【旧版】第十五話 花散りて、夢咲く【前編】
※これは旧版のエピソードです。
※『三国天性』をはじめて読まれる方は改稿版からご覧ください。
──七年前、建安十三年の赤壁
曹操の旗は北土を掃い、雄図は中華の半ばを覆った。
その威は天を衝き、江東の水土をも震わせ、いまや覇を定めんとしていた。
空を凍らせるような冷たく深い夜の闇とともに、無数の船が長江を覆う。
幾千もの戦船が縦横に連なり、帆をたたんだまま川面に浮かんでいる。
曹操が率いるのは兵十万を超える大軍——その規模は、まるで河そのものが鉄と木の城壁と化したようだった。
大型船の甲板上には槍と盾が整然と並び、夜警にあたる兵士たちが周囲を見張っていた。
そしてその周りを取り囲むように中型船、小型船が規則正しく浮かんでいる。
静けさの中、夜が深まるごとに強まる東風だけが騒がしく軍旗を揺らしていた。
夕刻からかかっていた濃霧は次第に薄まり、顔を覗かせた星空が天下の行方を見守っていた。
——そこに、風にとともに霧を裂くように、船団の前方を進む一つの小型船があった。
それは曹操直々の偵察任務を帯びた哨船。
二十名の精兵が乗るこの船と任務を託された者こそ荘岐の父・荘達だった。
そして張延は彼の副官として、ともに船に乗り前線の巡視を行っていた。
「敵の投降が偽りかもしれぬと……丞相は疑り深いお方だ……」
張延が低く呟くと、すぐ隣で荘達が答えた。
「静けさは時として雷鳴より騒がしい……私にも嫌な予感がする……」
その声は沈んだ空気に刺さるような鋭さを帯びていた。
「警戒は怠らないさ……お前の勘はよく当たる……」
荘達と張延——長年ともに戦場を歩んできた二人は、互いの実力を誰よりも理解し合っていた。
張延は小領主の家の三男として生まれた。
兄たちが家督を継ぐなか、己の才を示すには剣の道しかなかった。
彼は若くして武芸の腕を買われ、曹操のもとに従軍した。
一方、荘達は庶民の家で長男として生まれた。
彼は幼い頃から、戦で功を成し身を立てることを望んでいた。
志願兵として参加した初陣では一兵卒にすぎなかったが、戦ごとにその采配と胆力を示し、やがて百を、千を率いるようになり、たった一代で今や将の列に名を連ねるまでに至った。
出自は異なる二人だが、同じ時期に曹操の旗の下へ集い、数多の戦場で背中を預け合ってきた。
宛の戦ではともに曹操の窮地を救い、河北平定の折には力を合わせて死地を突破し、勝利の美酒を酌み交わした。
多くの言葉はなくとも、ただ共に立つだけで心は通じる。
二人の間には、血で結ばれた兄弟に劣らぬ絆があった。
戦場にあっては常に勇ましく、どんな苦境でも味方を鼓舞してきた荘達——しかし、いまその表情には珍しくどこか不安げな色が滲んでいた。
「どうした……?」
「……あの子のことが気がかりだ……」
「息子のことか?」
「そうだ……」
荘達は視線を前方に向けたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「なんとも不思議な子なのだ。 幼い頃から、読んだ書を一字一句まで覚えている……だが、それだけではない……まるで我々とは違う世界を見ているような気がしてな……」
「……まさか……」
張延が目を細める。
「……私にも確信はない。 ただ……」
荘達は少し間を置き、唇の端をわずかに上げた。
「……もし、あの子の中に何かが眠っているのだとしたら──この乱世にあっても、それを咲かせてやりたいと思うのだ」
「……咲かせる、か……」
張延は荘達の言葉を噛みしめるように繰り返した。
「あの子には、この世界を動かす力があると、私は信じている」
「しかし……この世にそのような者がいるとは……やはり私には信じがたい」
──そのとき、遠くで、水面を裂く音がした。
「……今のは──」
次の瞬間、前方から赤い光が迸った。火矢だ。
「敵襲──!! 火計だと!?」
張延の叫びが甲板に響いた。
十数艇ほどの船団が前方に迫ってくるのが見えた。
荘達は即座に腰の剣を抜き、"敵"の船団を睨みつけた。
「あれは投降するはずの船団……!! 減速せずにこちらへ向かってくる……特攻するつもりか……!?」
「なんということだ……」
「張延! 全員を起こせ!! 直ちに戦闘体制を整えろ!!」
「承知した!!」
張延は即座に船の奥へと駆け出した。
そのとき、暗闇から弧を描いて次々に飛来する炎の帯が現れた。
そのどれもが正確に狙いを定めていた。
「これは……伏せろッ!!」
夜空を割って、赤い閃光が爆ぜる。
——それが地獄の始まりだった
敵の船団は荘達たちの乗る船を掠めて横切り、火矢を一斉に放ちつつ、後方で曹操が本陣を構える大型船へと向かっていく。
