第十一話 祝福の紫微垣
──七年前、洛陽郊外の一角
冬の夕暮れ。
灰色の空からは細かな雪が舞い落ち、風が吹き抜けるたびに路地裏の空気がさらに冷たさを増す。
土と煤にまみれた石畳の隅に小さな少女が一人、震えながら身を丸めていた。
まだ九つになったばかりの玲蓮。
その身を包むのは、薄くほつれた麻布一枚だけ。
痩せた頬は赤く腫れ、唇は凍えで紫に染まっている。
——ほんの数日前まで、彼女は洛陽の城郭外近郊にある小さな農村で両親とともに慎ましくも穏やかな日々を送っていた。
冬はいつも母が縫ってくれた真綿入りの上着を着て、父といっしょに薪を運んだ。
夜になれば焚き火の前で三人寄り添い、芋を焼いて食べた。
父はそのたびにどこかで聞きかじったという、とある古い民話を語ってくれた。
玲蓮はそれを聞く時間をいつも心待ちにしていた。
「もっといろんなお話が聞きたいな」
彼女はそう何度も父にせがんでは、母に笑われたものだった。
決して裕福ではなかったが、幸福で満たされた毎日だった。
母のやわらかな手のぬくもり、父の低く優しい声──そのすべてが、今では遠い夢のようだった。
そんなある日、突然、村に兵の一団が現れた。
戦で荒れた軍勢が、補給の名目で家々を襲い、食糧や衣服だけでなく、抵抗する村人たちの命までも奪っていった。
村は叫び声と炎に包まれ、玲蓮は母に背を押されるようにして家から逃げ出した。
振り返った最後の瞬間、父が斬られるのを見た。
母はそのすぐあと、娘をかばって兵士に連れ去られた。
玲蓮は声も出せず、ただ走った。
何もかもを、燃える村に置いて。
そして、気がつけばここ洛陽の貧民街に流れ着いていた。
──それ以来、彼女はまるで心のどこかに鍵をかけたように感情を閉ざしていた。
人と目を合わせることも、言葉を交わすこともなくなっていた。
ただ空虚な瞳で、目の前の過酷な現実を見つめるだけ。
何かを信じて、またそれを失うことが何より恐ろしかった。
「……おとうさん……おかあさん……」
玲蓮は誰にも聞こえないように、かすかにそう呟いた。
だが、声に出してしまった途端、胸の奥にしまいこんでいたものが崩れはじめる。
肩を震わせ、冷たい地面に顔を伏せた。
頬を伝う涙が、凍える皮膚にしみてなおさら痛かった。
空は鉛色に沈み、夜の帳がじわじわと迫っていた。
周囲にはちらほらと人影がある。
だが、誰も彼女を気にかける者などいない。
誰も振り返ってさえくれない。
「……さむいよ……」
ぬくもりも、愛情も、希望も──すべてが奪われた世界に、玲蓮はたった一人で、ただ凍えるだけだった。
そんな彼女に一人、話しかける少年がいた。
「やあ……はじめまして。 君も最近ここに来たのかい……?」
「……え……そうだけど……」
「僕は荘岐。 君の名前は?」
「……」
玲蓮は俯いたまま、ただ地面を見つめている。
「……隣に座ってもいいかな?」
「……」
返事はなかったが、荘岐は彼女のすぐ隣にゆっくりと腰を掛けた。
「……この辺は屋根のあるところもほとんどないし、ほんとに寒いよね……あ、お腹空いてるかな? 何か食べられそう?……って言っても干し芋しかないんだけど……」
「……いらない……」
「……そうか……でも、僕もお腹いっぱいでいらないから、ここに置いていくね」
「……」
玲蓮は驚いた表情で荘岐をちらりと見た。
荘岐は手にした干し芋を玲蓮の足元にそっと置いて立ち上がった。
「おせっかいかもしれないけど、また食べ物が余ったら持ってくる! それから、できるだけ風の当たらない場所にいるんだよ。 またね」
「……」
荘岐が去った後、玲蓮はそっと干し芋に手を伸ばし、それを口に頬張った。
