足げな笑みを浮かべた。そして手を後ろに回し、僕の横をススッと抜けて出口側へと歩き出す。
「モカ、その——」
「待って」
扉の前、背を向けて立つ彼女に、再び遮られた。
「——今日はちょっと……これ以上は、限界っぽいから……話すのは、また今度にしよ」
絞り出されたような声。背中に回された彼女の右手首に、左手の指がギュッと食い込んでいた。その痛ましさに、胸を
「来週、全部話すから。じゃあね」
返事を出来ずにいる内に、彼女はそう言い残してドアベルを鳴らした。
全部話す——その口振りに、僕は言い知れぬ不安を覚えた。
手に抱えた小さな箱。丁寧に開けると、中から出てきたのは一枚のハンカチだった。手触りが良く、紺色無地にワンポイントで三日月の模様が入った、普段使いしやすいデザイン。
ふと、僕がキーホルダーのプレゼントを渡した時の心境が蘇った。彼女はどんな想いでこれを選び、渡してくれたんだろうか。
カウンターの上には、艶やかなショートケーキとまだ温かく湯気を放つカフェラテが、静かに佇んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます