第一話 彼岸の邂逅
——街の喧騒が埃にまみれた空気を裂いた。
荘岐(そうき)は"光の海"で感じた”君”の声を胸に抱えたまま、目を開けた。
「……う、ん……」
視界に入るのは薄暗い路地裏の木柵と無遠慮に響く罵声だった。
(何かの騒ぎか……いや、それより……)
——また、あの夢。
だが今朝はいつもより胸の奥がざわめいていた。
夢の残光が瞳の裏に微かに瞬き、消えそうで消えない。
無数の光が寄り添い、混ざり合い、優しく調和する海。
その光は言葉を持たずとも、互いを信じ、通じ合っていた。
(あんなふうに、人も生きられたら……)
——時は後漢末期、国は乱れ、民は飢え、ここ洛陽の地もまた腐敗に沈んでいた。
戦乱による疲弊と混沌の中で、”あの夢”の光景はあまりに遠い。
だが、遠いからこそ、胸の奥で輝き続けている。
——いつか”この世界”にもあの光を。
将軍家から没落し、貧民街へとその身を堕とした荘岐。
過酷な毎日を生き延びる中でも、彼はいつからかそんな儚い理想を抱くようになっていた。
目覚めたときから胸に走る違和感を辿り、荘岐は暗がりの中で自らの手を見つめた。
指先に、彼の目に宿る青い光が静かに映ってい映ってた。
その淡い青は、夢で見た海の欠片のように、かすかに脈打っている。
(なんだ、この光……?)
しかし、荘岐には確かに思い当たる節があった。
彼には不思議な力——異常なほどの記憶力と、"赤壁"で感じた不可思議な感覚があった。
それらが、幼い頃から幾度となく見てきたあの夢とどこかで繋がっている気がしてならなかった。
「”あの夢”と”力”の意味を……僕は、知りたい」
その言葉を口にしたとき、荘岐は初めて、自分の出発点を意識した。
——洛陽の市街は喧騒に満ちていた。
権力と貧困、飽食と飢えが、通り一つ隔てて共存する、歪な都。
(それにしても、今日はやけに騒がしいな……)
市場の方角に、人だかり。罵声と怒号。何かの揉め事だ。
荘岐が雑踏をかき分け進むと、体を縄で縛られた少年がいた。
「黄(こう)……!」
その少年——黄は貧民街でともに助け合ってきた顔馴染みの一人だった。
彼の傍らには盲目の物乞いが倒れ込み、商人が怒鳴っていた。
「そいつだ! 俺の銅銭を盗ろうとしたんだ! さっさと裁け!」
「私も全て見ておりました。 この奴隷の雇い主に責任が問われることになりますな」
軍吏がわざとらしく声を張りあげる。
「奴隷の分際で金を盗むとは……なんて卑しい」
「早く見せしめにしろ!」
彼らを取り囲むように集まった人々も、口々に黄へ罵声を浴びせていた。中には石を投げつける者までいた。
しかし、どういうわけか黄は一言も発することなく沈黙を貫いている。
(黄が盗みを……? いや、何かおかしい……助けないと……!)
荘岐が震える足を踏み出そうとした、その時——
「——案ずるな。 そなたはそこでしかと見ていなさい」
荘岐のすぐ背後から、穏やかな音色のような声が聞こえた。
振り返ると、深紫の羽織を身にまとう、一人の男が立っていた。
「あなたは……?」
荘岐が男の顔を見る。その瞳には、翡翠のごとく深緑の光が宿っていた。
(その目は……!)
その光は、見た者の胸に入り込み内側を見通すような、底知れぬ深さを湛えていた。
男はゆっくりと群衆の中を進み、黄とその背後の軍吏、そして怒鳴り立てる商人との間に立った。
彼の身なりには派手さこそないが、不思議と場の空気を張り詰めさせた。
群衆を割って歩むその姿を見た瞬間、荘岐の指先に映る青い光がひときわ強く脈打った。
(まただ……! 反応してる……?)
「な、なんだ貴様は……?」
商人の声が裏返る。汗がこめかみを伝い、軍吏も思わず身じろいだ。
群衆の視線が男に集まる。荘岐も息を呑んでその背を見つめた。
(この人……どうするつもりなんだ?)
「名乗るほどの者ではございません。 ただ、ひとつ確かめたいのです」
男は商人を射抜くように見据え、地に伏した老人へと歩み寄った。
「御仁、その手を」
老人の掌は泥にまみれ、細かな砂が爪の隙間に詰まっている。
「……わしは……孫の薬代にする……大事な銅銭を落としてしまい……探しておったのです」
掠れた声が場を震わせた。
「ば、馬鹿な……!」
商人の顔が青ざめ、軍吏も唇を噛んで視線を逸らす。
群衆がざわめいた。
「商人の銅銭じゃなかったのか?」
「軍吏殿も知っていたはずじゃ……」
訝る声があちこちで上がり、空気が揺らぎ始める。
男は振り返り、静かに告げた。
「ご覧の通り、この御仁こそ銅銭を落とされた方。——にもかかわらず、軍吏殿は『すべて見ていた』と言いながら、この姿を見過ごされた」
軍吏の顔が引きつり、商人は口を開きかけては閉じる。
男の声音がわずかに低くなる。
「戦乱で官は形骸化し、この洛陽にも腐敗が蔓延っていると聞きます……まさか軍吏殿と商人殿、お二人は結託していたのではあるまいな?」
沈黙。二人の肩がびくりと震え、群衆のざわめきが一気に怒りへと変わる。
「奴隷の主から謝金をせしめるためか……汚ねぇ……」
「許せん!」
男は一歩前へ進み、拘束された黄を指し示しながら群衆に語りかけた。
「皆さん、お聞きください。 この少年には三つの徳が宿っています」
気がつけば、皆が固唾を飲んで男の話に気に入っていた。
「それは、老人のため銅貨を拾った——仁 主を思い沈黙した——義 罵声と石に耐えた——勇です」
荘岐は胸の奥が震えるのを覚えた。
(この語り口……どこかで……)
人々は息を呑み、先ほどまで石を投げていた手を恥ずかしげに下ろしていく。
(まさか……)
荘岐の脳裏にひとりの名が浮かぶ。
——郭嘉。
それは、幼い頃に父に見せてもらった書の中で幾度も目にした曹操の天才軍師。
それらの書に記されていた郭嘉の言説と、目の前の男の言葉が重なったのだ。
(いや、確か彼は病で早逝したはず……)
男は群衆に鋭い視線を巡らせる。
「よいか。 これは決して軍吏殿、商人殿だけの問題ではない。 事実を確かめようともせず、この少年に罵声や石を投げた皆さんにこそ、しかと考えていただきたい。 彼は奴隷で、その身分は皆さんより下かもしれません。 しかし、この少年よりも清い心で生きている者が、一体この中に何人いるでしょうか?」
誰も答えない。人々は皆、顔を赤くしてただ下を向いていた。
「ならば、どうしてこの少年を虐げ、まして裁くことなどできようか?」
商人も軍吏も、視線を逸らした。
やがて軍吏は渋々縄を解き、黄は自由の身となった。
「……ありがとうございます……」
黄は男に深々と頭を下げた。その体は小刻みに震えていた。
「よいのだ。 君の選んだ沈黙は、臆病ではない。 勇気だ。 その志を忘れないでくれ」
男は黄の肩に手を置き、柔らかく言った。
(黄……よかった……)
群衆の外側からその様子を見守っていた荘岐はようやく胸を撫で下ろした。
だがその安堵の裏で無力感に苛まれた。
今の自分にはあの男のように真実を見抜く眼も、人を導く言葉もない——その現実が、理想との隔たりを荘岐に突きつけていた。
戦乱の世にあって、荘岐が望む世界。
それをまだはっきりと示すことはできない。
だが、この男の行いが、そんな言葉にできない自分の理想を体現しているかのように思われた。
(もしかすると、この人に出会うために、僕は——)
静かな確信が荘岐の胸に広がっていく。
(なんとか、話しかけないと……!)
荘岐は雑踏をかき分け、男に近寄ろうとする。
——そのとき、男はふと荘岐の方を見た。
深緑の瞳に光が宿り、群衆を隔てて二人の視線が交わる。
「え……?」
——その瞬間、閃光とともに荘岐から全ての音が奪われた。
目から頭を突き抜けるような強い衝撃。
世界の輪郭が水面のように揺らぎ、淡い光の粒が空気に溶けていく。
気がつけば、あたりは静寂に包まれ、群衆の影も、生活の気配もなかった。
その世界にいるのは、荘岐とその男、ただ二人だけだった。
「これは……!」
荘岐はこの感覚を知っていた。
——それは七年前の赤壁の戦いのとき、世界を焼き尽くす絶望とともに味わった、他者と繋がる感覚。
だが今回は、心の奥が不思議なほど穏やかだった。
「荘岐よ……“知”とは、人を照らす光だ。——それを忘れるな」
(どうして、僕の名前を……)
胸を掴まれるような衝撃に、しばらく言葉を失った。
優しい響きではあるが、胸の奥では雷鳴のような震えが走る。
それでも、抗えないほど惹きつけられていた。
「光……?」
「そうだ……そなたは、“この時代”に生まれた意味が分かるか?」
「“この時代”って……?」
(そうだ。 この人なら、”あの夢”の謎も、この不思議な感覚のことも分かるに違いない……!)
「そなたの本当の力は、まだ秘められている」
「……その力とは何なのですか? 教えてください……!」
「自らの手で光を掴むのだ。 そのとき、私たちはまた巡り会うだろう」
その声は、いつか誰かが語った約束のように、荘岐の胸に残った。
——世界の境界は輪郭を取り戻し、街の喧騒が押し寄せてくる。
「どういうことですか……?! 一体、僕は何をすれば……」
男は静かに微笑んだ。
しかし、その微笑みにの奥にある答えは、いまの荘岐にはあまりに遠く、追いつけなかった。
「待ってください……!」
世界が裂けるような一閃とともに、その存在は遠ざかっていく。
掴みかけた光の欠片が、指の隙間から零れ落ちるようだった。
(僕は知りたいんだ……自分が”この世界”に生まれた意味を……)
——その魂の叫びは、やがて人類の運命を照らす光となる。
この日結ばれた二人の視線は、世界が待ち望んだ邂逅——未来を呼ぶための始まりの対話だった。
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