第2話
図書館の真正面は公民館だ。半壊したこちらの建物とは違って、向こうは比較的元のシルエットを残している。やはり年月には勝てないのか、壁面に亀裂は入っていたが、屋上までしっかりと直方体の姿を保っていた。その上辺の向こう側に薄く太陽が出ていて、建物とそして屋上の縁を歩く一人の人間を逆光にしていた。そうだ、誰かいる。姿はよく見えないが、背の高い細身の男だ。私はその男が歩いているさまに目を凝らして、幾ばくもせず雷に打たれたような心地がした。私はあの人を知っている。見間違いではない。あれは、三年前にここから東の方に旅に出た津田さんだった。私は彼がそんな場所にいることを不審がりながらも、嬉しくなって小走りに公民館へ向かう。
公民館はエントランスの右手にエレベーターと階段があって、エレベーターは当然ながら全てのランプが消えていた。私はその前を過ぎり、幅広の階段を上っていく。一階、二階、四階まで。四階へ続く階段を上りきると、通常の階段はそこで終了し、鉄格子に阻まれた階段が伸びていた。ここまでは踊り場に窓が設けられていたので、ある程度の明るさが確保されていたが、この上の踊り場にはもう窓がなかった。鉄格子は扉の部分の南京錠が外れて開け放たれている。鈍く、まだかろうじて金色を残す南京錠は埃まみれの床に落ちていたが、それ自体には埃が積もっていなかった。ごく最近開けられたのだろう。もしかしたら、津田さんによって。
私は鉄格子を抜けて階段を上り、踊り場からさらに階段を上って、奥にある鉄の扉を押し開いた。扉の隙間から、光と風と冷気が差し込んできて、相当な風圧を感じる。私はダウンの下の本を左腕でかばったまま、肩を押し当ててどうにか扉を開いていった。
ようやく外に出て屋上を歩くと、後ろで大きな音を立てて扉が閉まった。私は思わず身を縮めるが、屋上の端で歩いている津田さんは振り返らず、ただ水平に腕を掲げて歩を進めている。津田さんがいるのは、屋上の端に設けられた立ち上がり壁の上だった。確かパラペットと言うのだっけ、と以前デザインしたサイトで拾った知識を探る。こうして屋上の縁に低く壁を設けておくことで、屋上の排水が建物の外壁に伝わらないようにするのだ、確か。ここのパラペットは、私の腿ほどの高さで、幅は六十センチほどだった。歩くのは訳ないだろう。ここが屋上でさえなければ。
「長瀬か」
パラペットに近付いた私に、津田さんは振り返らずそう言った。長瀬は私の旧姓だ。そういえば、津田さんと最後に別れた時、私はまだ結婚していなかった。
「帰ってきてたんですね」
そう言いながら、ひょっとして、私はまず何はともあれ「降りろ」と言うべきじゃなかったのかと思った。辺りは小さな吹雪になりつつある。パラペットの上にいるのは相当不安定なはずだ。ここから落ちたら即死はしないにせよ、大怪我はするはずで、そうなると救急車を呼んで救急車が来る世界でもないのだから、どうにもならないかもしれない。しかし、津田さんは私が降りろと言って降りる人間でないのも確かだった。津田さんは緩慢に歩きながら皮肉げに鼻を鳴らす。
「帰ってきたって言うかね。まあ、帰ってきたのか、俺は」
そうして、また一歩一歩と私から遠ざかっていくので、私はいざとなったら手が伸ばせる距離を保って、津田さんの後ろを付いて行く。手を伸ばしたってどうにもならないが、それでも届かないのはごめんだ。パラペットと身長差の分、自分がひどく低いところにいる気がした。
「青函トンネルはもう通れなかったよ。だから、北海道には行けなかった。探せば使える船があったのかもしれないけど、俺、船は嫌いだしね」
「……随分と遠くまで行けたんですね」
私は通常の会話を必死に擬態している自分に気付く。まるで、普通に会話していたら、津田さんが落ちないとでも言うようだ。だが、そんなものに意味はない。そして、津田さんも我慢がならないようだった。
「遠くまで行っても意味なんかないよ。クソだクソ。全部終わってんだもん、この国。いっそ、奥村たちみたいに、ボートで漕ぎ出せばよかったのかな。大陸の方はみんなまだ普通に暮らしてたりしてな」
「普通に暮らしてるなら、誰か来るんじゃないでしょうか」
私はこの日本に外国から新しく誰か来たという話を聞かない。リチャードは随分前から日本にいるから、新しい訪問者には含まれない。日本をめぐる海の向こうは深い霧に包まれている。果たして、西に漕ぎ出したところで、ユーラシア大陸自体あるかどうか。私は三年と少し前、日に焼けた顔で、ボートの上から手を振っていた奥村くんを思い出す。仮にユーラシア大陸があったところで、ボートは無茶だ。私はあの時、彼のことも止めるべきじゃなかったのか?
