第九話 一矢の真

 荘岐と柏斗との出会いから数日後の夕暮れ時。洛陽郊外の東関所付近——


 東門は、灰色の石壁に穿たれた堂々たる構えで、幅広の街道に面している。

 門の脇には番兵の詰所や文書の検閲室が並び、奥には文書保管庫を備える建物がひっそりと建っていた。


 一見質素なその建物の地下には、限られた者しか辿り着けぬ真の記録庫が隠されている。

迷路のような通路と偽の小部屋、分厚い鉄扉——すべてが外部の目を欺くための仕掛けだ。


 門前では旅商人が検問を受け、農民が慌ただしく街へ戻っていく。

夕暮れのざわめきが辺りを包んでいた。


「この建物の中に文書保管庫があるわ。詳細な位置はあたしが平面図に描いた通りよ」


 玲蓮が竹簡を広げ、そこに描かれた平面図を指差す。その図には地下通路の分岐や偽の部屋、本来の記録庫までの正しい道順が赤く記されていた。


「わかった。 作成通り、僕と柏斗が文書保管庫に侵入する。 手掛かりになる書類を探して、見つけ次第脱出するよ。 後から三人で合流しよう。 玲蓮はできるだけ門番の注意を引いていてほしい」


「ええ、わかってるわ!」


「見つかったら、命はねぇぞ……?」

 柏斗が小さく呟いた。


「なによ、あんた…今更びびってんの?」

 玲蓮が目を細めて柏斗を見やる。


「び、びびってねぇよ……! 一応、確認しただけだ……」


「文書保管庫の扉には鍵が掛かっている。 柏斗、解除を頼むよ」

 荘岐は地図に目を落としながら柏斗に問いかけた。


「ああ、それは何とかしてやるよ。 だが、大量の書類から手掛かりになるものをほんとに見つけ出せるのかよ……」


「まあ、そこは運次第だね」


「はぁ……結局は運かよ……」

 柏斗は深いため息をつきつつ、改めて覚悟を決めた。


「番兵の注意をそらせる時間帯は人の往来が激しい今しかないの」


「注意をそらすったって……」

「たしかに、どうするつもりなんだい?」

 二人の視線が玲蓮に向く。


「それは簡単よ……こんなにかわいいあたしが、弱々しく倒れちゃったら放っておけないでしょ?」

 自信に満ちた声で玲蓮が言い放った。


「……そ、そうだな……」

「……む、無茶はしないでね……」

 二人は顔を見合わせて苦笑した。


「とにかく、目的を達成したら例の場所で落ち合おうぜ」


 頷く三人。玲蓮は先に動き、文書保管庫がある建物へ向かった。


「あの、兵士さん……すみません」

 玲蓮は弱々しく建物入り口に立つ番兵に話しかけ、わざとふらついた。


「お嬢ちゃん、どうしたんだい?」

 番兵は心配げに玲蓮を見つめる。


「あたし、旅の者なんですが、道に迷ってしまいまして……しかも、さっき郊外で盗賊に襲われて、逃げてきたんです……それに、長旅のせいで具合も悪くて……」


「そうか、それはかわいそうに。でも旅行者ならまずは通行証を見せてくれ」


「うぅ……ごめんなさい……目眩がして……」

 玲蓮がその場にゆっくりと倒れ込む。


「え……大変だ……! いま休めるところまで連れて行くからな……! おーい、少し持ち場を離れるからしばらくの間代わってくれ!」

 番兵は、関所付近で別の建物を警備していた兵士に声をかけた。


「わかった! この検問が終わったらすぐ行く!」


 そして、番兵は玲蓮を抱えて文書保管庫のある建物から離れ、少し先にある兵士用の詰所へ向かった。


 その隙を突き、荘岐と柏斗がすかさず建物内へと滑り込む。


「ふぅ……ばれずに入れたね……」

「ああ、だが本番はここからだ……」

 二人の高なる鼓動が、静かな建物に響く。


 保管庫を目指し、二人は壁と一体となった隠し扉を開き、地下通路へと降りた。


「なんだよ、この入り組んだ通路は……!?」


「大丈夫、通路の構造は頭に入ってる! 文書保管庫はこの地下で一番奥の部屋だ!急ごう!」


 荘岐と柏斗は薄暗い通路を足早に進んだ。

 壁に掛けられた松明がわずかに揺れ、影が揺らめく。

 いくつもの分岐を経て通路の奥までたどり着くと、鍵のかかった扉があり、そこで二人は立ち止まった。


「間違いない。この扉の先だ。柏斗、頼む!」


「ああ、任せろ……!」


 柏斗が鍵穴に差し込んだ細工道具を素早く、かつ正確に動かす。


ガチャ……


 わずかな音とともにあっけなく錠が外れた。


「……開いたぜ!」


「こんな一瞬で……!!」


「へっ、これぐらい余裕だ!入るぞ!」