「……おいしい……」
まともな食べ物を口にするのは数日ぶりだった。
気づけば、彼女の目からは自然と暖かい涙がこぼれ落ちていた。
——それからというもの、荘岐は毎日のように玲蓮の元を訪れては、食べ物や身を包む布切れを分け与えた。
──
そんなある日のこと──その日は久しぶりの快晴で、夜空には満天の星が広がっていた。
「あ、今日はここにいたんだね!」
玲蓮を見つけた荘岐が何やら荷を抱えて駆け寄ってくる。
「……また来たの……?」
その目は変わらず暗く沈み、声も掠れてはいた。
しかし、洛陽に来たばかりの彼女と比べると、いくらかその顔色はましになっていた。
「今日は風も少ないし、火でも起こして暖まろうかと思ってるんだ。 よかったらいっしょにどうかな? 食べ物は……干し草しかないけど、よく煮たら食べられるって向こうのおばさんに聞いたんだ! だから、たぶん大丈夫……なはず」
「何でいつもこんなことするの……?」
「え、何でって……きっと僕たち歳も近そうだし、仲良くなれたらいいなと思ってさ」
荘岐は、枯れ枝の束とどこからかもらい受けてきた火種を慎重に地面に広げ、火を起こす準備をしながら答えた。
「それだけ……?」
「うん、そうだよ」
——しばらく玲蓮は何も言わず、火を起こす荘岐の手元を見つめていた。
「……ここにいる人達って自分のことだけで精一杯でしょ……? あんたは他の人にもこんなことしてるの?」
「まあ、できる範囲でね……ほんとに辛い世の中だけどさ、思いやりを忘れなければ、この世界だって少しずつ変えられる気がするんだ」
「……変なの……」
「ふっ、そうだよね、よく言われる。 よし!火が着いたよ!!」
玲蓮がそっと荘岐の顔に目をやると、その顔色は悪くやつれていた。
「……もしかして、しばらく食べてないの……?」
その言葉を口にした瞬間、玲蓮自身も驚いた。誰かを気にかけることなんて、ここに来て以来、ずっとしていなかったはずなのに。
「……え、いや……たくさん食べるのは苦手でさ…心配してくれてありがとう」
荘岐は、崩れかけた器の中に干し草を入れ、火にかけながら答えた。
「……そういうわけじゃないけど……」
玲蓮は少し大きくなった火に手をかざし、俯きながら言った。
わずかながら安心感を覚えるのは、火の暖かさのおかげだろうか。
しかし、彼女には荘岐のこれまでの言動の理由が分からなかった。
なぜ彼は自分を差し置いてまで他人への施しなどするのか。
本当に感覚がずれているのか、それとも何か裏の理由があるのか、彼女の中でその疑問は日に日に大きくなっていた。
「やっぱり火があると安心できるね……ところでさ、今日は君に少し聞きたいことがあるんだ」
「え……なに……?」
「……君はさ、この世の誰もが分かり合えて、幸せになれる世界ってあると思うかい……?」
荘岐は器の中の干し草をかき混ぜながら、どこか照れくさそうに問いかけた。
「は……? 何よ急に……」
「ごめんね……やっぱり急にこんなこと言われても困るよね……だけどね、僕にとっては、今日食べる物が見つかるかどうかより大事な問題かもしれないんだ」
「……やっぱり、あんたおかしいんじゃない……?」
玲蓮が目を細めて荘岐を見た。
「君もそう思うかい?」
「……人が分かり合える世界なんてない。 農民でも兵士でも、みんな自分が生き延びるのに必死で……そんなの戦の世がずっと終わらないのを見れば分かるでしょ……」
しばらく二人の間に沈黙が流れた。
そして、荘岐は大きく息を吸い込み、星空を見上げながら語り出した。
「僕はね、ある夢を見るんだ。 それも何度も何度も同じ夢を……」