炎が天を侵し、夜空を紅蓮の業火で裂いていた。
曹操が数年をかけて育てた巨大な軍船の群れ——連なるその陣形は、瞬く間に爆ぜ、沈み、崩れ去っていった。
「弓兵、応戦せよ!!」
「火を消せ! 水を汲め、水を──!!」
怒号が飛び交い、兵たちは命じられるまま甲板を走る。
だが、水桶をいくら投げても、炎の奔流は止まらない。
──風向き、偽りの投降、火計。すべてが計算されている。
そして何より、曹操の船団は互いを鎖で繋がれていた。
一隻が燃えれば、隣もまた燃え上がる。
巨大な船の要塞は、もはや炎の檻のようだった。
張延は、後方で焼け崩れていく味方の船団を目の当たりにし、口を開けたまま言葉を失っていた。
──この炎は、ただの火計ではない。
緻密な計略。心理の裏をかいた罠。
これは、策を越えた何か──我々が戦っているのは人ではない何者かだ。そう確信できる。
(……こんな恐ろしいものが……いや、この火は……)
「──美しい……」
そのとき、彼は背後から感じた。
ただ一人、別の誰かと繋がる男──荘達の存在を。
張延が振り返ると、この圧倒的な破壊の只中で、荘達は静かに佇んでいた。
剣を構えることもなく、星空のさらに向こうを見つめている。
そして──彼は"荘岐"の名を呼んだ。
(荘岐……だと……?!)
その声が、吹き抜ける東風に溶けた、刹那だった——脳を揺らす強烈な衝撃が走った。
敵船のうちの一艘が張延たちの乗る船の横腹に突撃し、大穴を開けたのだ。
「来たぞ──敵兵だッ!!」
兵士の怒声と同時に、紅蓮の中から黒影が現れた。
火煙に包まれた船上に、続々と呉の兵士が乗り込んでくる。
その光景を見てようやく、張延ははっとして兵士に命令した。
「全員、武器を取れ!! 応戦せよ……!!」
槍が火花を散らし、剣が甲冑を斬り裂く音が響く。
呉の兵士たちは火矢に止まらず、油の入った瓶や樽にも火を着け、それを船内に投げ込んできた。
燃える木材の軋む音と、兵の叫び、怒号、うめき声──それらすべてが、夜の闇を引き裂いていた。
張延も剣を抜き、目の前に飛び込んできた敵兵を次々と斬り払った。
「ふんっ……!」
血飛沫が火に照らされて弧を描き、焼ける甲板に滴り落ちる。
張延の動きは鋭く、隙がない。
だがその視線は、船の前方に立つ一人の男に奪われていた。
(──荘達)
彼は剣を手にしながらも、それを地に垂らしまま、夜の彼方を見つめている。
周囲が修羅場と化すなか、まるで別の世界に立っているかのような静けさだった。
(……何を、見ようとしている……?)
張延は、敵兵を払いながらも、彼の姿から目を離せなかった。
(……まさか……!! "それ"が見えているのか……?!)
剣を振るう手が止まりそうになる。
──そのとき、荘達の瞳に微かな光が宿った。
荘達は荘岐を通して、この戦場を包むその”意志”を見据えていた。
張延の背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。
(あれは……およそ人ではない……)
この世界の条理を越えた、何者かの意志。
”それ”を見ることができる男が、いま、目の前にいる。
──だが、それは同時に、己が決して届かぬ場所への渇望を呼び起こした。
荘達の背中に、張延は見た。ただの将ではない、理の外に立つ者の気配を。
(そうか……私は間違っていた……いま確かに、その存在を目にしている……!!)
張延の中に、言葉にならない感情が芽吹いていた。
それは、畏怖であり、羨望であり、そして憧れだった。
(この男が……いや、その息子が、天に選ばれし者だというのなら……)
——燃え盛る炎が鳴らす轟音を置き去りにして、荘達の掠れた声が張延にはっきりと届いた。
「──荘岐……お前の未来は……」
炎を隔てて荘達の背中が遠ざかる。
それが最期の言葉だった。
「荘達っ……!!」
張延の伸ばした手が業火に阻まれ、ゆっくりと下された。
(……荘達。 私はお前とともに長く戦場で生きた……いまさら死など恐れん。 しかし……お前が託した未来と、その目に宿った光の答えを知るまで……私は……)
──炎の記憶が、張延の胸をかすかに灼いた。
そして、現在──
張延は目の前で対峙する荘岐を真っ直ぐに見据えた。
「……荘岐よ。 お前が"そう"であるというのなら、私にもう一度見せてくれ……」
「……いったい……何を……?」
「……天との邂逅を……人の可能性を……」
赤壁の敗炎が灯した男の夢は狂気となり、いま、荘岐に迫っていた。
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