ほくろ
午後八時
第1話 ほくろ
とある昼下がり、マリー・ゴールド夫人はリビングで新聞を読んでいました。外からは子供のはしゃぐ声や鳥のさえずりが聞こえてきます。その声は春の新しい出会いにうかれ、彼らの目に映るものすべてが輝いていることを容易に想像させました。
しかし、子供が独り立ちし、すっかり生活習慣が決まった夫人には新しい出会いなどありません。ゴールド夫人は外の声を無視し、もくもくと新聞を読み進めます。新聞をめくる夫人の手が止まったのは、紙面に掲載された広告を目にした時でした。
『不思議なことで困っていませんか? よろしければわが社にご相談ください。
デュポン不思議相談所』
夫人は広告のうたい文句をまじまじと見つめました。ちょうど、不思議なことで困っていたからです。それでも、すぐに広告の番号に電話をかけることはしませんでした。広告には利用者の評判も、心奪われる挿絵も、解決できなかったときの対応も書かれておらず、この相談所が信用できる要素がなかったからです。
(本当に、なやみを解決してくれるのかしら)
広告を見つめながら、夫人はしばらく考えました。
(せっかくだから、お話だけでもしてみましょう)
夫人は電話に手をのばし、番号を間違えないように何度も確かめながら電話のボタンを押します。
「デュポン不思議相談所でございます」
数回のコール音のあと、若い女性が答えました。
「あの、新聞で広告を見て、お話だけでも聞いてくださらないかと思いまして」
「かしこまりました。明日の午後はいかがですか」
「かまいません」
「では十五時にいらしてください。住所は・・・」
電話を切ったゴールド夫人は、ふいにおとずれた冒険に興奮し、少し赤みがさした顔をごまかすように、明日着て行く洋服を選ぶため、足早に自室へ向かいました。
翌日、ゴールド夫人は馬車にゆられて相談所に向かいます。教えられた住所によれば、相談所は商業地区と住宅街の間の、工場と商店と住宅が入り混じる地域にあるようです。
馬車は軽快に走ります。頬をなでる風はまだ冬の面影を残しますが、日光はやさしく夫人を包み、空は気持ちよく晴れています。
公園の横を通りかかると、クスノキは柔らかな若葉を茂らせ、シロツメグサや、名の知れぬ薄青色の小さな花の間をリスが駆け抜け、それを見た若者たちがきゃあきゃあと歓声を上げていました。今日は誰にとっても行楽日和です。
「ゴールドさんですね。おまちしておりました」
時間通りに事務所を訪れた夫人を出迎えたのは、ブルネットとマスカット色の瞳が印象的な20代前半ほどの女性でした。声から、自分の電話に答えたのはこの女性だと夫人はわかりました。想像していたよりもさらに若かったので、夫人はおどろきましたが、顔には出しませんでした。人前で表情をころころ変えるのは、はしたないと思ったからです。
「デュポンさん、ゴールドさんがお見えになりました」
秘書と思われるその女性は応接室のドアをノックし、ゴールド夫人が来たことをデュポンに伝えます。
「どうぞ」
応接室の中から、獣のうなり声のような低い声が聞こえました。その声にうながされた夫人は、緊張した面持ちで部屋の中へ進みます。
部屋にはエメラルドグリーン色の一人掛けソファと、古びた大きな机が一つずつ置かれていました。夫人が入室したとき、机の上ではまるまると太った一匹のねこが、前足を大きく突き出し、気持ちよさそうにのびをしていました。
(ミスター・デュポンはどこにいるのかしら)
夫人はソファにすわり、室内を見わたしました。声は確かに部屋の中から聞こえたのに、夫人の他に部屋にいるのは、机の上の太ったネコだけです。
ネコは大きなあくびをして、せかせかと顔のそうじをしています。いつまでたってもデュポン氏が現れず、手持ち無沙汰な夫人がぼんやりとネコを見つめていると、そうじを終えたネコはゴールド夫人をじっと見つめ、口のまわりをペロリとひとなめし、
「お待ちしておりました。ゴールドさん」
と夫人に話しかけました。
