第15話 ジム体験

「ねぇ結衣ちゃん、今週末、キックボクシング体験行かない?」




昼休みのオフィスで、神谷さんがパンフレットを手に声をかけてきた。




「えっ、キックボクシング?」




「そう。総務の中村さんと木下さんとで行こうって話になってて。結衣ちゃんもどうかなって」




――全員20代前半の、明るくて元気なタイプの女性社員たちだ。




「……ちょっと気になるかも」




「おっ、いいね!じゃあ土曜に駅前のジム集合ね!」




なんとなく新しいことに触れてみたくて、結衣は頷いた。




──土曜午後、駅前のキックボクシングジム。




「わ、本格的」




リング、サンドバッグ、ミット。


思ったより清潔感のある空間に、エアコンの風と薄く響く打撃音。




受付で名前を伝えると、スタッフがにこやかに案内してくれた。




「いらっしゃいませ。更衣室はこちらになりますね」




(ちょっと緊張するけど……まぁ、楽しんでみよう)




更衣室で着替えを終えて集まる。




「結衣ちゃん、スタイルよすぎ!」


「いやいや、脚長すぎない?」


「ちょっと立ってみて。ポーズ取って!」


「うわっ、本気で広告いけるやつじゃん!」




恥ずかしいけどちょっと嬉しかった。




インストラクターの説明で体験コースが始まる。




「じゃあまずは構えからいきましょう!」




足を肩幅より広めに、体重を均等に。




拳は顎の前、肘を内に絞って。




鏡の前でフォームを確認しながら、結衣はそっと身構えた。




(動いてみると、思ってたより難しい……)




続いて軽いシャドー。


周囲は「うわ、難しい!」「腕下がってく~!」


と笑いながら動いている。




「ワン・ツー!」とテンポよく掛け声が響く中、結衣も合わせて拳を出す。




「はい、ここはリズム意識していきましょう〜!」




汗がじわじわとにじみ、肩で息をする頃には、ようやくミット打ちに移った。


バシッ、バシッ。






ふと視線を横に向けると、奥のエリアでは常連らしき男性たちが、サンドバッグを黙々と叩いていた。




「うわ……レベル違う……」




「どれだけ通えば、あんなふうになれるんだろ……」




蹴りの音、ステップのキレ、無駄のない動き。その一つひとつに見惚れてしまう。




(……ちゃんと続けたら、私達もああなれるのかな)




そんなことを思いながら、結衣はまたミットの前に立った。




やっぱり女になると力も落ちるんだな…などと思いながらも、ようやく形になってくる。




(難しいけど……なんか気持ちいい)




──その頃、ジムの隅。




スタジオのガラス越し、ウェイトエリアにいた既存の男性会員たちが、ちらちらと目線を送っていた。




「……あの子、今日体験?」




「可愛いねあの子」




「モデルとかやってそうじゃね?」




「おい、見すぎ見すぎ」




その視線の先――




前髪をピンで止めた結衣が、真剣な表情でミットに向き合っていた。




細くしなやかな腕、軽く跳ねるポニーテール、額の汗が光に反射してきらりと光る。




ジム内の空気が少しだけざわつく。




「来週も来るかな」




「来るって信じよう」




彼らはその後も、自分のメニューそっちのけで――時折チラ見しながら、黙々とトレーニングを続けていた。




その日、ジムの一角には多くの“視線”が集まっていた。




──体験終了後。更衣室。




「は〜!めっちゃ疲れたー!」




「でも、なんか楽しかったね!めちゃくちゃ汗かいた!」




汗まみれになったTシャツを着替えながら、みんなが盛り上がっている。




「ていうかさ、結衣ちゃんほんと可愛かったよね!」




「あの跳ねた髪とか、汗でちょっと乱れた感じとか……」




「アイドルのライブ終わりっぽいね!」




やめて!と結衣がツッコミを入れると、みんなで爆笑。




「でもホント、結衣ちゃん来てくれて楽しかったよ〜!また一緒に来よう!」




「……じゃあ、私も付き合うよ」






軽い疲労感と、笑い声と、ほんのり心地よい高揚感。




(これ、案外悪くないかも)