「長瀬みたいなさ、つまんない答えに満足できないから、奥村たちは出て行ったんだろ。でも、まあふつーに死んでるよな。お陀仏お陀仏。バカばっかり」
私はその言い様に眉をひそめる。津田さんは元から口の良くない人ではあるが、それにしても当たりが強い気がした。こんな投げやりに喋る人じゃなかった。かつては、ちゃんと会話が成り立って、缶詰が死蔵されている場所を教えてくれたり、大きな陥没のある危険な道を共有してくれたりした。私はそれなりに津田さんとの時間を大切にしていて、だから、今日もここまで上ってきたのだ。なのに。
津田さんは東で一体何を見たのだろう。或いは、何を見られなかったのだろう。
私はどうしても津田さんを今すぐパラペットから降ろすべきだと感じた。
「津田さん、降りましょう。風が強くなってます。危ないです」
津田さんはそこでようやく私の顔を見た。つまり、振り返った。もちろん、それは私が今彼にしてほしくない動作だった。
「長瀬、その上着の下に隠してるもの何」
「そんなこといいから」
「何か教えてよ」
全く興味のなさそうな声色だった。だが、答えないことには何も進まなさそうだった。
「本です」
「本? 長瀬が読むの? 読めるの?」
「いえ、そうではなく、あそこの図書館から持ってくるようにリチャードに頼まれていて」
津田さんはそれを聞いた途端、あからさまな嘲りの表情を浮かべた。
「三十手前にもなって、まだあいつの使い走りしてんの?」
私はサッと顔が熱くなるのを感じて、しかし強いてその感覚を無視した。この津田さんは変だ。私を怒らせるようなことばかり言う。最後に何もかも破壊して回っているかのように。風が私の髪をかき乱した。
「津田さん、降りましょう。本当に危ないです」
この直截な要求にほとんど意味がないと分かりながらも、私はそういうかたちでしか物が言えない。津田さんはもう私の方を見るのをやめて、再び歩き出した。緩く伸ばした長い指の先が太陽に映えて、こんな時なのになぜかとても美しかった。
「全部終わってるよ。とっくの昔に。そうだろ」
私の口からかすかに白い息が漏れた。ネズミとコウモリの巣窟になった半壊した図書館。陥没して直す人間のいない道路。落ちた橋。繋がらない電波。先端が曲がっているらしい東京タワー。津田さんが通れなかった青函トンネル。乾いた唇の端が痛かった。
「何かが終わっている時は、もう何かが始まっているんだって信じてます。それだけは確かなんです」
そう、自分でもよく意味の分からないまま、とにかく津田さんにパラペットから降りてほしい一心で口走った。津田さんは立ち止まって乾いた笑いを上げた。
「そうだとして、お前には何の関係もないよ、長瀬。そして、俺にも関係なかったんだ」
津田さんは広げていた腕を下げる。
「もういいよ、早くここから出て行け。お前が行かないなら、俺は今すぐここから飛び降りる」
そう言って、斜め下の道路に視線を投げるさまが、全く脅しではなかったので、私は走って鉄扉まで戻った。重い扉を開けて、中に入り、扉が閉ざされる音を聞きながら階段を途中まで下りて、足を止めた。そこから下にも上にも一歩も動けなくなった。戻ったところで、私には津田さんをあそこから降ろすことができないのは分かっていた。鼻の奥がツンとして泣きそうになっているのが分かったが、ここで泣くのはあまりに愚かな気がしたから我慢した。そして、立ち眩みのような感覚を覚えながら、少しずつ階段を降りて行った。
私が公民館から出た時も、まだ津田さんはパラペットの上を歩いていた。私からは津田さんの後ろ姿だけが見えた。私はそこから立ち去り、家に続くトンネルまで歩き始めた。
十分ほど歩いた時だっただろうか。道路の大きなひび割れを跳びこえたところで、いきなり桁外れに強い風が吹いた。私の髪が逆巻き引っ張られるほどだった。内股になって自分を抱き締めるようにしてその風を耐えきり、乱れた髪が顔に覆いかぶさってきたところで、次第に鼓動が速くなるのを感じた。津田さんはどうなっただろうか。
私は急いで公民館の屋上が見えるところまで道を戻った。そして端の方から見えてきた屋上には、もう誰も歩いていなかった。心臓の鼓動がうるさい。落ちたのか。あれだけの風だ。屋上にいたらひとたまりもなかっただろう。いや、でも、風が吹く前に歩行をやめていた可能性もあるし、パラペットにいたとしても、屋上側に落ちたかもしれない。それなら――。そんな都合のいいことがあるわけがないだろと強い口調で告げてくる自分の声を無視して、私は早足で公民館に戻る。
道路に襤褸切れのように転がる津田さんの姿をどうしようもなく想像しながら、見つかるな、見つかるなと祈った。そうして祈り続けながら、公民館の周辺の道路と、屋上を見て回って、結局、私は津田さんを見つけることができなかった。津田さんはどこにもいなかった。まるで、私たちが屋上で話したのすら嘘だったかのように。
私は屋上をもう一度見回してから、釈然としない思いで再び階段を降りていった。津田さんはもう降りてどこかに行っていたのか。どうかそうであってほしい。吹雪の中、公民館から出て溜息をつく。
なんだか、世界に手加減された気分だ。
私はまた周囲を注意深く見回しながら、トンネルへの道を歩いて行った。
短いトンネルを抜けると辺りは夜で、鈴虫が鳴いていた。私は腹の下から例の本を抜き出して、ダウンジャケットを脱ぎ、軽く畳んで小脇に抱える。それでもまだ暑い。当然だ。こっちは晩夏なのだから。この前台風が過ぎ去ったのに、なかなか気温が下がらなかった。少し先にはちゃんと明かりの灯った華美な街灯が並び、いつも通り、作られた繁華な印象をこの周辺に与えていた。向こうの通りには、観光客に丁度良さそうなレトロな建物が並んでいて、旅行で来たらしき笑顔のグループが夜の散歩をしていた。私は、帰ってきたのだ。
私のズボンの尻ポケットに入れていたスマホが独特のリズムで震えたので取り出すと、夫から『大丈夫?』とラインが届いていた。私は大きな丸を作る軟体生物のスタンプを即座に送り、スマホを仕舞って歩き出す。近くに停めた自転車を回収して二十分もすれば、家に帰れるだろう。
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