 扉がわずかに開き、二人は部屋に足を踏み入れた。

 大量の書類の山が、薄暗い光に浮かび上がる。


「嘘だろ、ここから探すのかよ……」


「柏斗、許都からの通行証や書簡があれば全部広げて置いてくれ!この場で記憶して、後から必要な物を複製する!!」


「わかった!……え、この場でやんのか……?!」


「急いで!!」


 柏斗が書類の山から許都の印が押された通行証や書簡を素早く選び出し、床に並べていく。

 荘岐は一枚一枚目を通し、郭嘉の手掛かりを探す。


 荘岐の脳裏では、まるで雑多な書物を整然と本棚に並べるかのように、文書の内容が項目別に分類され、記憶されていく――人ではなく、書庫そのもののように。


「お前、まさかほんとに全部覚えてんのかよ……?」


 そして、その書類の中の一つが荘岐の目に止まった。


「これは……!!」


「どうした…?!」


「この通行証……許都の高官が使者として来てるのに、行き先はただの個人の邸宅だ……家主の名は…"林安"となってる。洛陽の高官や豪族の名はあらかた記憶してるけど、そんな名前は聞いたことない……」


「たしかに怪しいな……」


「それに、この印はどこかで……まさか……!!」


 荘岐が何かを掴んだそのとき、通路の奥から声が響いた。

「おい、誰かいるのか?」


 松明を手にした門番の声が、通路に反響する。足音が徐々に近づいてくる。


「まずい、見回りか!隠れるぞ!」

 柏斗が床に広げた書類を慌ててまとめようとするが、紙の音がやけに大きく響く。


「そのままにして、こっちだ!」

 荘岐が書棚の裏にあるわずかな隙間を見つけ、柏斗を引っ張るようにして押し込む。


 鉄の扉が音を立てて開いた。


 門番が松明をかざして中を覗き込む。

「……誰もいない、か……?」


 部屋の中央には、崩れかけの書類の山だけが残っていた。

 門番は怪訝な顔をしつつも、奥まで進もうとはせず、数秒後、扉を閉じて出ていった。


 再び書庫の中が静寂に包まれる。


「ふぅ……あぶねぇ……」

 柏斗が小声で息を吐いた。


「通行証の内容は覚えた! 今のうちに出よう!」


「おう!」


 二人は足音を殺して通路を引き返し、再び建物の出入り口へと向かう。


だが――


「おい、待て!そこの者!」

 別の方向から戻ってきた門番が、ふたりの姿を見つけて叫ぶ。


「バレたか!!」


「まさか、お前ら……どうやってここまで入りやがった…?!」

 門番がこちらを睨みつけ、二人へ近づいてくる。


「こうなったら……!」


 荘岐は、肩から背負っていた弩を構え、門番に向けて突き出す。


「動かないでください!!」


「はっ、ガキが! そんなもんで何ができる?」


ドヒュッ……


「うぉっ……!」


 風を裂いて正確に矢が放たれ、門番のすぐ足元、床板をわずかに裂く。


「今のは威嚇です! 次は外しません……!」


「こいつ……!」


 門番は思わず足を止め、武器を抜けない。

 その隙に、荘岐はそのまま弩を相手に向けつつ後ずさり、柏斗と共に、地上に続く階段へ向かって通路を一気に駆け出した。


「へへっ、やっぱ作っといて正解だったな!」

 柏斗が駆けながら、荘岐の手に握られた弩に目をやって言う。


「そうだね!短期間でここまで仕上げてくれるなんて、さすがだよ!」


 これは数日前、路地裏の薄暗い小屋で、荘岐が記憶を元に描き起こした設計図からすべてが始まった。


 玲蓮がその図面をもとに素材を集め、柏斗は一睡もせずに組み上げた。


 完成したのは、上下に弩床・弓・弦を備えた"二重連弩"。


 二発の矢をそれぞれの弩床につがえることができ、上下に独立した二つの引き金によって、それぞれ撃ち分けられる構造となっていた。


 その弩は三人の知恵と技術と想いの結晶とも言える武器だった。


「おい!そこまでだ!!」


 そのとき、別方向から駆けつけた番兵がまた一人、通路の角から現れ、二人の進路を塞ぐようにして目の前に立ちはだかる。


「くっ、まだいたのか……!」


 荘岐は咄嗟に弩を構えようとするが、今度は間に合わない。

そして息つく間もなく、番兵の構えた槍が、鋭い突きとともに迫る──


「下がれ、荘岐!!」


 柏斗は瞬時に左腕を伸ばし、突き出された槍の柄を強引に掴む。

そのまま腕を巻きつけるように、槍を自らの脇に引き込み、身体ごと回転しながら間合いへと踏み込んだ!


