第五話 烈焔の宿敵
——荘岐たちが長安で軍議を終えた頃、遥か漢中の蜀軍本営
蜀——それは君主の劉備が掲げる”漢王朝の正統”を旗印とする国であった。
乱世の群雄が皆それぞれの志を抱く中、劉備は皇室の末裔を名乗り、正義と仁をもって天下を導くと"称した"。
だが、その眼差しの奥には、誰も触れることのできぬ野望の火が灯っていた。
王朝を復すという大義は人心を掌握するための旗であると同時に、己が天下を制すための剣でもあった。
劉備にとって漢中の戦場はその剣を抜くための舞台である。
山間を埋めるように蜀軍の天幕は幾重にも連なっていた。
松明の炎が夜空を赤々と照らし、兵たちの鬨の声は谷を震わせる。
矢を束ね、槍を研ぐ音が絶えず響き、決戦のときが近いことを告げていた。
陣中の空気は張り詰めていたが、そこには敗北の影よりも、"必ず曹魏を打ち破る"という昂ぶりが満ちていた。
馬の嘶き、鍛冶の槌音、兵の笑い声すらも、すべてが一つの軍勢の息吹となって夜を震わせる。
そのただ中、ひときわ大きな天幕に集まった将たち。劉備の一声を待つかのように、陣営全体の目が彼に向いていた——
重臣の一人が口を開いた。
「我が君。 我が軍は大変奮闘しております。 しかし前線は魏軍の抵抗が激しく、膠着状態が続いております……このままでは兵力が持つか分かりませぬ……」
「……うむ」
劉備は腰に剣を携えたまま、遠くを見つめて沈黙している——まるで何かの到来を待ち受けているかのように。
沈黙した空気を切り裂き、自信に満ちた大声が響いた。
「我が君、ご心配には及びません。 私が新たに鉄騎兵一万を率い、敵陣を一気に突破してみせましょう!」
劉備の前に進み出た男の名は魏延(ぎえん)。
その名を蜀で知らぬ者はいない。劉備が蜀を興したのち、その武勇をもって幾たびも戦線を支えてきた勇将である。
「そうか……それは頼もしい……」
しかし、劉備の目は魏延ではなくその先にある何かを見据えていた。
「よし! お許しとあれば、早速兵を率いて参ります……!」
魏延が踵を返したそのとき——兵営に誰かの声が響き渡った。
「——天よ……!! 蜀の命運は……ああ……どうか、お救いください……!」
声の主——二十歳ほどの端正な顔立ちのその青年は天を拝むような身振りで、兵営の奥で何かをしきりに叫んでいる。
そのあまりに芝居がかった声がわざとらしく天幕に響いた。
皆の注目がその青年に集まる。
劉備の視線もゆっくりとその声の主へ向けられた。
臣下の一人が彼を指差し声を荒げた。
「おい小僧! そこで何をしている? どうやってここに忍び込んだ……!」
「ああ……大事な軍議を止めてしまい、申し訳ございません。 しかし、先ほどからお話を伺っていたところ、どうやら蜀の命運を"天の気まぐれ"に託されたようなので、こうして祈りを捧げていたのです……」
青年は悲哀に満ちた声と手振りで答えた。
「ああ? 何が天の気まぐれだ……! あいつ、気が触れてるのか……?」
魏延が苛立った声とともに青年を睨みつける。
「将軍、ご心配いただきありがとうございます。 しかし、私はきわめて健常です」
そう言いながら青年は他の臣下たちをかき分けるようにゆっくりと前方に進み出て魏延と並んだ。
「そなたもしや……陵烈(りょうれつ)か……?」
劉備は何かを思い出したように呟いた。
「はい、我が君。 先ほど漢中に到着いたしました」
「そうであったか……では、なにゆえ祈っていたのか聞かせてみよ」
陵烈は兵馬の駒を魏延からなかば奪い取るように掴み、動かしはじめた。
「はい、ご説明いたします。
現在の漢中における戦線について、まず兵力を見ますに、我が軍は勢い盛んですが、その数は魏軍に及びません。
次に地の理を見ますに、我が軍は比較的平坦な道のりで補給を行うことができますが、魏軍は険しい道のりを経て兵糧を運ばねばなりません。
総じて形勢は五分。
