第六話 籠の鳥が祈る世界
「玲蓮、今日は食事までご馳走してくれてありがとう……! こんなお腹いっぱい食べたのほんとに久しぶりだよ!!」
荘岐の声が店内に響き渡ると、近くの席にいた酔客たちが一斉にこちらを振り向き、くすくすと笑い声が上がった。
「ちょっ、大声出さないでよ……! 恥ずかしいから!」
玲蓮は顔をそむけ、湯気の立つ茶碗を手で覆い隠すようにした。
ここは洛陽の東門近くにある古びた酒場。
煤けた梁と飴色の柱、干した香草が吊るされた天井。
酒の匂いと香辛料の刺激が店中を取り巻き、木の床を踏むたびに軋む音が響いた。
安酒を煽る兵士や、役人崩れのような者たちが囲炉裏を囲んで笑い合っている。
「ああ……ごめん」
荘岐は頬を掻き、小さく頭を下げた。
「とにかく、これから大変になるんだから、まずは体力つけないと」
「そうだよね。 もう背は全然伸びないんだけど、せめて体は鍛えないと……!」
玲蓮がどこか悲しそうに俯く。
「……それより、郭嘉の居所を掴むための具体的な算段はあるの?」
玲蓮が目を細くして怪しむように荘岐を見つめる。
「それはもちろん考えてるよ!」
荘岐は椅子から身を乗り出し、声を潜めて続けた。
「まず、洛陽の東の関所の平面図を手に入れる。 それから、記録保管庫に潜入して、鍵をこじ開けて……許都から来る使者の情報を全部暗記するんだ」
「……で?」
「その使者を一人ずつ尾行して、郭嘉の屋敷を突き止める。 完璧でしょ?」
「はぁ……何が完璧よ……まず、肝心の図面がないと動けないし、鍵をこじ開けるなんて無茶よ。 それに、許都からの使者なんてどれだけいると思ってるの? 全部暗記するなんて……」
「うっ……だからこそ玲蓮に頼りたいんだ! 君の人脈で図面の写しを何とか手に入れてほしい。 あと、鍵を開けられそうな手先が器用な仲間も必要だ。 暗記は僕がなんとかするから大丈夫だよ!」
「はぁ……仕方ないわね……わかったわ」
玲蓮は小さくため息をつき、少し考える素振りを見せた後、声を潜めた。
「昔、不正で官を追われた知り合いがいるの。 今は酒浸りだけど、記憶は確かだったはず。 まずはそいつを買収して、図面を再現させるわ」
「さすが玲蓮! ほんとに頼りになるよ!」
荘岐はさらに身を乗り出して、玲蓮を見つめる。
「……当然でしょ……!!」
玲蓮はぷいと視線を逸らし、頬に触れた髪を無意識に弄んだ。
だがその表情は、どこか誇らしげでもあった。
「あと、手先が器用な人物にも心当たりがある」
「ほんとかい?!」
「でも、ちょっと心配かも……」
「え、どうして?」
「根はいいやつなんだけど、ちょっと気性が荒くてね……呑気なあんたとは合わない気がするのよ」
「そうなんだ。 でもなんとか気に入られるように頑張るよ!」
「相変わらず前向きね……じゃあ、明日仕事が終わったらあんたに紹介するわ。 昼過ぎにここで待ち合わせしましょう」
「ありがとう!……でも忙しいのに申し訳ないな」
「なによ、いまさらそんなこと言って……」
玲蓮はわずかに笑みを浮かべた。
「屋敷の雑事なんて慣れたものよ。 それより、あんたのその汚れた服……それが気になるわ。 ついでだから、明日ついでにあたしが選んで買ってあげる!」
「玲蓮……何から何まで本当にありがとう! でも、一緒に買い物なんて楽しみだな!」
「はっ!? 別にそういうわけじゃないし! 汚い格好で近くにいられたら恥ずかしいだけよ……!」
「ははっ、そうだよね……ごめんごめん」
「……そろそろ屋敷に戻らないと」
気づけば、外はすっかり夜の帳が下りていた。
二人は店を出て、明日の昼に再び同じ場所で会う約束を交わした。
──
荘岐と別れた玲蓮は、重い気配に押されながら屋敷の門を静かに開けた。
手入れされた庭木が月明かりにぼんやりと照らされ、中庭は冷え切った空気に包まれていた。
朱塗りの屋根瓦が重々しく並ぶ廊下に一歩足を踏み入れると、木彫りの欄間や絹織物の掛け軸が並び、かすかな香木の香りが漂う。
華やかさの裏に潜む冷たさと重苦しさが屋敷全体を覆い、不穏な静寂が胸を締めつけた。
「こんな時間まで、どこをほっつき歩いてたんだ?」
背筋が凍りつく声が背後から響き、玲蓮は息を呑んだ。
「お館様……頼まれていた品物が近くの店になく、少し遠出をしておりました。 帰りが遅くなり、申し訳ございません……」
「ほお……召使いの分際で立派に言い訳しよって……お前は私の所有物だということを忘れるな」
「それは、もちろん心得ています……」
「けっこうなことだ……」
「……本日いただいたお仕事はすべて終えましたので、また何か御用があればお声かけください」
玲蓮がその場を後にしようとしたとき——
「待て」
「……はい」
「最近、この屋敷の金庫にある金や絹が少しばかり減っておる。 心当たりはないか?」
「……それは……! 気づいておりませんでした。 申し訳ございません……」
「金品の管理も使用人であるお前の務めだと思わんか?」
重たい足音が、じりじりと玲蓮に迫ってきた。
杖の先が床を叩き、やがて目の前に止まった。
「心得ておけ」
バシッ……
鋭い音が静寂を裂き、杖が玲蓮の細い腕を打ち据えた。
鋭い痛みが走り、思わず腕を抱え込むようにして身を縮める。
「……っ!」
声を上げまいと必死に唇を噛みしめるが、容赦ない一打がさらに振り下ろされる。
バシッ……
「うっ……!!」
痛みが腕からじわじわと広がり、熱を帯びて痺れが残る。もう一度、鋭い一打が振り下ろされた。
バシッ……
「自分の立場を忘れず、せいぜい仕事に励むことだ」
低い声が頭上から降りてきた。玲蓮は床に手をつき、荒い息を吐きながら小さく頷く。
「……はい、承知いたしました……」
杖の先が床を叩く音が遠ざかり、主の背中が廊下の奥へと消えていく。
玲蓮はうずくまったまま、その背中をじっと見つめていた。
震える手で叩かれた腕を押さえると、熱と痛みがじわじわと広がり、痣になりそうな感触が伝わってきた。
主が部屋へ戻ったのを確認すると、玲蓮は自ら傷に包帯を巻き、手当てした。
彼女のその小さな腕や背中には、他にも幾つもの傷跡が浮かび上がっていた。
(……荘岐……あたしは……この世界を……!!)
唇をきつく結び、玲蓮はそっと息を吐くと、何事もなかったかのように力強く立ち上がった。
──彼女の瞳の奥で燃える小さな炎──まだ心に秘めたその祈りは、決して消えることなく、誰よりも強く、確かに輝き続けていた。
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