第2話 告げられる真意
スマートフォンの画面が暗くなった途端、部屋は再び静寂に包まれた。その沈黙は、剣人の胸に言い知れぬ不安となってのしかかる。詩織の声の微かな震え、そして「話したいことがある」という言葉の重み。それは、これまで彼が経験してきたサッカーの試合で、劣勢に立たされた時にも似た、重苦しい予感だった。
玄関の扉を開け、夜の街へ足を踏み出す。ひんやりとした春の風が彼の頬を撫でた。街灯のオレンジ色の光がアスファルトを照らし、二人の思い出の道をぼんやりと浮かび上がらせる。いつもなら何気なく歩くこの道が、まるで長く、重い道のりのように感じられた。彼の足取りは重く、まるで泥の中でステップを踏むかのようだ。
脳裏には、詩織との三年間の思い出が走馬灯のように駆け巡る。
一番最初の記憶は、高校受験の日。慣れない土地で道に迷い、焦燥感に駆られていた剣人の目の前に、地図を片手に困り果てた様子の女子生徒がいた。それが詩織だった。声をかけると、彼女もまた道に迷っていることが判明し、二人で協力して何とか試験会場に辿り着いた。あの時の、不安と安堵が入り混じった、詩織の少し赤らんだ頬と、はにかんだ笑顔を、今でも鮮明に覚えている。その偶然の出会いが、二人の運命を繋ぎ、同じ高校に進学し、自然な流れで交際が始まったのだ。
サッカー一筋で、恋愛経験などほとんどなかった彼にとって、詩織との交際初期は、手探りの連続だった。文学少女の詩織とのデートでどう振る舞えばいいか、何度頭を抱えたか分からない。それでも、詩織はいつも彼の拙い話に耳を傾け、彼のサッカーへの情熱を理解しようとしてくれた。初めて二人で映画館に行った日のこと。剣人は迷わずアクション映画を選び、詩織は少し困った顔をしながらも頷いてくれた。映画が終わった後、剣人が興奮して派手なアクションシーンや迫力ある展開を語る横で、詩織は静かに、登場人物の心の動きや、背景に込められたメッセージについて語ってくれた。互いの興味はまるで違うのに、隣にいるだけで満たされた、あの不思議な感覚。
ショッピングモールでのデートも、いつもそうだった。剣人がスポーツ用品店で新しいスパイクを真剣な眼差しで眺める隣で、詩織は近くの書店で文学作品や詩集を吟味する。それぞれの世界に浸りながらも、時折顔を見合わせて微笑み、相手の興味に寄り添うことができた。あの時の詩織の柔らかな笑顔と、彼に向けられる温かい眼差しを思い出すたび、剣人の胸は温かくなった。そんなささやかな時間が、二人の絆を、何よりも確かなものにしていったのだ。
詩織は、剣人がサッカーに打ち込む姿を、いつも陰ながら応援してくれた。県大会の応援席で、彼女が手作りの小さなマスコットを振っていた時、剣人は何度勇気づけられたか分からない。そして、彼が文化祭で詩織が文芸部で発表した自作小説を深く読み解こうとしたように、お互いの世界を尊重し、理解し合えたかけがえのない日々だった。彼女の繊細な感受性から生み出される物語は、彼の単純な思考回路では辿り着けない、新しい感情の領域を教えてくれた。その全てが、まるで走馬灯のように、彼の脳裏を駆け巡る。
詩織の家が近づくにつれて、彼の心臓は早鐘のように打ち始めた。インターホンを鳴らす指先が微かに震える。返事を待つ数秒が、永遠のように長く感じられた。
ガチャリ、と扉が開き、詩織が顔を出した。その瞬間、剣人は息を呑む。
詩織の顔は、いつもより青白く、目元が微かに赤い。高くまとめた艶やかな黒髪のポニーテールはいつもと変わらないけれど、その表情には、張り詰めた決意と、深い悲しみが混じり合っているように見えた。
「……剣人」
詩織の声は、電話で聞いた時よりもさらに小さく、絞り出すような響きだった。剣人は、言葉もなく頷き、彼女の招きで家の中へ足を踏み入れた。
