◉ 八 月 ◉
[8月3日 13:00]誕生日?
——モカ。モカモカ。モカモカモカ……
喫茶『ハーデン・ベルギア』に向かう道中、脳内で復唱していた。もちろん、カフェモカを注文するつもりは無い。なんとなく、呼び慣れておこうとしてるだけだ。他意は無い。
何故だかニヤけそうになる頬を両手で叩き、木製扉のノブを引っ張る。ドアベルの音色が心地よい。
冷房の効いた店内に、客は無し。珈琲の香りと、ジャズ・ミュージックが流れている。厨房で立ち上がったマスターに会釈を返す。
定位置と化したカウンターの一番壁際へ。そして普段通り、ブレンドコーヒーだけを注文した。
『ブレンドコーヒーばかり飲んでるから、ブレンドのレン!』
あの時の
スッと前に出てきた白いカップ。危ない危ない、気を抜いていた。慌てて受け取り、一口含んだ。
「やっほー、レンっ!」
鳴り響くドアベルと同時に大声で呼ばれ、危うく噴き出しかけた。喉が音を立てて飲み下す。
「驚かすなよ、まったく……」
「名前!」
「え?」
「な、ま、え!」
扉の前で仁王立ちし、腰に手を当て睨んでくる。
「…………モカ」
——練習しておいて良かった。
彼女は「よろしい!」と言いたげな笑顔を作ると、カウンターの入り口側から数えて三つ目の席へ腰掛けた。
「またポイントが増えたのか」
「名前覚えててくれたからね!」
ニコッとした表情が相変わらず眩しい。ショートだった茶髪は、肩に付くほどに伸びていた。
服装は白のノースリーブに薄青のホットパンツ。二の腕と太腿が剥き出しの姿。ありがとう、夏。
僕と彼女、その間には空席六つ。じわじわと詰め寄られている。
いつものように、僕が彼女にカフェラテを、彼女が二人分のスコーンを注文する。マスターも慣れたもので、モカの入店時点でアイスカフェラテを作り始め、チョコチップ・スコーンはすぐ出て来た。
「そう言えばレンってさぁ、」
グラスを傾けながらモカが尋ねる。
「誕生日っていつ?」
「唐突だな」
「いいじゃん、名前と違って減るもんじゃなし」
——別に名前も減りはしないが……
「……10月5日」
「へぇ〜?」
相槌を打ちながらスマホを取り出し、ポチポチと何か打ち込んでいる。
——なんだ? 誕生日プレゼントとか期待していいのか?これは。
ちょっと心が弾む。仕切り直しに珈琲を啜る。
「……ほらっ」
「え?」
スマホを仕舞った途端に、よく分からない
「ほぉらぁっ!」
「なに」
「この流れで察してよぉ!
小さい口をへの字に曲げ、遺憾の意を示している。「来い、来い」と口パクしながら、こちらに差し出した手を曲げ伸ばししている。
「あー……そっちの誕生日は?」
「名前で呼んで!」
「……モカの誕生日は?」
「よくぞ訊いてくれましたっ!」
えっへん、と胸を張った。白い布地の下、小さく揺れるそれに思わず視線が行って、慌てて卓の木目を注視する。
「私の誕生日はぁ、8月10日です!」
「へぇ……」
「そう! 8月10日なのです!」
「いや、二度言わなくても——」
「は、ち、が、つ、と、う、か!」
——随分と強調するなぁ……ん?
「あれ? 今日って……」
「8月3日だねぇ」
「——て事は……」
「気付いたかね? ワトソンくん!」
——誰がワトソンじゃ。
彼女は過去一と言っていいほどニヤけた顔をしている。さてはこの為に誕生日を訊いて来たな?
「……誕生日、来週なんだな」
「ピンポン、ピンポーン! 大正解っ!」
わざとらしく拍手している。
——要するに、来週会う時に祝え、と。
……ん? でも彼女の家族や友達が、パーティーくらい開いてくれそうな気がするが……いや、言うのは野暮な気がするし、やめておこう。
「はぁ……分かったよ。祝えばいいんだろ祝えば」
「なぁんかその態度ムカつくなぁ」
「で? 何か欲しいもののご希望は?」
「えぇー? そこはやっぱりぃ、考えて気持ちの篭った物が欲しいなぁ?」
身をくねらせて上目遣いをしてくる。可愛いのは認めるが、その返答は正直めちゃくちゃ困る。
——異性へのプレゼントって一番苦手なんだよ。何贈ってもガッカリされた経験しか無いぞ。
「……なんかこう、ヒントとか……?」
「ないでーす!」
「好きなもの、とか……?」
「ないでーす!」
「いや、それは嘘だろ!」
僕のツッコミにケラケラと笑い転げてる。こっちは真剣に悩んでるというのに……!
「そんじゃ、来週期待してるから、よろしくね!」
そう言って、モカはさっさと勘定を済ませると、にこやかに手を振りながら去っていった。
ベルの残響とジャズが聞こえる中、ぽつんと残されたのは、珈琲に暗い表情を映す男が一人——
——いや待て、僕以外にもいるじゃないか!
ガバッと顔を上げる。
「マスター! 女性へのプレゼントって、何がいいですかね!」
それに対しマスターは、目を閉じて静かに首を横に振った。
それからしばらく、ああでも無い、こうでも無いと、僕はカウンターの上で頭を抱えたのであった。
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