ゆえにこのまま戦闘が続けば、最後にどちらが漢中を取れるかは分かりません。
とくに先ほどのような短絡的な戦術では、大軍を危険に晒す"賭け"に出るようなもの……我が君のご決断とあれば無論従いますが、私はもはや天に祈ることしかできないでしょう……」
陵烈はわずかに肩をすくめ、真顔でそう言い切った。
淀出るような陵烈の分析に面くらい、臣下たちが呆気に取られる。
("揺らいだ"な……)
陵烈の口角がわずかに上がり、確信の色が胸に広がった。
彼が捉えたのは議場を取り巻く空気とそれを司る人々の"思考の波"だった。
「貴様……! 俺を愚弄する気か……?」
魏延は眉間に皺を寄せ、拳を握りしめる。
「とんでもございません。 将軍は勇猛果敢、戦場における奇襲は天下随一。 しかし、戦は力だけで決まりません。 時に、一矢の乱れが大軍を滅ぼすのです」
「……図に乗りやがって……!」
「魏延よ……落ち着くのだ」
いまにも陵烈に掴みかかろうとする魏延を劉備が制止した。
「陵烈よ。 そなたならこの膠着をいかに崩す?」
穏やかな声色に反して、その眼差しは陵烈を値踏みするように鋭かった。
「我が君、魏軍が使う可能性のある補給路は複数ございます。
しかし、いずれも険しい山を越えるものです。
そして私の見立てでは、今の奴らの兵糧はもってあと数日。
つまり、もしその糧道を封じることができれば……決して天を仰がずとも、漢中は必ず我らの手に落ちましょう」
「……もっともだ。 魏延は一万を率いると言ったが、そなたにはいかほどの兵が必要か?」
「魏延将軍の部隊から“百名”——それで十分でございます。 他の兵はどうか前線にお回しください」
陵烈は言い終わると劉備に向かい深々と礼をした。
「……」
劉備の目が見開かれる。
「はーっはっは……!! 笑わせてくれるじゃねぇか! 百人だと? どうやら戦の規模も分かってねぇようだな」
魏延の笑い声が議場に響いた。
劉備は静かに立ち上がり、椅子の周りをゆっくりと歩きながら逡巡した。
その様子を臣下たちが不安げに見つめている。
天幕の火が揺らめき、誰もが次の言葉を待った。
しばらく沈黙した後、劉備は口を開いた。
「よかろう。 陵烈よ、そなたは百の兵を率い、敵軍の喉元を断つのだ」
「承知いたしました」
「な……そんな……! 我が君、ご再考ください!」
魏延が動揺し、劉備に懇願する。
兵営に臣下たちのざわめきが広がる。
「我が君、そのようなどこの馬の骨とも知れぬ者の言葉など……聞く道理はございません!」
「まさか……敵の回し者ではあるまいな……?」
その喧騒の中、陵烈はある一枚の書状を懐から静かに取り出し、皆に見せつけるようそれを広げた。
「皆さん、ご覧ください! ——ここに、"孔明先生"からの推薦状がございます……!」
議場がさらに色めき立ち、誰もが陵烈の手にした書状を食い入るように見つめる。
劉備は陵烈に歩み寄り、書状を直々に手に取って確かめた。
劉備は印の朱の薄れを指で撫で、ほんのわずかに眉を動かした。
「……これはたしかに孔明からの書簡だ」
「そんな……まことなのですか!?」
「孔明殿がこんな童を……信じられん」
「陵烈よ、これは戦局を左右しかねない大任だ。 よいか、具体の戦術については魏延とよく話し合った上、協力して任にあたるのだ」
陵烈に任を託した劉備。その顔には何かを確信したような、身の毛もよだつ笑みが浮かんでいた。しかし、その真意はその場の誰にも分からなかった。
「俺が……こんな小僧と……」
魏延は小声で呟いて歯噛みした。
「必ずご期待にお応えいたします」
そう言って不敵な笑みを浮かべる陵烈の瞳には、"真紅の光"が燃え盛っていた。
——そして、遙か長安で静かに脈打つ青に呼応するように、いま、漢中の夜は闘志の焔を増した。
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