そう思いながら、結衣はタオルで額をぬぐった。




そして、四人はジムの入会手続きをした。








──結衣たちが帰った後、ジムの一角。




「……今の子たち、帰った?」




サンドバッグエリアの隅に、男たちが自然と集まってきていた。




「なあ、さっきの子ら……体験だけじゃなかったよな?」




「うん、間違いない。入会手続きしてた。全員」




「マジで!? 結衣ちゃんって呼ばれてた子も!?」




「いたいた。受付でしっかり用紙書いてた」




「うおお……マジか……! ってことは、また来る……?」




「来るぞ。グループで定期的に通うって、スタッフが話してた」




その瞬間、周囲にざわっとした歓声が広がった。




「盛り上がってきたな……」




「てかお前、ミット打ち中ずっと振り返ってただろ」




「お前だってコンビネーション途中で止まってたからな」




「うるせーよ。……でも、あんな子が定期的に来るとか、モチベ爆上がりだろ」






そんな空気を横目に、スタッフが苦笑しながら一言。


「……カッコいい姿、見せてあげてくださいね」




その言葉に、全員が一瞬ピタリと静まり――




「……っしゃあ!!」




「もう一回スパーお願いします!!」




「今日からメニュー増やすわ!!」




「ディフェンス練習もう一回!!」




一斉に、それぞれのトレーニングエリアに散っていく男たち。




汗を拭っていたタオルを放り投げ、サンドバッグへ向かう者。




鏡の前で構えをチェックし直す者。




声を張り上げるスパーリング組。


その日ジムは“燃えて”いた。








──翌週、駅前のキックボクシングジム。




入口のドアが開く。




「こんにちは~!」




明るい声とともに、結衣たち4人がジムに入ってきた。




先週と同じポニーテール姿の結衣が、入った瞬間、数人の視線を一斉に集めた。




──奥のサンドバッグエリア。




「……あ、来た来た」




「先週の子たちじゃね?」




「やっぱ可愛いな……特にあのポニーテールの子」




「いや全員可愛いだろ……」




その場にいた男たちの動きが、一瞬ぴたりと止まる。


が、すぐにザッと音を立てるようにトレーニング再開。




「っしゃー! もう1セットいこう!」




「ディフェンス練習入れて!」




「俺、サーキット追加でやっとくわ!」


唐突に湧き上がるやる気と活気。


空調の音より、打撃音の方が明らかに響くようになる。




スタッフが受付カウンターの奥で小さく苦笑した。


「……また今日も元気になったな、うちのジム」




更衣室から出てきた結衣たちが、ストレッチを始めていると――




「誰かー、あの子たちのミット持ってあげて〜」


と、インストラクターの声がフロアに響いた。




その一言に、男性陣が同時にピクッと反応する。




「……誰いく?」




「いや、ここはさりげなく自然に……!」




「お前、グローブ脱ぐの早すぎ」




「全員めっちゃ狙ってるじゃん」




一人が一歩前に出ようとすると、別の男がわずかに肘でブロック。


視線の駆け引きと、謎の心理戦が静かに展開されていた。




──そのとき。




「じゃあ、高橋さんお願いできますか?」




インストラクターの声に場が静まり返る。




「……っしゃあ……!」(小声)




高橋は誇らしげにミットを掴んだ。


「よろしくお願いします!」




結衣の笑顔に、裏返った声で応える高橋。


遠巻きの男たちはグローブを強く握り直す。




リング脇で会長が咳払いをした。


「そんなにミットしてぇなら、今度の試合で決めろ。勝ったらあの子らのミット持たせてやる――それで文句ねぇだろ?」




「マジか」「……絶対勝つ」




その場の空気が一変した。




後日、区のアマチュア大会。


なぜか同じジムの男たちが全員、一回戦を突破していた。




「……で、結局誰がミットを持つんだ?」


「決勝まで残った奴で決めるしかねぇだろ」




動機はどこか間違っている。


だがジム史上、かつてない快挙が幕を開けようとしていた。

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