「おらあぁっ!!」

 さらに槍を絡め取るように引き込み、重心を低くして一気に投げ飛ばす。


「うっ……!」


 地響きのような音とともに、番兵は呻き声を漏らして倒れた。


 柏斗は立ち上がりざま、振り返って叫ぶ。


「今のうちだ、急ぐぞ!」


「助かった……! でも、ここまで強かったなんて……!」


 柏斗の工匠として鍛え上げた身体は、武人にも劣らぬ力を秘めていた。


「力がなきゃ工匠なんて務まらねぇ! ガキの頃から鍛えてんのさ!」

 柏斗の表情はどこか誇らしげだった。


 地上への階段を駆け上がり、建物を出た二人は再び走り出した。

そして裏手の柵を越え、東側の草むらへ滑り込む。


 関所の裏手は、街道から少し外れているせいか、草むらや林がそのまま残され、かつて畑だった土地も、戦乱の影響を受け荒れ地となっている。


「はぁはぁ、こっちだ! あの林の中へ!」


「おう……!」


 後ろから門番たちの怒声が聞こえる。

 松明の光もあちこちに揺れている。

どうやら騒ぎを聞きつけ、関所の辺りを警備する他の兵達も集まってきたようだ。


「玲蓮と合流しないと……このまま逃げ切れるか!?」


「運が良けりゃな!」


 辺りはすっかり暗くなっていた。

 二人は闇に紛れ、林の中を全速力で駆け抜ける。

足元を照らす月明かりだけが頼りだ。


一方その頃、関所の外れでは――


 玲蓮が門番に付き添われたまま、簡易の詰所で横になっていた。


「大丈夫か? 少しは落ち着いたか?」


「ええ……すみません、迷惑をかけて……でも、少しお水が欲しいかも……」


「わかった、いま持ってくる」


 門番が水を取りに外へ出た、その瞬間。


「逃げたぞ! 裏手だ!」


 外から怒鳴り声が響く。

 玲蓮はハッと目を開け、起き上がると、戸口から外を覗いた。


(まずい、やっぱりバレた……集合場所の方角を考えれば、東の林に逃げたはず……)


「おい、そこの娘! なにして――」


 門番の一人が振り向いたその瞬間、玲蓮は慌てた様子で声を張る。


「す、すみません! ちょっと外の空気を……! それより、西の柵を越えて逃げていく人を見ました!」


「西だと!?」


「くそっ、そっちに行ったのか! 手分けして追え!」


 番兵たちは玲蓮の言葉に反応し、一斉に駆け出していった。

その隙に、玲蓮は裏口から外へとすり抜ける。


(このままじゃ目立ちすぎる……)


 街道に出た玲蓮はすぐに、近くの服飾店に駆け込む。


「おばちゃん、急ぎなの! 地味な旅装を貸して!」


「あら玲蓮ちゃん? え、ちょっと、あんた何して――」


「ごめんなさい! あとで返すし、ちゃんと代金も払うから! お願い!」


「もちろん、それはいいけど……大丈夫なの……?」


「心配してくれてありがとう! 平気よ!」


 呆気に取られる店主に手早く礼を言い、玲蓮は店の奥で身なりを整える。

刺繍入りの清楚な服を脱ぎ捨て、地味な外套と頭巾を身に着けると、行商人風の姿へと早変わりした。


(よし、これなら目立たないはず……)


 変装を終えた玲蓮は、人波に紛れて街道を進みながら、ある果物屋の前に立ち止まる。


「柑叔(かんしゅく)さん!」


「おお、玲蓮か! なんなんだ、この騒ぎは。まさかお前……この騒ぎに関係してたりするのか……?」


「かもね。……でも、お願いがあるの。 北の水路沿いに武器を持った連中が逃げたって噂、街中に広めてくれない?」


 柑叔は一瞬だけ真顔になるが、すぐに口の端を上げて笑った。


「なんだ、久しぶりに会えたと思ったら騒ぎの種かよ。 でも……」


彼は手にしていたリンゴを籠に戻し、にやりとした。


「……玲蓮の頼みなら、しょうがねぇな。 昔、店を潰しかけたとき助けてもらった恩もあるしな」


「いいえ、あのときはお互い様だったじゃない」


「よし、任せとけ。 俺の声は通るからな!」


 さっそく柑叔は隣の八百屋の親父に声をかける。


「なぁ聞いたか? 北の水路に剣持ちの奴らが逃げたって話、さっき客が言ってたぜ。 ほら、あの水門のあたりだ」


「あぁ? ほんとか?……それは一大事だ……!」


 その声はすぐに周囲の野次馬にも拾われる。


「北だってよ?」

「それ本当かい?」


 やがて、街道沿いでは様々な情報が錯綜し始めた。


「西門に男がいたって言ってたぞ」


「いや、北の水路沿いで見たって人がいた!」


 兵たちは混乱し、指示も散漫になる。


「どけ、道を開けろ!」「……ちっ、誰の言葉を信じりゃいいんだ……!」


 旅人や荷車がひしめき、狭い街道は混乱の渦に包まれた。


 その最中、人混みに紛れるように玲蓮は静かに歩き、街道の喧騒を背にして、林の方角へと向かっていく。


(これで、少しは時間が稼げたはず……)


 風の音に紛れるように、その背は人々の視線から消えていった。


(荘岐、絶対に生きてて……あんたが死んだら、何もかも意味ないんだから……!!)

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