彼の目は、夜空の星々に吸い込まれるように向けられていた。
届かぬはずの光に、何かを重ねるように、夜空の中から一つの大きな星を指差した。
「夢……?」
「うん、この星空みたいな"光の海"に浮かぶ不思議な夢なんだ。 その世界には飢えも争いもなくて……そこで僕は他のたくさんの命を見守ってる」
「……それから……?」
「しばらくすると、僕以外にもう一人、その世界に現れる。 その人が誰かは思い出せないんだけど、きっととても大事な存在なんだ」
「で……そこで何をするの……?」
「ただ話すだけだよ。 僕はその人にこう言われる。 『なぜ知りたいのかについて語ろう』って」
「なぜ、知りたい…のか……?」
「うん、そして僕は夢の中でこう確信するんだ。"それ"を語るために僕はその人と出会ったんだって……」
「……よく分からないわね……それで、その夢を見てどう思ったの……?」
「うん、僕は何度もその夢を見るうちにこう思ったんだ。 人は長い歴史の中で、知らないことを知りたいと思うように成長してきた。 それはきっと他人に対しても同じことだ。 つまり、人と人が分かり合える世へ進むことは、"人類"にとって必然なんじゃないかってね」
(……"じんるい"って……なに……?)
心に引っかかる言葉があったが、玲蓮はそれを荘岐に問うことはしなかった。
「そんな世が……いつかほんとに訪れると思うの……?」
「人が想像できることは、すべて人の手でいつか実現できるんじゃないかって僕は思ってる。そのために、"一人の人間として精一杯のこと"をやりたいんだ。 まぁ、具体的にはまだ何を目指すか決められてないんだけどさ……」
星空を見つめる荘岐の瞳は澄み渡り、その視線は遥か未来を見つめているようだった。
「……」
玲蓮の胸の中に、言葉にできない暖かな気持ちが広がっていく。
なぜかそれは遥かに懐かしい感覚でもあった。
「長々と話しちゃってごめんね。 最後まで聞いてくれたのは君が初めてだよ。 ほんとにありがとう」
「……玲蓮ていうの……私の名前…」
「……玲蓮……そうか、いい名前だね!」
「……あたしもいつか見れるかな? その夢の世界……」
玲蓮は星空を見上げた。
目に映るその光が、ほんの少しだけ、いつもと違って見えた気がした。
「ああ、信じていればきっと見られるよ。 ……さぁ、そろそろ草が煮えた頃だ! 食べてみよう!」
荘岐は器の中で煮えた草を二つに分けて、片方を玲蓮に渡し、二人で恐る恐る口に入れた。
二人はしばらく夜空を見つめながら、草を噛んでいた。
「うぇーっ! にがっ……!」
突然訪れた強烈な苦味に耐えられず、二人は同時に草を吐き出した。
「食べれたもんじゃないよこれ…! おばさんの舌がどうかしてるんだ、きっと……」
「ふふっ……」
「あ……はじめて笑ったね…!」
「笑うことだってあるわよ……」
「うん、できれば玲蓮には笑っていてほしいな」
「……え……?」
「同じ火を囲んで寒さを凌いで、同じ食べ物を分け合って……そして、僕の夢の話を聞いてくれた。 だから僕にとって玲蓮はもう大事な存在なんだ」
「……信じていいの…?……荘岐……」
「ああ、玲蓮はどこにいようと決して一人じゃない。 それだけは忘れないで」
そのとき、彼女の心の中にかかった鍵が確かに外れる音がした。
「……あたしも……自分にできることを精一杯やってみたい!!」
そのすぐ隣で荘岐は優しく頷いて言った。
「玲蓮ならきっとできるよ」
──満天の星空はさらに輝きを増し、二人を暖かく見守っていた。
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