最初、夫人は自分に話しかけた声の主がネコだと気がつきませんでした。なので、ネコ―この事務所の所長のデュポン、はさらに一、二回夫人に話しかけ、最後に
「こちらですよ。机のうえにおります」
と言いました。そこで、夫人は自分がネコから話しかけられていることに気がつき、目をぱちくりさせ、机のうえのネコをまじまじと見つめました。
ネコは体の上半分が薄茶色、下半分は白色で、太っているのか毛が長いせいなのか、とても大柄に見えました。細められた目は黄緑色で、首からは陶器のイヌの根付をぶら下げています。
「ネコが所長をしていることが、意外でしたかな」
「ええ、だって、ネコって寝るのが仕事なのだとばかり思っていましたから」
とても驚いた夫人はつい思ったことをそのまま口にしてしまいましたが、すぐに、
「でも、世の中にはたくさんのネコがいらっしゃるのですから、あなたのように立派に事務所を経営されているネコがいても、おかしくありませんわ」
とネコが働いていることに、それほど驚いていないという風に言い訳をしました。
「あなたは聡明な方ですな、ゴールドさん」
ゴールド夫人の言葉に、デュポンは気を良くしました。
「それでは、さっそく仕事の話に移りたいのですが、あなたはどのような不思議でこまっておられるのですかな」
「あら、わたくし、なかなかお話しませんで、申し訳ありません。でも、そんなたいしたことじゃありませんのよ。実は、わたくし、ほくろをなくしまして」
夫人の言葉にデュポンは黒目をきゅっと細めました。その表情が絵にかいたように驚いた顔だったので、夫人は少しおもしろくなりました。
「ほくろ、ですか」
「ええ、ほくろです。わたくし、首もとにほくろがありましたの。それがいつの間にかなくなってしまいまして、探していただけないかしら」
「しかし、女性というのは、ほくろとかシミとか、そういったものができるのを嫌うものだと思うておりました」
「なかったところに突然できるのはいやですわ。でも、あったものが突然なくなるのも、それはそれでなんだかいごこちが悪くって、いやなんですの」
デュポンは「女ごころというものは難しいな」と思いましたが、口にも表情にも出さず夫人の言葉にうなずきました。
「ひとつ教えていただきたいのですが、ほくろをどこでなくしたのか、お心あたりはございますか」
(どこでなくしたのかなんて、それがわかれば自分で見つけるわ)
デュポンの質問に、夫人はこの相談所に来たのは失敗だったと思いました。
「はっきりと断言はできませんが、家のどこかだかと思います」
がっかりした夫人は、適当に答えて帰ろうと考え、あたりさわりのない返事をしました。しかし、夫人の返事をきいたデュポンは、夫人の気持ちなど露知らず、居住まいを正すと自信満々に告げました。
「かしこまりました。それでは明日にでも、あなたのなやみを解決するにぴったりの人物を派遣できますが、いかがなさいますか?」
「本当に、わたくしのほくろを見つけていただけますの」
「もちろんです」
思いがけない返事を聞いた夫人は面食らいましたが、提示された謝礼金が安かったのと、自信にあふれたデュポンの顔を見ているうちに、ためしに頼んでみるのもわるくないと思えてきました。
「それでは、お願いしますわ」
「おまかせください。では明日、十四時に我が事務所の相談員を、あなたのご自宅へ派遣いたします」
ゴールド夫人が立ち去ると、デュポンは机の上のベルを鳴らしました。
「だれを行かせますか」
呼ばれた秘書の女性は、デュポンを軽くなでながらたずねました。
「チャーリーが良いですな。家の中のことなら、万事うまくやりおる。ミセス・マスカット、明日の十四時に依頼人の家に行くよう手配をお願いしますぞ」
「かしこまりました」
ミセス・マスカットが部屋をでると、デュポンはなでられて乱れた毛並みをととのえ、ふたたび丸くなりました。
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