二階の詩織の部屋に通されると、そこはいつもと変わらぬ穏やかな空間だった。窓から差し込む、わずかな街の光が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。本棚にはびっしりと文学作品が並び、机の上には文芸部の部誌と、読みかけの単行本が整然と置かれている。彼女の知的な一面が窺える一方で、部屋全体にはどこか張り詰めた空気が満ちていた。まるで、彼女が書き上げた小説のクライマックスを目前に控えたような、独特の緊迫感だ。
詩織は、彼を椅子に促すと、その正面に座った。二人の間には、重苦しい沈黙が横たわる。剣人は促されるまま椅子に腰掛けたが、その座り心地は最悪だった。居心地の悪さが、全身を苛む。詩織は視線を合わせようとせず、自身の指先をじっと見つめている。その指先が、膝の上で微かに震えているのが剣人には見えた。この沈黙が、嵐の前の静けさであることを彼は感じ取っていた。サッカーの試合で、フリーキックの前に時間が止まるような、あの張り詰めた感覚だ。
やがて、詩織がゆっくりと顔を上げた。その瞳は、潤んでいながらも、確固たる意志を宿していた。
「……あのね、剣人」
彼女の声は、普段の柔らかい響きとは異なり、微かに震え、しかし、一つ一つの言葉を慎重に選びながら紡ぎ出される。まるで、自作小説の重要な台詞を推敲するように、彼女はゆっくりと話し始めた。
「私たち、明日、卒業するでしょう?」
剣人は無言で頷いた。彼の喉の奥は乾ききっていた。
「進学先も、離れてしまう。剣人は東京へ、私はこの地元に残る……」
彼女の言葉は、まるで現実を突きつけるかのように、剣人の胸に重く響く。言葉が彼の心に突き刺さるたび、身体を流れる血液が冷えていくような錯覚を覚えた。
「遠距離恋愛が、どれほど大変か、剣人もわかってると思うの」
詩織は、剣人の顔から視線を外し、再び自身の膝の上へと目を落とした。言葉を選びながら続けた。
「会いたい時にすぐに会えない。お互いの生活が見えなくなる。会えない寂しさや不安が募って、疑心暗鬼になることもあるかもしれない……」
彼女の言葉は、剣人が漠然と抱いていた不安を、具体的な形にして目の前に突きつける。詩織の文学的な感受性が、未来の困難を現実的に、そして繊細に捉えていることが伝わってくる。彼女は、物語の登場人物の感情を深く掘り下げるように、自分たちの未来の課題を分析していた。
「……それが、これから始まる私たちそれぞれの新しい生活、それぞれの成長にとって、足枷になってしまうかもしれないって、私、ずっと考えていたの」
詩織の瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。だが、彼女はそれを拭おうとしない。その涙は、彼女の決意の固さを示しているかのようだった。彼の元サッカー部としての闘争本能が、この局面では全く役に立たないことを痛感する。目の前の詩織は、彼の理解をはるかに超えた、複雑な感情の領域に立っているように見えた。
「嫌いになったわけじゃないの。決して、一緒にいたくないわけじゃない」
詩織は、そう付け加える。その言葉の裏には、彼を失うことへの痛みと、それでもこの決断を下さざるを得ないという、激しい葛藤が滲み出ていた。剣人は、詩織の目元に浮かぶ赤い色と、絞り出すような声の震えから、その真意を感じ取る。だが、彼女の言葉が持つ重みに、彼の心は締め付けられ、何も言い返すことができない。彼の喉の奥には、言いたい言葉が山ほど詰まっているのに、一つも言葉として出てこない。
詩織は深く息を吸い込み、潤んだ瞳で真っ直ぐに剣人を見つめた。その眼差しは、彼の胸を射抜くほどに強い。
「だから……」
その一言が、まるで断崖絶壁から突き落とされるかのように、剣人の心に響いた。その先に来る言葉を、彼は無意識に予感していた。避けられない「卒業」の言葉が、今にも彼女の口から零れ落ちようとしている。部屋の静寂が、その言葉を一層際立たせるように感じられた。剣人の胸には、言いようのない喪失感が広がり始めていた。
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